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1966年モナコグランプリ

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1966年モナコグランプリ
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1966年モナコグランプリ (1966 Monaco Grand Prix) は、1966年のF1世界選手権の開幕戦として、1966年5月22日モンテカルロ市街地コースで開催された。

概要 レース詳細, 日程 ...

本レースからエンジンの最大排気量が1.5リッターから3.0リッターに倍増された。モナコグランプリの開催は24回目である。

レースは100周で行われ、BRMジャッキー・スチュワートが2位のロレンツォ・バンディーニフェラーリ)に40秒の差を付けて優勝した。スチュワートは前年のイタリアグランプリ以来2回目の勝利だった。チームメイトのグラハム・ヒルは3位に終わった。完走したのは先述した3人と、チーム・シャマコ・コレクトでBRMを駆るボブ・ボンドゥラント英語版の僅か4台だった。

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レース概要

要約
視点
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マクラーレンM2BでF1デビュー(ドニントン・グランプリ・コレクション所蔵)

新たな3Lエンジン規定の最初のレースはモナコで始まった。いくつかのチームが前年のエンジンやより重いスポーツカーレース用のエンジンを新しいレギュレーションに適合させた。1961年から1965年の1.5L時代に一大勢力となっていたコヴェントリー・クライマックスがF1撤退を決めたため、ロータスブラバムクーパーなどのイギリス系有力コンストラクターは、新たなエンジンを供給してくれるパートナーを探すことになった。フルコンストラクターのBRMは成功作の1.5L V8エンジンを水平対向化して上下2段に重ねたH型16気筒エンジンを開発したが、重く複雑になりすぎトラブルも多発したため、予選で登場したのみで実戦に投入するまでにはまだ時間が必要だった[1]。このエンジンはBRMの他、ロータスも使用することにしていたが、当面の間は両者ともタスマンシリーズ用の2L V8エンジン(BRMは自社、ロータスはクライマックス)[注 1]を使用することになる[2]。クーパーはマセラティV12エンジンを使用するが、基本設計は2.5L時代の1957年という古いものであった[3]。ブラバムはジャック・ブラバムの母国オーストラリアレプコV8エンジン(SOHC)を使用した[4]ブルース・マクラーレンは本年から自身のチーム「マクラーレン」からF1参戦を開始し、インディ500用のフォードV8エンジン[注 2]を使用する[5]ダン・ガーニーも自身が設立したオール・アメリカン・レーサーズのF1部門をイギリスに置き、「アングロ・アメリカン・レーサーズ(イーグル)」としてF1への参戦を開始し、ウェスレイク英語版V12エンジンを使用することにしていたが、それが完成するまでの間は古いクライマックスFPF直列4気筒エンジン(2.7L)を使用する[6]。一方、フェラーリはスポーツカー用エンジンを応用した3L V12エンジンを搭載した新車312を投入し[7]、開幕前にはチャンピオン争いの本命と目されていた[8]。しかし、312の開発は遅れ、前年の158にタスマンシリーズ用の"ディーノ"V6エンジンを搭載した246-66英語版と併用することになった[9][10]ホンダリッチー・ギンサーロニー・バックナムの両者と引き続き契約したが、新型3Lエンジン搭載車の完成まで参加を見合わせることにした[11][注 3]

主要チームのドライバーは、ロータスが前年度王者のジム・クラークと、1964年以来のF1復帰となるピーター・アランデル英語版[12]、BRMはグラハム・ヒルジャッキー・スチュワートが残留[12]、ブラバムはジャック・ブラバムと前年に数戦参戦したデニス・ハルム[10]、フェラーリはジョン・サーティースが前年秋のモスポート・パークでの事故から復帰し、引き続きロレンツォ・バンディーニとコンビを組む[10]。クーパーはヨッヘン・リントが残留し、ホンダの新車の完成を待つギンサーが加わった[6]。タイヤメーカーも1964年まではダンロップの独壇場だったが、前年にグッドイヤーが参入し、本年からはグッドイヤーと同じアメリカ合衆国ファイアストンもF1に参入した[13]

いくつかのセッションで、映画「グラン・プリ」の撮影が行われた。本レースはマクラーレンのコンストラクターとしてのデビューレースであり、ブラバムの新車BT19英語版にはレプコV8エンジンが搭載された。マクラーレンはニュージーランドの伝統的なレーシングカラーである緑、黒、銀[注 4]ではなく、白地に緑の帯でデビューした。映画「グラン・プリ」の監督ジョン・フランケンハイマーは、マクラーレンのマシンを主役の日本チーム「ヤムラ」のモデルとして使用した[14][8][注 5]

クラークは非力な2.0Lのクライマックスエンジンでポールポジションを獲得した[15]。序盤の14周はサーティースがスチュワート、リント、ハルムからリードしたが、ディファレンシャルが壊れてスチュワートがトップに立った。ハルムがリタイアした後、ヒルとクラークの3位争いが繰り広げられたが、クラークはサスペンションが壊れてリタイアした。バンディーニはファステストラップを記録したが、フロントブレーキが磨耗するのを防ぐためにペースを落とさなければならなかった。スチュワートが優勝し、バンディーニ、ヒル、ボンドゥラントの4台のみが完走した。この4台の他、ギ・リジェ(後のリジェ創設者で、本レースがF1デビュー戦)とヨアキム・ボニエも最後まで走行したが、本年から規定周回数の規則が変わり、優勝者の周回数の90%以上を完了しなければ完走と認められなくなったため[注 6]、順位とポイントは与えられなかった。本レースは2019年現在においても、F1史上最も少ない完走台数の記録を保持している。

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エントリーリスト

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追記
  • ^1 - マシンが準備できず[17]
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結果

予選

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決勝

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第1戦終了時点のランキング

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注釈

  1. 元々は前年までの1.5L F1用エンジンがベースである。
  2. フォードから資金提供を受け、コスワースが制作したフォード・コスワース・DFVエンジンの登場は翌1967年
  3. 新車の完成が遅れたのはF1のエンジン排気量変更が最大の理由だったが、前年からF1と並行してF2でブラバムと組み、1年の熟成及び開発を経て「勝てる」という確信を持ったため、F2のシーズン開幕までに余裕を持ってブラバムへエンジンを送るのを優先した背景もあった。
  4. ラグビーニュージーランド代表の愛称「オールブラックス」と同じ黒は、同年のル・マン24時間レースで使用した。後にメインカラーとなるオレンジはコーポレートカラーであるが、同チームは2017年以降再びオレンジをメインカラーとしている。
  5. このため、マクラーレンが欠場したレースは、プライベーターチームのマシンが白地に緑のカラーリングに変更された。
  6. リタイアした場合でも、優勝者の周回数の90%以上であれば完走扱いとなる。この規定は2019年現在においても採用されている。
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脚注

参照文献

外部リンク

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