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野里 (姫路市)

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野里 (姫路市)
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野里(のざと)は、兵庫県姫路市の地域名、および現行の町名。

  1. 播磨国風土記』に記される大野里(おおののさと、のち大野郷とも)の後身である、市川西部の地域名。
  2. 1.のうち、17世紀初頭の姫路城改修までに町場化した区域。1889年(明治22年)の市制施行時から姫路市に含まれる町丁のうち、姫路城の北側に伸びる野里街道沿いの各町(以下、野里(町場))。外曲輪内の内町、西の船場、東の神谷(南の飾磨津口を含む場合もある)と併せて姫路町と称した。
  3. 1.のうち、2.に含まれなかった野里村(のざとむら、埜里村とも)。1889年(明治22年)~1934年(昭和9年)まで水上村野里、以後は姫路市野里。
  4. 3.のうち、一部の区域を1995年(平成7年)に分離した後の現行町名である野里(以下、野里 (町丁))。一部を除き姫路市立水上小学校の校区。
  5. 姫路市立野里小学校の校区。2.と野里(町丁)から分離した町、および内町北東部の町とで構成される(以下、野里校区)。
  6. 播但線野里駅。ただし所在地は姫路市西中島(元水上村)。
概要 野里 (姫路市), 国 ...
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歴史

要約
視点

『播磨国風土記』においては大野は荒れ野の意であるという。「大野里」に付して「砥堀」とあることから、現在の砥堀まで含んでいたとみられる[2]。(志貴)嶋宮御宇天皇(欽明天皇)の頃、村上足島の上祖・恵多というものがこの地を欲したので里名としたとある[3][2]。『和名抄』には飾磨郡14郷の一つであるとされる。この大野郷の人が移住し開墾したのが近世の大野村、現在の上大野とされる[3]

中世の大野郷は江戸期の大野村・平野村(現・北平野)も含んでいたとみられる[3]。船場川は当時は二股川といい、現・梅ヶ枝町の日吉神社付近で東に分流してその流れを藍染川あるいは青見川と、さらに下流を長畝川と呼んだ[4]

中世の野里は日吉神社から大日町[注釈 1]にかけてを指していた。また橋之町・金屋町の付近は「白井の宿」という宿場町でもあった。野里は鋳物師集団の根拠地で、代々の芥田五郎右衛門が「播磨国中鋳物師惣管職」を称して鋳物師棟梁を務めていた[5]。各地の梵鐘に「野里」「芥田」「五郎右衛門」の銘が見られ、特に大坂の役の遠因となった鐘銘で知られる京都方広寺の梵鐘鋳造においては142人を引き連れて棟梁として参加している[6]。同寺に芥田氏は武士・豪族としての側面も持っていた[6]

野里西部は天正頃には但馬道沿いの鍛冶町・野里寺町・大野町・威徳寺町が商店街として発展している(野里(町場))。江戸時代においては全域が姫路藩領で[7]、野里村の南部は姫路城の外堀内に組み入れられて城下町を形成した[5]。この際に市川の付け替え、すなわち大日付近で締め切って以前の小川の方向へ付け替えたという説(姫路城史)があるが、後に姫路市史14巻[8]では付け替えを否定して元より市川は現在の流路であったとする説を提示している[7]。野里村の石高は「天保郷帳」では1058石余り、「旧高旧領取締帳」では埜里村として同高[5]、うち慶雲寺領66石余り[7]

1876年(明治9年)には野里村内に生野鉱山寮馬車道[7]、1894年(明治27年)には播但鉄道(現・播但線)が[9]開通する。1889年(明治22年)の姫路市制施行時には野里街道沿いの各町およびその北端に隣接する野里字梅ヶ坪の一部(現・梅ヶ枝町)が姫路市に属し、それ以外の野里村は白国・保城・西中島と共に水上村に属した[10]。野里(野里村)にある字名は、阿保殿・梅ヶ坪・鍛冶屋村・河田・北河原・大日河原・長塚・八反田・東河原・古邨(ふるやしき)・町裏・南河原・六反田である[11][注釈 2]

1944年(昭和19年)6月から1945年(昭和20年)11月に掛けて、現在の野里東同心町・野里新町・野里中町・野里東町・野里月丘町において住宅営団を施工者とする土地区画整理事業がおこなわれている[12]

1945年(昭和20年)7月3日深夜からの姫路空襲では坊主町・梅ヶ枝町・大日町が被災している[13]。坊主町の野里小学校(当時は国民学校)はほぼ全焼して校区内の寺院で分散授業をおこない、後に本町68番地へ仮校舎を設けていた時期に昭和天皇の行幸を受けている[14]。一方で野里街道沿いの他の地域は被災を免れ[13]、多数の町屋が現存している[15]

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広義の野里に含まれる町丁

要約
視点

凡例・補足:

  • 町名リンク先も参照。
  • 野里(市制当初より姫路市に含まれる区域)について:
    • 分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.10-12を元に現在の町名に対応させた。
    • 江戸時代の分類は特記無き場合は町人地。
    • 明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している。
  • 校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。
  • 野里より分割された町丁(睦町を除く)は住居表示実施済[16]
さらに見る 町名, 読み ...
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ゆかりの人物

脚注

参考文献

外部リンク

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