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藤原顕忠

平安時代前期から中期の公卿。藤原時平の次男。従二位・右大臣、贈正二位。子に藤原正輔、藤原重輔、藤原中輔、藤原信輔 ウィキペディアから

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藤原 顕忠(ふじわら の あきただ、昌泰元年〈898年〉 - 康保2年〈965年〉)は、平安時代前期から中期にかけての公卿藤原北家左大臣藤原時平の次男。官位従二位右大臣正二位

概要 凡例藤原 顕忠, 時代 ...

経歴

醍醐朝中盤の延喜13年(913年従五位下叙爵し、延喜15年(915年周防権守に任官する。延喜17年(918年)従五位上、延喜19年(919年右衛門佐に叙任されるが、その後の昇進は遅滞し、延長6年(928年)10年振りに昇叙されて正五位下となった。

朱雀朝に入ると、延長8年(930年従四位下右中弁と文官に転じて、承平3年(933年)左中弁、承平6年(936年)従四位上と昇進する。同年に兄・保忠が没すると藤原時平の嫡男格となり、翌承平7年(937年参議に任ぜられ公卿に列す。しかし、参議任官時の年齢は40歳と、他の兄弟と比べてもここまでの昇進は遅かった(兄・保忠は23歳、弟・敦忠は34歳)。議政官の傍らで、内蔵頭刑部卿左兵衛督を兼帯する。

天慶4年(941年)上﨟の参議5人(藤原元方源高明源清平藤原忠文伴保平)を超えて従三位中納言に昇任する。朱雀朝末にかけて左衛門督検非違使別当などの武官を務める一方で、中宮大夫として皇太后藤原穏子に仕えた。

兄弟の中で唯一長命を保ち、村上朝に入っても天暦2年(948年大納言、天暦4年(950年正三位、天暦9年(955年右近衛大将、天暦11年(957年)左近衛大将と昇進を続け、天徳4年(960年従二位右大臣に至る。

康保2年(965年)4月24日薨御。享年68。最終官位は右大臣従二位。没後、正二位贈位を受けた。

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人物

謙虚で控え目な人柄であったといい、饗応に使う家の広さ、外出時における先払いの下人の数、また使用する食器の質など、万事において大臣としては異例なほど質素に振る舞った。顕忠が藤原時平の一族の中でただ一人、菅原道真の祟りを受けることもなく長命を得たのは、こうした慎ましさの賜物であると噂されたという[1]

古事談』に夜ごと庭に出て天神を拝した話や、顕忠の家の大饗の際にあまりに家が見苦しいために尊者であった実頼も「風情のない所に来てしまった」と思ったが、引出物が自分の好みの馬であったため結果喜んだ、という話がある。

官歴

公卿補任』による。

系譜

  • 父:藤原時平
  • 母:源湛の女[2]
  • 妻:藤原朝見の女
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原正輔
    • 男子:藤原重輔
    • 男子:藤原中輔
    • 男子:藤原信輔
    • 女子:藤原師輔
    • 女子:行明親王妃

江戸時代出羽国矢島藩主となった生駒氏は、藤原元輔の後裔を称した[3]

脚注

参考文献

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