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青山宗勝
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青山 宗勝(あおやま むねかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前国丸岡城主。官位は従五位下・修理亮。
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略歴
名前
諱は複数伝わり、『戦国人名辞典』 などでは宗勝、二本松市史に掲載されている『青山家系図』では貞勝としており[2]、『長命寺文書』では虎と記している[1]。また、『丹羽歴代年譜付録』によれば木下藤吉郎(豊臣秀吉)とは昵懇の仲であったとしており、谷口克広は『太閤記』に登場する青山小助と同一人物であると比定している[1]。
生涯
青山氏は元々織田氏に仕えてきた家柄で、父の正直は蜂須賀氏の家老である稲田氏に仕えていたという[3]。『武功夜話』によれば、宗勝は永禄10年(1567年)の稲葉山城の戦いや元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した[1]。天正10年(1582年)の本能寺の変後は丹羽長秀の下で山崎の戦いや翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに従軍し、戦功を挙げている[1]。
天正13年(1585年)閏8月、主家の内紛により丹羽長重の元から離れて羽柴秀吉の家臣となり、越前国に2万石を与えられて黄母衣衆に列した[4][5]。その後、九州征伐に従軍し、伏見城の普請を分担、その功労によって従五位下・修理亮[注 2]に叙任されるとともに豊臣姓を与えられた[4][5]。
慶長3年(1598年)8月、秀吉の死に際して遺物兼貞の刀を受領[5]。同年もしくは翌慶長4年(1599年)に越前国丸岡城主となり、4万6千石[注 3]に加増された[4][5]。
慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康の家臣である西尾吉次を通じて家康からの指示を仰ぎ、長重とともに越後の諸城を警備するよう指示されるが[6]、関ヶ原の戦いでは子の忠元[注 4]とともに西軍に属して北国口を防備したため、戦後改易された[4][5]。
その後の動向は諸説あるが、『二本松寺院物語』によると、改易されたのち宗勝は父の縁故を頼って阿波の蜂須賀家に寄食し、元和4年(1619年)12月10日に同地で死去したという。法名は清月道旬禅定門[7]。
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系譜
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脚注
参考文献
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