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西本願寺本三十六人家集
平安時代末期の『三十六家人家集』の装飾写本 ウィキペディアから
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西本願寺本三十六人家集(にしほんがんじぼん さんじゅうろくにんかしゅう)は、三十六歌仙の和歌を集めた平安時代末期の装飾写本である。三十六人家集のまとまった写本としては最古のもので、国宝に指定されている。京都市・西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)の所蔵である。
概要

三十六歌仙の和歌を歌仙別に1帖ないし2帖の冊子としたものである。人麻呂集、貫之集、能宣集については上下2帖構成とするため[注 1]、全体では39帖からなる。
西本願寺に所蔵されるのは、平安時代(1110年頃)の原本が32帖、平安時代末の古補写本が1帖(兼輔集[注 2]、江戸時代の補写本[注 3]が4帖(人麻呂集上・下(道晃法親王筆)、業平集(日野弘資筆)、小町集(烏丸資慶筆))、昭和4年(1929年)の分割(後述)の際に作られた田中親美(たなかしんび)による「貫之集下」「伊勢集」の極めて精巧な復元模写本が2帖[注 4]である[3][4]。昭和の補写本2冊を除く37帖が、付属の後奈良天皇宸翰女房奉書1幅と共に国宝に指定されている。
体裁は縦約20cm、幅約16cmの紙本で、装丁は粘葉装(でっちょうそう)[注 5]。各帖には彩色下絵、金銀の箔、雲母摺(きらずり)の地紋、墨流し、破り継ぎ[注 6]など、あらゆる料紙装飾技法が駆使されており、特に破り継ぎは世界でも最古のコラージュ技法として知られている[5]。伝世した平安時代の装飾写本の中で、『元永本古今和歌集』『金沢本万葉集』などと並び最も豪華な装飾が施されたものの一つである。表紙は藍または緑の羅(絹)、みかえしは綾(絹)で、藍の表紙に限って紗を芯にしていた[2]。ただし、現在は紙を入れて補強してある。表紙の羅にも主として銀泥で山水画が描かれている。
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料紙・装飾
江上綏の提唱以来、5分類が使用されてきている[2][6]。 継紙や大きな絵画的下絵がある華麗な料紙は、IV類とV類のなかでも、量的には1/3以下で、下記、I類からIII類のように、から紙[注 7]や着色した厚様[注 8]に、銀泥や金泥で描き模様を描いた料紙が多い。
制作年代と筆者
天永3年(1112年)3月18日の白河法皇六十の賀に進上するものとして制作されたという久曾神昇の推定が定説になっている[7]。
筆者は、原本が断簡すら存在しない小町集を除き、書風から20人と推定されている。大部分は筆者名が不明であるが、数人、確定・推定されている。
- 第四筆、伊勢集(石山切)、友則集、斎宮女御集。同筆書跡無し。済円(世尊寺家、1079年~1142年~)筆説あり[9]。
- 第五筆、家持集、能宣集上、能宣集下。『元暦校本万葉集』巻第十九(東京国立博物館蔵)と同筆。藤原長忠筆説あり[9]。
- 第六筆、赤人集。伊予切和漢朗詠集集中部(上巻三四丁裏から下巻七丁裏四行までの331行)と同筆か[9]。藤原章綱説あり[9]。
- 第七筆、素性集、業平集(尾形切)、兼輔集(推定[注 13])。伊予切和漢朗詠集後部(下巻七丁表五行から終わりまで601行)と『元暦校本万葉集』巻第二と同筆か[9]。藤原盛経筆説あり[9]。
- 第八筆、遍昭集、頼基集、敏行集。伝藤原公任筆「古今和歌集切(唐紙)」「拾遺和歌集切(唐紙)」 と同筆。藤原忠実筆説あり[9]。
- 第九筆、猿丸集、敦忠集、是則集。同筆書跡無し。藤原家政筆説あり[9]。
- 第十筆、朝忠集、公忠集。藤原宗忠筆説あり[9]、これが正しいとすると宮内庁書陵部蔵『中右記』原本と同筆と言える[9]。
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伝来
建長4年には蓮華王院の宝蔵にあった[注 14]。その後の所在は不明であるが、天文18年(1549年)1月20日(旧暦)に後奈良天皇から本願寺証如に与えられた。国宝の付属指定とされる「後奈良天皇宸翰女房奉書」はこの伝来に関わる資料である。また、証如の天文日記にも拝領記録がある[注 15]。宮内庁勤務の歌人・書家大口周魚が 明治29年(1896年)8月大谷光尊の依頼で本願寺の古書調査をし、江戸時代中期以降、存在が忘れ去られていた本願寺本を再発見した[10]。兼輔集がどの時点で補写本に替えられたかは不明である。
後世の散逸状況
この下賜の時点では、38帖完存していたらしいが、その後ほどなく一部が散逸していったとみられる。人麻呂集と業平集は分割され、それぞれ「室町切」「尾形切」と呼ばれている。室町切は、手鑑『藻塩草』(京都国立博物館蔵[11])と手鑑『大手鑑』(陽明文庫蔵、共に国宝)に所載する2葉のみである。尾形切は15葉ほど現存し、根津美術館[12]、東京国立博物館[13]、政秀寺などに分蔵。順集からは古い時代に切り取りがあり、11葉が各所に所蔵されている。重ね継ぎがあるものを糟色紙、ないものを岡寺切と呼んでいる。仲文集からも1葉切り取りがある。
伊勢集と貫之集下は、昭和4年(1929年)に冊子の形を解体して一葉ずつの断簡に分割された。これは宗教女子大学(現在の武蔵野大学)設立の資金に当てるために、大谷光瑞が益田鈍翁らの助言を得て実行された[6]。これらの断簡は、後奈良天皇から下賜しされた当時、本願寺が大阪石山の地にあった事にちなんで、鈍翁が「石山切」(いしやまぎれ)と名付けた。両帖合わせて三百数十頁あるものを32組に分け、1組約10枚2万円で売却されたという[14]。現在は掛軸などに改装されて、各地の美術館や収集家に分蔵されている。
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ギャラリー
参考文献
- 飯島春敬、久曽神昇『国宝西本願寺三十六人集』越後屋書房、1944年 。
- 飯島稲太郎編集 『西本願寺三十六人集の研究』 書芸文化新社三十六人集刊行会、1976年6月30日
- 江上綏「本願寺本三十六人集表紙絵の復元と考察」『美術研究』第268号、国立文化財機構東京文化財研究所、1970年3月、1-38頁。
- 久曾神昇 『西本願寺本三十六人集精成』 風間書房、1966年
- 久曾神昇 『西本願寺本三十六人集精成 新訂版』 風間書房、1982年9月10日、ISBN 4-7599-0248-1
- 久曾神昇 「国宝西本願寺本三十六人集残存全筆者」『汲古』第41号、汲古書院、2002年6月、pp.1-17。
- 小松茂美「“古筆”の方法 A Method of “Kohitsu” -- How to Identify the Writers of “Kohitsu”--(特集: 国語史資料論)」(pdf)『国語学』第76号、国立国語研究所、1969年、35頁。
- 小松茂美「巻子本和漢朗詠集」解説『古筆学大成』第14巻、講談社、1990年。
- 木下政雄 『三十六人家集』 至文堂〈日本の美術 168〉、1980年5月。
- 島谷弘幸「本願寺三十六人歌集 ─平安朝の文学・美術・工芸の至宝─」東京国立博物館編集『御影堂平成大修復事業記念 西本願寺展』 NHK NHKプロモーション、2003年、pp.20-25。
- 田中親美『西本願寺本三十六人集』日本経済新聞社 。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(一)」『書藝』第4巻第8号、平凡社、1934年。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(二)」『書藝』、平凡社。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(三)」『書藝』、平凡社。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(四)」『書藝』第5巻第1号、平凡社、1935年1月。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(五)」『書藝』第5巻第2号、平凡社、1935年3月。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(六)」『書藝』第5巻第3号、平凡社、1935年4月、2-11頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(七)」『書藝』第5巻第4号、平凡社、1935年5月、2-10頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(八)」『書藝』第5巻第5号、平凡社、1935年6月、2-7頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(九)」『書藝』第5巻第6号、書芸社、1935年8月、2-10頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(十)」『書藝』第5巻第7号、書芸社、1935年9月、2-7頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(十一)」『書藝』第5巻第8号、書芸社、1935年10月、2-9頁。
- 田中親美「本願寺三十六人家集の研究(十二)」『書藝』第5巻第9号、書芸社、1935年12月、2-10頁。
- 田中親美 (監修)、木下龍也 (解説) 『三十六人家集』 新潮社、1964年。
- 洋書
- Wescher, Herta. Collage, Abrams, 1971.
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脚注
関連文献
関連項目
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