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藤原泰通 (藤原惟孝の子)

平安時代中期の貴族。藤原北家勧修寺流。正四位下・春宮亮・播磨守。 ウィキペディアから

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藤原 泰通(ふじわら の やすみち、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族藤原北家勧修寺流駿河守藤原惟孝の子。官位正四位下春宮亮

経歴

若年時より左大臣藤原道長家司を務める。一条朝前期に六位蔵人を務めながら、左近衛将監主殿助式部丞を兼ね、長保2年(1000年従五位下叙爵した。

のち、中宮大進美作介を経て、春宮・敦成親王の春宮大進を務め、この間の寛弘8年(1011年正五位下に叙せられている。長和5年(1016年)正月に後一条天皇即位すると五位蔵人に補せられ、2月には民部権少輔を兼ねるが、まもなく春宮大進の功労によって従四位下に叙せられ、1週間ほどで蔵人を去った。翌寛仁元年(1017年美濃守に任ぜられると、治安元年(1021年)まで務め、この間の寛仁2年(1018年)従四位上、寛仁3年(1019年正四位下と後一条朝初頭に順調に昇進を果たした。

治安元年(1021年)妻の源隆子乳母をしていた春宮・敦良親王(のち後朱雀天皇)の春宮亮に任ぜられるが、この時点で美濃守任期満了後の解由状が提出されておらず、人々は驚き怪しんだという[1]。治安3年(1023年)には播磨守を兼ねる。万寿4年(1027年)の国司の任期満了後も引き続き春宮亮を務め、長元4年(1031年)にこれを帯びていた記録が残っているが、長元9年(1036年)の後朱雀天皇の即位までには没したとみられる。

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官歴

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系譜

尊卑分脈』による。

脚注

参考文献

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