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鷹司政煕

江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白、左大臣、准三宮。鷹司家22代。子に定演(1809.1.1 - 1856.6.29、醍醐寺三宝院門主、東寺長者、法務大僧正法印、自足心院、長君、母は家女房) ウィキペディアから

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鷹司 政煕(たかつかさ まさひろ)は、江戸時代中期の公家藤氏長者従一位関白

概要 凡例鷹司政煕, 時代 ...

概要

父は閑院宮直仁親王東山天皇皇子)の第四王子で、鷹司基輝養子となって藤原姓鷹司家を継承した鷹司輔平。母は家女房。

兄妹に徳大寺実堅、昌子(伏見宮邦頼親王妃)、富子(有栖川宮織仁親王妃)、興姫(仙台藩伊達斉村室)。正室徳島藩主・蜂須賀重喜の娘・儀子側室に豊岡斐子と井上梅。

光格天皇(現在の皇室の祖)は従兄にあたり、寛政7年(1795年)から19年にわたって関白を務めた。政煕自身は文化2年(1805年)から関白在任の長期化による人事停滞を危惧して辞意を示すが、光格天皇も江戸幕府も政煕の能力を評価し、朝廷の運営や朝幕関係の安定になくてはならない人物であるとして度々慰留された。また、この慰留には天皇や幕府から関白として「非器」とされていた左大臣二条治孝の関白就任を阻止する意図もあった。その結果、治孝の後ろ盾であった後桜町院が崩御するまで政煕は関白に留まることになった[2]

天保12年2月6日に死去。翌7日に朝廷に報告が届けられたが、奇しくも同日江戸幕府より大御所徳川家斉(同年閏1月7日死去、同30日公表)の逝去と諡号選定の要請が届けられる。関白であった息子の鷹司政通は喪中であるために公式には審議には加わっていなかったが、家斉の諡号案の1つであった「文恭院」を気に入って勝手に政煕の諡号として二尊院(鷹司家の菩提寺)と朝廷に届けてしまい(朝廷では12日付で受理)、2月25日には政煕の葬儀が行われた。ところが、3月18日になって江戸から家斉の諡号が「文恭院」に決まったことが報告され、政通の流用が発覚してしまう。政通は窮地に陥ったが、政通のブレーンであった伊藤東峯古義堂第5代)の咄嗟の判断で政煕の諡号は「文思恭院」の誤りであるとして問題を回避することに成功した。これが偶然の一致であったのか、政治的な思惑が絡んでいたものなのかは不明である(少なくても喪中の政通に変わって朝議を主導しておりかつ「文恭院」の推挙者であった可能性が高い近衛忠煕や諡号案の審議に加わった公卿達は政通の行為に気付いていた筈で、幕府側がこの情報を知る可能性があったと考えられる)[3]

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家族・親族

ほか

系譜

東山天皇男系三世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の子。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

略歴

脚注

関連項目

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