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斉攻略
春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから
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斉攻略戦(せいこうりゃくせん)は、紀元前221年に秦が斉を滅ぼした戦い。斉は戦国七雄の最後の一国であり、これにより天下は秦によって統一され、200年近く続いた戦国時代が終結した。
攻略戦
紀元前265年、斉の襄王が崩御し、子の建が即位した。当初は王后の君王后が輔政したが紀元前249年に君王后が逝去し、后勝が国政を執り行うようになった。后勝は秦から賄賂を受け取り、多くの賓客を秦に遣わした。秦はそれら客臣にも賄賂を与え、内通者に仕立て上げた。斉王建は后勝や客臣の提言を聞き入れ、軍事を強化せず、秦を攻める合従にも加わらず、五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観した[1][2][3]。
紀元前222年に燕が滅亡し、五国が滅びると、斉王建と后勝は秦が侵攻することを恐れ、軍を西方の国境に配置した[4]。
紀元前221年、秦王政は斉が秦の使者を拒んだことを口実に、斉の攻略を王賁に命じた[4]。蒙恬・李信も斉攻略軍に加わった[5]。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、斉の北に位置する燕から南下し、斉の国都臨淄へ侵攻した。秦軍が臨淄に入った時、民は誰一人抵抗しなかったという。秦は斉の客臣の陳馳[6]を使者として遣わし、斉王建に五百里の封地を与えると約束した。この勧告を受けて斉王建は降伏し、斉は滅亡した[7][8][9]。
その後、斉王建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移されたが、松柏の林の中に幽閉され、食糧を絶たれて餓死した[8][9]。秦は斉の地に斉郡と瑯琊郡を置いた。
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影響
→詳細は「秦朝」を参照

斉が滅んだことで、秦は天下を統一し、統一王朝の秦朝となった[10]。秦の王政は初めて「皇帝」と名乗った[11]。統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[11]。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[12]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法(法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒も知られる[13]。
脚注
参考文献
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