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髙田延彦

日本のプロレスラー、総合格闘家、タレント、実業家 (1962-) ウィキペディアから

髙田延彦
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髙田 延彦(たかだ のぶひこ、本名:髙田 伸彦(旧リングネームの表記は高田 伸彦)、読みは同じ、1962年4月12日 - )は、日本の元男性プロレスラータレント実業家YouTuber神奈川県横浜市戸塚区(のちの泉区)出身。髙田道場主宰。レプロエンタテインメント所属。妻はタレント向井亜紀

概要 基本情報, 本名 ...
概要 髙田 延彦, プロフィール ...
概要 YouTube, チャンネル ...
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来歴

要約
視点

新日本プロレス

少年時代は長嶋茂雄に憧れ野球に打ち込んだ。少年野球ではオール橫浜に選出されるが、長嶋の引退と同時に野球熱が冷める[1]。その後アントニオ猪木に憧れ、中学生になったころプロレス入りを決意[2]。中学卒業後、アルバイトをしつつ独自の方法で体を鍛え[3]1980年新日本プロレスへ入門した[4]。道場では藤原喜明前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで技術を磨いた[5]。太りにくい体質ゆえ、新弟子時代は毎月のように体重にノルマが課せられ、クリアできなければ解雇される状態だった[6]

1981年5月9日、保永昇男戦にてデビュー[7]。当時の得意技は跳躍力を生かしたミサイルキック

1982年よりアントニオ猪木の付き人を務める[8]1983年カナダ遠征では猪木の付き人として同行。現地にて、欠場した初代タイガーマスクの代役として試合に臨み、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝利を収める。同試合は髙田のテレビ中継デビュー戦となり、ポストタイガーマスクとして一躍注目を集めた[9]。これまで前座で負け続けた先輩たち(新倉史祐小杉俊二)から勝利を収めたことで、代役としてテレビマッチにも抜擢され、「青春のエスペランサ」の異名がつけられた。当時の入場テーマ曲は「疾風のライダー」という楽曲でUWF移籍前の新日本時代に使用している。また、ジュニア戦線を意識してローリングソバットを多用した。

第1次UWF

1984年、師匠である藤原喜明の誘いで[10]、オープニングシリーズでは選手貸出しの形で参戦したUWF(旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)に移籍し前田日明と合流。当時はるかに格上だったマーク・ルーインから勝利を収め、同時期にUWFへ移籍した山崎一夫らと名勝負を繰り広げた。しかし、予定されていたアントニオ猪木の不参加などの要因により団体は崩壊。その後は新日本プロレスへ合流した。

新日本プロレス

越中詩郎を好敵手として「新・名勝負数え唄」と呼ばれる好試合を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争った[11]。また、当時『ワールドプロレスリング』にて実況を務めた古舘伊知郎によって「わがままな膝小僧」の異名を付けられた(キックを多用するファイトスタイルから。「戦うジェームズ・ディーン」「命知らずの美青年」とも)。この時期は女性人気が高く、バレンタインデーには段ボール2、3箱分のチョコレートが届いたという[12]

第2次UWF

1988年、前田日明、山崎一夫らと共に第2次UWFを立ち上げる。同団体では前田に次ぐナンバー2となり[13]、前田・山崎とともに「前高山」と呼ばれた[14]。一世を風靡した第2次UWFだったが、人間関係の不和から、1991年には前田のリングス藤原喜明藤原組、髙田のUWFインターナショナルという3団体に分裂。

UWFインターナショナル

UWFインターナショナルの設立、および社長に就任[15]。「最強」を肩書きに[16]団体の絶対的エースとして[17]ゲーリー・オブライト北尾光司スーパー・ベイダーサルマン・ハシミコフら強豪選手たちとの対戦で人気を博す。1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれた。

1994年4月より、フジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」にてキャスターを担当[18][19](自身の試合当日も生放送へ出演した)。1994年1月、タレントの向井亜紀と挙式を執り行った[20]

髙田以外に知名度のある選手がほぼ不在だったことに加え、スポンサーやテレビ放映のないUWFインターは1994年ごろ経営難に陥る。そこで社長業を務める髙田は精神的に追い込まれていった[21]。そんな中、1995年6月に「近い将来、引退します」とマイクで宣言[22]。同年7月には、参議院選挙にてさわやか新党から比例名簿順位2位で出馬するも落選[23]。8月、田村潔司からの「僕と真剣勝負してください」という挑戦を拒否している[24]。数々のトラブルや選手離脱により倒産が現実味を帯びたUWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切った。ところが、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」での大将戦となった武藤敬司IWGPヘビー級王者)戦に敗北。最強を標榜してきた髙田およびUWFインターにとって決定的なイメージダウンとなる[25]

1996年1月4日、東京ドームにて武藤を下しリベンジに成功。第18代IWGPヘビー級王者となり、IWGPすべての王座を獲得した。3月1日、UWFインターナショナルのリングにて防衛戦を行い、越中詩郎を破って初防衛に成功するも、4月29日、橋本真也に敗れ王座から陥落。その後、WARに参戦し、天龍源一郎と2度のシングルマッチを行った。天龍との試合はプロレス大賞の年間最高試合に選ばれている。しかしUWFインターの運営は混迷し、山崎に続いて、6月には田村潔司中野龍雄が退団[26]。 8月17日には、プロレス史上初となる真夏の日中に神宮球場大会を開催。髙田が同大会のメインイベントにて安生洋二に完全勝利したことでザ・ゴールデン・カップスが急失速。10月にはインディー団体「東京プロレス」に参戦。従来路線ではありえないブッチャーとのシングルマッチを組んでまで団体の存続を図ったが[27][28]、1996年12月にUWFインターナショナルは解散。

キングダムのサポート

選手の多くは新設された団体「キングダム」へ引き継がれた。すでにヒクソン・グレイシー戦を見据えていた髙田は意見の相違により所属せず、公開スパーリングと解説者としてかつての仲間をサポートするにとどまる。髙田は、経営者として興行に携わったUインターでの失敗から[29]、興行会社としてのプロレス団体ではなく所属選手を抱える格闘技道場として「髙田道場」を設立。

総合格闘家時代

キングダム草創期には、髙田道場所属選手やバーリトゥードの海外勢を招聘した総合格闘技興行「PRIDE」の運営に深く関わる。

Uインター時代の同門である安生洋二が仕掛けたヒクソン・グレイシーへの道場破りが返り討ちにあった因縁の結果、PRIDE初期には選手として活動。ヒクソン・グレイシーとの2度の対戦(PRIDE.1PRIDE.4)はいずれも敗北した。ちなみに、2度目のヒクソン戦敗北直後、3度目の対戦を望んでいる。エースクラスの日本人レスラーが総合格闘技で初めて敗北したヒクソンとの初戦はプロレスファンの深い失望を招いた。プロレスマスコミからもバッシングを受け、さらにアントニオ猪木からは「よりによって一番弱い奴がヒクソンの前にノコノコと出て行った」と酷評される[30]

その後もマーク・ケアーPRIDE.6)、ホイス・グレイシーPRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦)、イゴール・ボブチャンチンPRIDE.11)、ミルコ・クロコップPRIDE.17)、マイク・ベルナルドINOKI BOM-BA-YE 2001)などと次々と戦うが、引き分けとなったミルコ戦、ベルナルド戦以外は敗退。イゴール・ボブチャンチン戦からはメインイベンターの座から降りている。なお、PRIDE.5にてマーク・コールマンに勝利した髙田だが、コールマンはのちにこの試合がブック(八百長)だったことを事実上認める発言をしている(真偽は不明)。他選手による同様の試合は、ここまで長期間(20年以上)にわたってバッシングされることが珍しい。これに鑑みれば髙田の試合は、ファン・アンチいずれも異常に執着していることがうかがえる[31]

2002年11月24日、引退試合としてPRIDE.23にて田村潔司と対戦し、右フックで2R失神KO負けを喫した。試合後のマイクで田村に放った「お前、男だ!」という台詞は、のちの大会で頻繁に使用されることとなる[32]

引退後

PRIDE統括本部長に就任し、PRIDE中継における解説も行っていた。大晦日の特別興行「PRIDE男祭り」の開会宣言にて「お前ら男だ!」と叫び、選手を呼び込むパフォーマンスが話題となる。オープニングの演出は年々派手さを増し、2003年さいたまスーパーアリーナの屋上(地上60メートル)に立ち、2004年にはふんどし一丁で大太鼓を叩き、「男の中の男たち、出てこいやーっ!」と選手を呼び込んだ(のちにこのフレーズは髙田を形容するキャッチフレーズとなる)。その後も、タップダンス(2005年)やピアノ独奏(2006年)など趣向を凝らした演出で興行を盛り上げた。

一方、DSE主催のプロレスイベント「ハッスル」において、ハッスル1と『ハッスルGP2008』に電撃参戦する小路晃の記者会見に登場。なお、悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」とは、古くからの友人という設定。PRIDEと距離を置いてからも、小路晃や\(^o^)/チエ野口大輔レフェリーらが髙田道場主催の「ダイヤモンドキッス・カレッジ」へ参加するなど、ハッスルとは良好な関係にあった。また高田総統の化身として、ザ・エスペランサー(エスペランサー・ザ・グレート、エスペランサー・ザ・ゴッド)としてリングに上がり、グレート・ムタと対戦している。

ディズニーアニメーション映画「Mr.インクレディブル」にて声優に挑戦。そのほか、テレビドラマ「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い・第二部 愛する者のために」(日本テレビ)、ドリームステージピクチャーズ製作の映画「シムソンズ」、NHK大河ドラマ「功名が辻」「風林火山」、連続テレビ小説」に出演した。

2015年RIZIN FIGHTING FEDERATIONの統括本部長に就任。なお、RIZINでは女子格闘技も行うため、オープニングでの選手呼び込みが「強者(つわもの)たちよ、出てこいやーっ!」に変更された。男性のみ出場する際(RIZIN.21RIZIN.40の「RIZIN vs. BELLATOR 全面対抗戦」など)は「男の中の男たち -- 」となることもある。2018年のRIZIN.14をもって統括本部長を離任[33]。しばらく肩書きのないスポークスマン的な役割を担ったのち[34]、2020年のRIZIN.22より「キャプテン」に就任した[35]。2023年12月21日、キャプテンを辞職しRIZINから離脱する旨をインスタグラムにて発表。

2023年12月23日に行われた寺尾常史錣山部屋師匠)の告別式に参列した[36]

2024年7月17日、2022年8月に突如発症した発作性心房細動のため、同日に心臓アブレーション手術を受けたことを公表。投薬にて経過観察してきたが心身のストレスが避けられず手術を決断したという[37]

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タイトル歴

新日本プロレス
UWFインターナショナル
WAR
プロレス大賞
  • 1983年度プロレス大賞 努力賞
  • 1986年度プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(パートナーは越中詩郎
  • 1992年度プロレス大賞 最優秀選手賞
  • 1996年度プロレス大賞 年間最高試合賞(9月11日神宮球場、天龍源一郎 vs 高田延彦)

得意技

フィニッシュ・ホールド

ハイキック
右のハイキックでフィニッシュする。
腕ひしぎ逆十字固め

打撃技

エルボー
エルボー・スタンプ
張り手
ストレート掌底
パウンド
膝蹴り
グランドにて連続で放つバージョンを主に使用。
逆水平チョップ
延髄斬り
各種蹴り技
ローキックビックミドルキックハイキックローリング・ソバット
ニーリフト
ミサイルキック

投げ技

ブレーンバスター
高速ブレーンバスター
雪崩式ブレーンバスター
ドラゴンスープレックス
ジャーマンスープレックス
スロイダー
バックドロップ
ツームストーンパイルドライバー
ボディスラム
パワースラム

関節技

腋固
膝十字固め
アキレス腱固め
ヒールホールド
サソリ固め
チキンウィングフェイスロック
チキンウィング・アームロック
ストレートアームバー

フォール技

逆さ押さえ込み
スクールボーイ
スモール・パッケージ・ホールド
ジャパニーズ・レッグ・ロールクラッチ

入場テーマ曲

経歴

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戦績

さらに見る 総合格闘技 戦績 ...
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
×田村潔司2R 1:00 KO(右フック)PRIDE.232002年11月24日
マイク・ベルナルド3分3R終了 時間切れINOKI BOM-BA-YE 20012001年12月31日
ミルコ・クロコップ延長2R終了 時間切れPRIDE.172001年11月3日
×イゴール・ボブチャンチン2R 3:17 ギブアップ(マウントパンチ)PRIDE.112000年10月31日
×ホイス・グレイシー15分1R終了 判定0-3PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦
【1回戦】
2000年1月30日
アレクサンダー大塚2R 1:32 スリーパーホールドPRIDE.71999年9月12日
×マーク・ケアー1R 3:04 チキンウィングアームロックPRIDE.61999年7月4日
マーク・コールマン2R 1:44 ヒールホールドPRIDE.51999年4月29日
×ヒクソン・グレイシー1R 9:30 腕ひしぎ十字固めPRIDE.41998年10月11日
カイル・ストュージョン1R 2:18 ヒールホールドPRIDE.31998年6月24日
×ヒクソン・グレイシー1R 4:47 腕ひしぎ十字固めPRIDE.11997年10月11日
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人物

  • 第一次UWF旗揚げ前の新日本プロレスは、暗黙の了解として観戦マナーが悪い観客を会場の外につまみ出していた。1982年9月21日大阪府立体育館大会では、仲野信市とともに観客2名をアリーナから倉庫へ連れ込み、ロープで縛りつけたという。愛知県体育館では、前田日明の命令により3階席でやじを飛ばしていた観客を会場からつまみ出した。「帰ってやるから、一発殴らせろ!」と高田に対して挑発する観客と小競り合いになるが、仲裁に入った前田が「おまえ、手出したんだから殴らせてやれよ」と髙田に提案し、その観客から一発殴られたという[38]
  • ジャイアント馬場は若手時代の高田を評価していた。第一次UWF崩壊時には、前田と高田を全日本プロレスに所属させるべく、実際に高田とホテルで面会している[39][40]
  • 2002年KEIRINグランプリ出場選手の「グランプリレーサーオリジナルユニフォーム」のデザイン監修を担当した[41]。このデザインは2020年現在も継続使用されている。
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メディア出演

映画

ドラマ

吹き替え

その他のテレビ番組

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オリジナルビデオ

  • むこうぶち 高レート裏麻雀列伝 シリーズ(2007年6月 - 2020年12月、オールインエンタテインメント) - 安永萬(プロ雀士)役
    • むこうぶち 高レート裏麻雀列伝(2007年6月25日)
    • むこうぶち2 高レート裏麻雀列伝 鬼の棲む荒野(2007年7月25日)
    • むこうぶち3 高レート裏麻雀列伝 裏プロ(2008年4月25日)
    • むこうぶち4 高レート裏麻雀列伝 雀荘殺し(2008年6月25日)
    • むこうぶち5 高レート裏麻雀列伝 氷の男(2008年12月25日)
    • むこうぶち6 高レート裏麻雀列伝 女衒打ち(2009年6月25日)
    • むこうぶち7 高レート裏麻雀列伝 筋殺し(2010年3月19日)
    • むこうぶち8 高レート裏麻雀列伝 邪眼(2010年12月17日)

テレビゲーム

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著書

関連書籍

出典

関連項目

外部リンク

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