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デニス・ハルム
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デニス・クライヴ・"デニー"・ハルム(Denis Clive "Denny" Hulme、OBE、1936年6月18日 - 1992年10月4日)は、ニュージーランド出身のレーシングドライバー。デニス・フルムと表記されることもある。
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略歴
要約
視点
F1
ブラバム時代
1965年にブラバムからF1デビューし、計6戦に参加。第4戦フランスGPで4位、第6戦オランダGPで5位と2度の入賞を果たした。翌1966年は、第3戦フランスGPで3位に入り、初の表彰台を記録。年間で2位1回、3位3回を記録し、シリーズ4位となった。
1967年には、第2戦モナコGPで初優勝、この時点でランキングトップに立つ。第7戦ドイツGPでも優勝する等、この年11戦中2勝、2位3回、3位3回、4位1回と安定した成績を残し、モナコ以後一度もランキングトップの座を譲らず、ワールドチャンピオンを獲得。尚、ハルムはF1史上初となるポールポジションを1度も獲得せずにワールドチャンピオンとなったドライバーである。
チームのNo.1ドライバー兼オーナーのジャック・ブラバムを破ってのチャンピオン獲得劇だったが、このことは同年限りでチームを追われる原因となった。
マクラーレン時代

翌1968年、同郷出身の友人であるブルース・マクラーレンが1966年に設立したマクラーレンチームに、ファーストドライバーとして移籍。この年は2勝を挙げ、グラハム・ヒル、ジャッキー・スチュワートと最後までチャンピオンを争ったが、最終2戦の連続リタイヤもあってシリーズ3位となり、2年連続のチャンピオン獲得はならなかった。
1969年にも最終戦メキシコGPで勝利を挙げるが、この年は5戦連続ノーポイントなども響き、ランキングは6位と低迷。翌1970年は逆に安定した成績でシリーズ4位となるが、4年ぶりに未勝利に終わり、さらにはブルースが事故死するアクシデントにも見舞われた。彼の死後も残留したが、71年は安定性・速さ共に欠き、勝利どころか表彰台も無しに終わった。
しかし1972年には第2戦南アフリカGPで優勝し、チームに初勝利をもたらす。終盤の連続表彰台などもあり、最終的にはシリーズ3位の成績を収めた。1973年には第3戦南アフリカGPで生涯唯一のポールポジションを獲得し、第7戦スウェーデンGPでは優勝。最後のシーズンとなった1974年も開幕戦のアルゼンチンGPで優勝し、引退まで創生期のマクラーレンチームを支えた。
急死
F1を引退した後も、ハルムはツーリングカーやGTレースなど、精力的にレース活動を続けていたが、1992年10月4日、オーストラリアで行われたバサースト1000のレース中、心臓発作を起こし急死。56歳だった。
この際、「体の異変を察知したハルムが、後続の危険を回避すべく、最期にマシンをコースの脇に止めた」というエピソードが残されている。スローダウンしコース脇にストップしたマシンから、いつまで経ってもドライバーが出て来ないことを不審に思ったマーシャルが、近づきマシンのドアを開けて見ると、シートベルトを締めたまま死亡していたという。
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エピソード
厳つい見た目から「ザ・ベア(クマ)」と呼ばれていた。
レース戦績
F1
タスマンシリーズ
インディアナポリス500
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
バサースト1000
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関連項目
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