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関野弘行
日本の元騎手 ウィキペディアから
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関野 弘行(せきの ひろゆき、1957年1月10日 - )は、日本の元騎手。
来歴
要約
視点
1976年3月6日の中山第9競走5歳以上600万下・カネツデンコウ(6頭中5着)で初騎乗[1]を果たし、同13日の中山第1競走アラブ4歳以上オープン・リュウセイで初勝利[2]を挙げる。21日の中山第9競走5歳以上900万下では郷原洋行から乗り替わったグレートセイカンで勝利し[3]、8月7日・8日の札幌では初の2日連続勝利、8日には初の特別勝ちも記録[4]。1年目の同年から2桁となる11勝をマークし、1983年まで8年連続2桁勝利を記録[5]。
2年目の1977年には1月30日の東京で初の1日2勝[4]を挙げたほか、3月27日の中山第9競走5歳以上オープンではモリユタカでイシノアラシに先着してニシキエースの3着[6]、9月10日の東京第5競走3歳新馬ではアローサクラでファイブホープの2着[7]、12月25日の中山第7競走ひいらぎ賞ではハヤグリーンでシービークロスの3着[8]に入り、自身初の20勝台となる23勝[5]をマーク。
1980年には福島で初めて行われたカブトヤマ記念[9]でアローエクスプレス産駒アロージョイフルに騎乗しシンザン産駒フジマドンナ[10]の2着[11]、11月9日の福島第10競走福島民友カップでは的場均から乗り替わったハーディエースで皐月賞馬ハワイアンイメージの3着[12]に入り、3年ぶりで最後の20勝台となると同時に自己最多の24勝[5]をマーク。
1981年には目黒記念(春)で14頭中14番人気のグローリイロングに騎乗してジュウジアロー・メジロファントム・フジマドンナ・カシュウチカラに先着する5着[13]、1982年のオールカマーではキタノリキオーでメジロティターンに先着する3着[14]に入った。
1983年には後にライスシャワーの母となるマルゼンスキー産駒ライラックポイントで4月30日の新潟第8競走大日岳特別を勝利し[15]、秋の福島ではカネツリュウでアラブ王冠[16]、ベルレンケルで福島3歳ステークス[17]を制す。カブトヤマ記念では10頭中10番人気のアロージョイフルでタイテエム産駒の関西馬メイショウキング[18]、同じアローエクスプレス産駒のアローボヘミアン[19]とアタマ、ハナ差の接戦を演じて3着に入った[20]。
1984年は9勝と初めて1桁に終わり、1985年も9勝と2年続けて2桁に届かず、1986年に3年ぶりで最後の2桁勝利となる13勝をマーク[5]。
1986年1月25日の中京第9競走鈴鹿特別を16頭中16番人気のサクラショウリ産駒サクラミヨノオーで勝利し[21]、枠連万馬券の波乱を起こす[22]。
その後は1987年こそ9勝を挙げたが、1988年6勝、1989年5勝、1990年には遂に1勝と勝利数は年々減少していく[5]。
1991年3月10日の小倉第6競走4歳以上500万下・チヨノハニーが最後の勝利[23]となり、1992年4月4日の中山第12競走4歳以上500万下・モガミルイン(13頭中7着)を最後に引退[24]。
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騎手成績
脚注
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