トップQs
タイムライン
チャット
視点
魏攻略
春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから
Remove ads
魏攻略戦(ぎこうりゃくせん)は、紀元前225年に秦が魏を滅ぼした戦い。
概要
戦国七雄のうち韓・趙[注 1]・燕[注 2]が滅び、秦は魏の攻略を本格的に行った。函谷関の戦いの直後から秦の攻撃は始まっていて、敗戦を重ねていた。
紀元前226年、秦の将軍王賁はまず楚を攻め、楚軍を大いに破って10余りの城を落とした。その後、北上して魏を攻めた[1][2][3]。当時、楚は防衛に専念していて、斉は傍観していた[4]。よって援軍が来るあてもなかった。
紀元前225年、王賁が国都大梁を包囲した[1]。大梁は睢水、潁水、鴻溝の交差する位置にあり、城を囲む堀は非常に広く、守るに易く、攻めるに難い城であった。そのため、秦軍の攻めを寄せ付けなかった。そこで王賁は大梁に黄河の水を引いて水攻めにした。3か月後、大梁の城壁が破壊され、魏王假は降伏し、魏は滅亡した[1][5]。魏王假は処刑され[5]、魏の諸公子も皆殺しにされたという[6]。
逸話
かつて信陵君は安釐王に、「韓が滅亡した後、秦が軍を進めてくるとなればそれは魏となるでしょう。秦は既に懐、茅、邢丘を領有し、垝津に城を築いて河内に侵攻する準備を整えれば、河内の共と汲は危機に瀕することになります。また、秦は鄭の地を有し、さらに垣雍を得ることができれば、熒澤の水を引き込んで大梁を水攻めにすることができ、そうなれば大梁は必ず滅びるでしょう」と進言しており、秦が魏を滅ぼした戦略について予見している[7]。
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads