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趙攻略
春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから
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趙攻略戦(ちょうこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部で秦が趙を滅ぼすまでの戦い。
攻略戦
要約
視点
鄴の戦い
→詳細は「鄴の戦い (紀元前236年)」を参照
紀元前236年、趙の将軍の龐煖が燕に侵攻し[1]、国内が手薄になっている隙を突き、秦軍は趙へ侵攻した。総大将は王翦[2]、副将は桓齮、末将は楊端和である[3][4]。
まず、秦軍は鄴の周辺の9城を落とした[3][4]。王翦は閼与と轑陽を攻め、それから全ての兵を併せて一軍とした[3][4]。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍を10分の2にした精鋭部隊を率い、鄴と安陽を攻め落とした[4][5]。
平陽の戦い
→詳細は「平陽の戦い (紀元前234年)」を参照
紀元前234年、桓齮は趙の平陽と武城を攻めた。趙の将軍の扈輒が軍を率いて救援に向かったが大敗し、武遂で討ち取られた。秦軍は10万の首級を挙げた[6][7][8][9]。
紀元前233年、桓齮は東の上党に進軍し、太行山脈を越えて趙の深部に侵入し、赤麗と宜安を攻めた。桓齮は平陽で趙軍を攻撃し、これを破って宜安を奪取して、その将軍を討ち取った。桓齮は平陽と武城を平定した[7][10][11]。
肥下の戦い
→詳細は「肥下の戦い」を参照
同年、趙は李牧を大将軍に任じた。李牧率いる趙軍と桓齮率いる秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に肥(肥下とも)で秦軍は大敗し、桓齮は敗走した[8][12][11]。また、『戦国策』によると桓齮は討ち死にしたとある[13][14]。この功により李牧は武安君に封じられた[15][8][16]。
番吾の戦い
→詳細は「番吾の戦い」を参照
紀元前232年、秦は大規模な兵を動員し、軍を二つに分けて趙に侵攻した。一軍は鄴に到着し、もう一軍は太原に到着し、太原の軍は狼孟を占領した[17]。秦は番吾を攻めたが、李牧はこれを撃退し、秦軍を南の韓・魏の国境まで追いやった[11][12][18][19]。
邯鄲攻略

紀元前229年、秦は大規模な兵を動員し、趙に侵攻した。旱魃や地震災害[20][21]につけこむ形での侵攻であった。王翦は上地(上郡、現在の陝西省北部)の兵を率いて太行山脈の井陘を抜き、楊端和は河内(現在の河南省新郷市一帯)の兵を率いて進軍し、二方面から趙の国都邯鄲を攻めた。羌瘣も将として趙軍を攻撃し、楊端和が邯鄲を包囲したが、李牧と司馬尚がこれを防いだ[19][22]。『史記』刺客列伝によると王翦が数十万の兵を率いて漳・鄴に布陣した時、李信が太原・雲中に出征していたとされる[23]。
苦戦した秦は、幽繆王の寵臣の郭開、趙の太后の悼倡后に賄賂を渡して反間計を仕掛けた。「李牧と司馬尚が反逆を企んでいる」という郭開の讒言を幽繆王は聞き入れ、李牧を解任し、趙葱と斉の将軍顔聚に指揮を執らせるよう命じた。李牧はこの命令を受け入れなかったため、密かに捕らえられて斬首され、司馬尚も罷免された[19][24][25]。
紀元前228年、李牧処刑の三か月後、王翦は趙軍を急襲して大いに破り、趙葱を討ち取った。王翦と羌瘣は趙の東陽(太行山脈以東、泜水から漳水上流の一帯など諸説ある)の地を全て平定し、幽繆王を捕らえ、趙を滅ぼした[19][22]。『史記』趙世家では前年に趙葱が敗れ、顔聚は逃げ去ったため、幽繆王は降伏したとなっており、紀元前228年10月に秦軍が邯鄲を占領したとある[26][注 1]。
自らが誕生した地である邯鄲に入った秦王政は、かつて自分が邯鄲に人質としていた時に母の趙姫の実家と仇怨があったもの者たち全てを坑殺して秦へ戻った[19][22][27]。
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戦後
→詳細は「燕攻略」を参照
幽繆王の兄の公子嘉は一族数百人を率いて北方の代に逃れ、そこで自立して代王を名乗り、代国を建てた[22][24][28][27]。燕と連合して秦に対抗したが、紀元前222年に秦の王賁によって代王嘉は捕虜とされ、滅亡した[22][29]。
脚注
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