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飯田俊助
日本の軍人 (1846-1914) ウィキペディアから
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飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日[1][2]) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。
経歴
長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ[1]。長州藩家老福原家家臣・飯田直規(勘右衛門)の四男として生まれる[1][2]。幼名は益雄[1]。幼少期に両親を失う[1]。豊後国の広瀬青邨に漢学を学ぶが、下関戦争の報を聞き直ちに帰国、福原越後に従って国事に奔走[1]。その後奇兵隊に入隊し第二次長州戦争・戊辰戦争に従軍した[1][2]。
1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官[1]。1874年(明治7年)9月、歩兵中尉となり、西南戦争では歩兵第2連隊第一中隊長として田原坂の戦いに参加した[3]。1890年(明治23年)10月、歩兵中佐となり、第2師団参謀となる[4]。1894年(明治27年)11月、歩兵第20連隊長となり、翌月、歩兵大佐に昇進。1896年(明治29年)10月、歩兵第15連隊長へ異動。
1898年(明治31年)10月、陸軍少将に進級し歩兵第11旅団長に就任。日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦に参加。1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進み、戦病死した松村務本中将の後任として第1師団長に親補され、奉天会戦を戦った。1906年(明治39年)2月3日、後備役に編入[5]。1909年(明治42年)4月1日に退役した[6]
1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功績により男爵の爵位を叙爵し華族となった。
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栄典
- 1883年(明治16年)7月16日 - 従六位[7]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[8]
- 1895年(明治28年)1月21日 - 従五位[9]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正五位[10]
- 1903年(明治36年)12月25日 - 従四位[11]
- 1906年(明治39年)1月11日 - 正四位[12]
- 1907年(明治40年)6月21日 - 従三位[13]
- 勲章等
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親族
脚注
参考文献
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