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藤原家忠

平安時代後期の公卿。藤原師実の次男。従一位・左大臣。花山院家の祖・初代。中山。出家 ウィキペディアから

藤原家忠
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藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿藤原北家関白藤原師実の次男。官位従一位左大臣花山院左大臣と号す。花山院家の祖。

概要 凡例藤原 家忠, 時代 ...

経歴

延久4年(1072年白河天皇即位に伴って従五位下に叙せられ、承保元年(1074年侍従に任官する。承保2年(1075年右近衛少将に遷ると、承保3年(1076年)従五位上次いで正五位下、承保4年(1077年従四位下左近衛中将承暦2年(1078年)従四位上と、摂関家の子弟として近衛次将を務めながら順調に昇進した。

承暦4年(1080年正四位下次いで従三位に昇叙され公卿に列す。承暦5年(1081年正三位・右近衛中将、永保2年(1082年参議に叙任されるが、議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼帯した。翌永保3年(1083年)には早くも権中納言に昇進している。のち、中宮権大夫左衛門督を兼帯し、寛治2年(1088年)に正二位に叙せられた。

寛治5年(1091年権大納言に昇進。承徳3年(1099年)異母兄の関白内大臣藤原師通が急死するが、その子である忠実はまだ22歳の若年ですぐに摂関を継げる立場になかったため、家忠が摂関の候補になる。しかし、父の藤原師実は忠実を後継ぎに望み、家忠に対しては忠実の補佐を命じたため[1]、家忠が摂関を継ぐことはできなかった。家忠は権大納言昇進後に兼官を帯びていなかったが、康和5年(1103年)に右近衛大将を兼ねる。この際、近衛大将の官職を白河法皇の寵臣である権中納言・藤原宗通と争うも、堀河天皇の強い意向で家忠が任じられたとの逸話がある[2]

永久3年(1115年大納言に昇進。保安元年(1120年関白藤原忠実が娘の入内を巡って白河法皇の逆鱗に触れて内覧を停止され(保安元年の政変)、翌保安2年(1121年)関白を辞任する。この時、白河法皇は家忠を関白にするつもりで家忠自身もそれを望んだ。しかし、稲荷社祭礼の当日に家忠が酒宴乱行を行ったという風説をあげて、右大弁藤原顕隆が反対したため[3]、忠実の息子である忠通が関白に就任している。

保安3年(1122年右大臣に昇るが引き続き左近衛大将を兼帯した。鳥羽院政期初頭の天承元年(1131年従一位左大臣に至る。保延2年(1136年)5月12日に病気のため出家し、同月14日に薨じた。享年75。

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人物

近年では『大鏡』の増補部分の執筆者を令子内親王の皇后宮大夫をつとめた家忠であるとする説もある(大鏡巻末に見える「皇后宮の大夫殿書きつがはれたる夢なり」から、大鏡成立の下限とされる12世紀初頭に皇后宮大夫の職にあった家忠か、その後任の源雅定、もしくはもっと時代を繰り上げて11世紀の中宮大夫藤原能信か源顕房を作者に推定する向きもある)。すなわち摂関家寄りの村上源氏か摂関家分家の人物が書いたと考えるのである。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

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参考文献

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