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高野裕良
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高野 裕良(たかの ひろよし、1924年2月24日 - 2013年1月2日)は、山口県[1]出身のプロ野球選手(投手)。1946年と1947年の登録名は諏訪 裕良(すわ ひろよし)。
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経歴
下関商業学校では春3回、夏2回の計5度の甲子園に出場。投手と一塁手を兼任した[1]。
明治大学を経て、1946年に読売巨人軍へ入団[1]。川上哲治が復帰するまで一塁手を務めたほか、投手として6勝を挙げる。
1948年に金星スターズに移り、1950年には新球団の大洋ホエールズへ3度目の移籍[1]。この年はスライダーを武器に主に先発投手としてリーグ4位の25勝を記録[1]。その後も、1951年11勝、1952年17勝、1953年12勝と、林直明らとともに大洋草創期の投手陣を支えた。また、1951年に大洋の選手として初めてオールスターゲームに選ばれると、翌1952年も2年連続で出場した[1]。1勝に終わった1956年限りで引退した[1]。
選手としての特徴
スリークォーターからの速球を武器とした。1950年5月ごろの対松竹ロビンス戦で小鶴誠が打った痛烈なゴロを右の素手で受けたところ、親指と人差し指の間に裂傷を負い、人差し指も負傷した。しかし、このケガによってスライダーが投げられるようになり、同年の活躍に繋がったという[3]。
人物
酒好きで、同じく巨人から大洋に移籍した田中資昭と飲み始めると止まらず、二人でお銚子を40本並べていたことがあったという[3]。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 金星(金星スターズ)は、1949年に大映(大映スターズ)に球団名を変更
- 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更
記録
背番号
- 6 (1946年 - 1947年)
- 22 (1948年)
- 20 (1949年)
- 16 (1950年 - 1956年)
登録名
- 諏訪 裕良 (すわ ひろよし、1946年 - 1947年)
- 高野 裕良 (たかの ひろよし、1948年 - 1956年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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