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近衛忠煕

江戸時代後期の公卿、近衛家27代 ウィキペディアから

近衛忠煕
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近衛 忠熈(このえ ただひろ、旧字体󠄁衞 忠熈)は、江戸時代後期から明治時代中期にかけての公卿官位従一位左大臣・関白正一位勲一等。翠山と号す。

概要 凡例近衛 忠熈, 時代 ...

左大臣を務めた近衛基前の長男として生まれ、近衛家の第27代当主となった。母は徳川宗睦の養女(松平勝当の娘)・静子。左大臣や関白などを歴任し、公武合体派として活動した。

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経歴

左大臣の近衛基前の長男として生まれた。安政3年(1856年)には島津氏の篤姫(天璋院)を養女としている。

安政4年(1857年)、左大臣となるが将軍継嗣問題一橋派に属し戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し落飾謹慎する。

文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔熙が後任となった。東京奠都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、彼は1873年(明治6年)6月12日に長男忠房に家督を相続させるも[1]翌月に死去、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、子の忠房が没して5年後の明治11年(1878年)のことである[2]。 明治31年(1898年)3月18日、死去。

死後6年経った明治37年(1904年)に正一位を追叙された。江戸幕府征夷大将軍は代々が死後正一位を追贈されているが、最後の将軍徳川慶喜は従一位に留め置かれており、また忠熙の後に関白・摂政を務めた各人も何れも従一位止まりであり、2015年の時点では、正一位に昇った人物の中では最も後年まで存命であった人物である。なお、存命中に正一位に叙された最後の人物は三条実美(最後の太政大臣)、最後に没後追叙として正一位に叙せられたのは織田信長(死後300年以上経過した後)である。

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人物

  • 忠熙が生存していた頃、近衛家では3月の桃の節句に雛壇を設けず、緋毛氈を畳に敷き、その上に雛人形を並べていた。その理由は、内裏雛は一般に天子様を象った物とされるが、天子様は神であり、そのお姿を写すのは不敬であるので天子様であろうはずはない。あの人形は公家を象った物に相違なく、ならば公家のトップである近衛家の人間がそんな物を檀上に飾って下から仰ぎ見なければならない道理はないということであった。ただし忠熙が死んだあとは普通に雛壇の上に飾るようになった[3]

家族・親族

系譜

近衞家

近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。

皇室との関係

後陽成天皇男系九世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

官歴

※日付=明治5年までは旧暦

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栄典

登場作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

関連項目

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