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西園寺寛季
江戸時代後期の公卿。二条治孝の三男?四男?。母は家女房。正二位・権中納言。西園寺家33代 ウィキペディアから
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西園寺 寛季(さいおんじ ひろすえ)は、江戸時代後期の公卿。左大臣・二条治孝の三男。左大臣・西園寺賞季の養子。官位は正二位・権中納言。西園寺家33代当主。主に光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)の二帝に仕えた。
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経歴
二条治孝の三男として生まれたが、西園寺賞季の男子たちが相次いで早世し、相続人がいなくなっていたため、この寛季が西園寺家に養子に入って相続することとなった。寛政6年(1794年)に叙爵し、以降清華家当主として速いスピードで累進し、寛政10年(1798年)には従三位となり公卿に列した。文化3年(1806年)から文化9年(1812年)にかけてと文政3年(1820年)から天保3年(1832年)の二度にかけて権中納言を務めたが、何を思ったか天保3年(1832年)に46歳にして出家すると以降は朝廷に出仕しなくなった。
唯一の子である治季は、父に先立って文政9年(1826年)に薨去している。治季の死後、治季の子師季が誕生しているが、誕生直後であるので、有栖川宮韶仁親王の王子を養子とし、西園寺公潔として西園寺家を相続させた。なお、治季の実子の師季は、公潔が天保7年(1836年)に19歳にして薨去したために、その後を受けて西園寺家を相続している。
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系譜
脚注
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