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藤原泰憲

平安時代中期から後期の公卿。藤原北家勧修寺流。正二位・権中納言。 ウィキペディアから

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藤原 泰憲(ふじわら の やすのり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家勧修寺流駿河守藤原惟孝の孫。播磨守藤原泰通の子。官位正二位権中納言

概要 凡例藤原泰憲, 時代 ...

経歴

後一条朝にて、乳兄弟であった春宮・敦良親王の春宮蔵人から典薬助左近衛将監を経て、長元3年(1030年)親王の御給により従五位下叙爵する。その後も、春宮権大進として敦良親王に仕える傍ら、長元7年(1034年)従五位上次いで正五位下と順調に昇進した。

長元9年(1036年)敦良親王が即位後朱雀天皇)すると、民部権少輔阿波守を兼ね、さらに長元10年(1037年禎子内親王中宮に冊立されると中宮権大進も兼帯した。長暦4年(1040年左衛門権佐検非違使佐)に任ぜられるが、この人事について後朱雀天皇、関白藤原頼通上東門院の強縁によるものとして批判を受けている[1]。さらに、翌長久2年(1041年)には五位蔵人右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得た。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇が即位すると引き続き五位蔵人を務め、永承3年(1048年)左少弁、永承5年(1050年)従四位上・右中弁、永承7年(1053年正四位下、天喜6年(1058年)権左中弁、康平5年(1062年)左中弁と、後冷泉朝でも弁官を務めながら昇進を続ける。またこの間、近江守因幡権守播磨守などの地方官も務めた。康平6年(1063年蔵人頭(頭弁)に補せられ、治暦元年(1065年参議兼左大弁に任ぜられて公卿に列した。

議政官の傍らで、左大弁・勘解由長官などを兼帯し、この間に治暦2年(1066年従三位、治暦3年(1067年正三位延久2年(1070年従二位と順調に昇進。後三条朝末の延久4年(1072年権中納言に任ぜられ、30年以上の長きに亘って務めた弁官の職を離れた。白河朝初頭の延久5年(1073年正二位に至る。

承保3年(1076年)病気のために辞表を上申するがまもなく却下される。承暦4年(1080年)には権中納言を辞して民部卿のみを帯びた。承暦5年(1081年)正月5日薨去享年75。

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官歴

要約
視点

公卿補任』による。

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系譜

尊卑分脈』による。

脚注

参考文献

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