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後朱雀天皇
日本の第69代天皇 ウィキペディアから
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後朱雀天皇(ごすざくてんのう、1009年12月14日〈寛弘6年11月25日〉- 1045年2月7日〈寛徳2年1月18日〉[1])は、日本の第69代天皇(在位:1036年5月15日〈長元9年4月17日〉- 1045年2月5日〈寛徳2年1月16日〉)。諱は敦良(あつなが)。幼名は犬宮[2]。
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略歴
要約
視点
後一条天皇の即位に伴い皇太子となった敦明親王が、寛仁元年(1017年)自ら皇太子を辞退したため、その後を受けて皇太子となる。同5年(1021年)道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、万寿2年(1025年)に待望の第一皇子親仁(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが悪く2日後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二皇子尊仁(後三条天皇)始め一男二女を出産、それとは対照的に兄後一条がついに皇子の誕生を見ぬまま崩御したため、その後を受けて即位した。
即位後は関白藤原頼通が養女嫄子を入内させて中宮に立てたのを始め、その弟藤原教通が娘生子を、同じく藤原頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。
この時期荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。天皇は長久元年(1040年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もある)。
治世の間皇后禎子内親王とその皇子尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が里内裏東三条第において病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。病(肩の悪性腫瘍)により寛徳2年1月16日(1045年2月5日)、親仁(後冷泉天皇)に譲位し、太上天皇となる。その2日後に出家、同日崩御。宝算37。
1945年(昭和20年)2月13日、宮城賢所仮殿木階下にて後朱雀天皇九百年式年祭の拝礼が行われた。また、陵所において後朱雀天皇山陵九百年式年祭の儀が行われ、奉幣のための勅使として掌典の九条道秀が遣された[3]。
在位中の重臣一覧
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系譜
系図
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
関連作品
- 篠綾子『紫式部の娘。 賢子はきめる!』(静山社、2023年)
脚注
外部リンク
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