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諏訪部定治 (喜右衛門)
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諏訪部 定治(すわべ さだはる[1])は江戸時代前期の旗本。江戸幕府御馬預。
経歴
江戸幕府旗本諏訪部定矩の次男として生まれた[1]。万治2年(1659年)7月13日父の隠居により兄定直が跡を継いで630石を知行し[1]、12月21日[2]定治に相模国高座郡・近江国栗太郡の内200石が分知された[1]。寛文13年(1673年)4月18日叔父黒沢定幸の子次郎兵衛定伯が死去すると[3]、その子が幼少のため[4]、延宝2年(1674年)9月3日御預の御馬方として[1]代わりに徳川家綱御用馬を管理し、屋敷も支給された[4]。延宝3年(1675年)9月10日御馬預となった[2]。
貞享元年(1684年)9月16日[1]中山勘兵衛守安と共に御馬買衆として陸奥国へ赴き、馬を買い付けた[5]。貞享2年(1685年)と貞享4年(1687年)には門奈助右衛門忠重と、元禄2年(1689年)にも中山守安と御馬買衆を務めたが[5]、元禄4年(1691年)4月御馬買衆制度は廃止が決まり、盛岡藩等に直接江戸へ納入させる御買馬制度に移行した[6]。同年10月[7]中山守安等と最後の御馬買衆として[8]盛岡馬丁会所を訪れた際、盛岡城中の丸へ宴会に招かれ、近習波々伯喜太郎が南部駒牽唄を披露し、翌年以降江戸納入時の歌として歌い継がれたという[8]。
元禄14年(1701年)8月21日職務上の不手際により小普請に左遷され、宝永7年(1710年)7月27日致仕した[1]。享保6年(1721年)10月9日死去し、雑司ヶ谷法明寺に葬られた[1]。法名は日寥[1]。
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親族
子孫
脚注
参考文献
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