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400フィート打線

南海ホークスの打線の愛称 (1959-1965) ウィキペディアから

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400フィート打線(400フィートだせん)は、南海ホークス打線愛称である。

概要

400フィートメートルに換算すると約132メートルで、この飛距離があればスタンドインする(=本塁打になる)ということから名付けられた。

南海ホークスはパシフィック・リーグが発足した1950年から1956年までの7年間で6度のチーム200盗塁以上を記録する[1]ほど、積極的な盗塁・走塁を駆使した機動力と、「100万ドルの内野陣」と呼ばれた内野の堅い守備を大きな特徴としていた。この間に4度のパ・リーグ制覇を果たしているが、日本シリーズではすべて打力と投手力で勝る読売ジャイアンツ(巨人)に敗れた。

加えて、1956年に盗塁数では南海を下回るも、打率、本塁打、打点のすべてでリーグ1位となった流線型打線を擁する西鉄ライオンズが巨人を打倒し、日本一を勝ち取った。このため、監督鶴岡一人(当時は山本姓)はそれまでの機動力野球の方針から転換し、強打線形成に着手した。同年のオフ、機動力野球の象徴的存在であった木塚忠助[2]飯田徳治[3]を放出し、野村克也杉山光平穴吹義雄長谷川繁雄寺田陽介といった打撃評価の高い選手の起用へシフトしていく。

1957年、チーム盗塁数は前年の238から102に激減。一方で野村が南海では1939年の鶴岡以来となる本塁打王を獲得し、チーム本塁打数では創設以来初めてリーグ1位となり、さらに1958年には打率、本塁打、打点のすべてでリーグ1位となる。投手力と守備力の差で西鉄の3連覇を許したが、打力では西鉄にひけを取らないチームが形成されつつあった。

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布陣

要約
視点

1959年

1959年の南海打線は、野村、穴吹、長谷川、寺田ら若手のレギュラー陣と杉山や「100万ドルの内野陣」時代からのレギュラーである岡本伊三美らベテランによって形成された。杉山は首位打者に輝いた。出塁率は高かったが、数年に渡って精彩を欠いていた蔭山和夫はメンバーから外れ、日系二世のカールトン半田が三塁に起用された。試合終盤には左翼に大沢昌芳(大沢啓二)を起用し、守備を固めた。

チーム打率(.265)と得点(574)がリーグ1位、本塁打は90でリーグ2位と「400フィート打線」が力を発揮。投手陣では杉浦忠エースとして38勝をマークし、チームは4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでも巨人を4連勝で破り、念願の日本一に輝いた。一方、蔭山はこのシーズンを最後に引退した。

太字はリーグトップ

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この1959年の優勝で「400フィート打線」は軌道に乗り、多少顔ぶれを変えながら以後10年にわたって猛打をふるうことになる。

1963年

1963年から南海打線は3年連続でチーム打率、本塁打、得点リーグ1位を記録する。

1963年は野村克也が当時の新記録となるシーズン52本塁打を記録し、打点王にも輝くなど4番打者として活躍。広瀬叔功は3年連続盗塁王に輝いた。前年に遊撃から中堅へコンバートされた広瀬は、俊足を生かした守備も評価された。不振を極めた穴吹義雄に代わり、右翼には樋口正蔵が定着し、ケント・ハドリは前年を上回る成績を残した。衰えの見えた岡本伊三美に替わって二塁には森下整鎮が起用されたが、定着するまでには至らなかった。2番打者から7番打者までが2桁本塁打を放つなど、対戦チームにとって気の抜けない打線となった。

チーム打率(.256)、本塁打(184)、得点(626)は3部門ともリーグ1位を記録したが、投手陣に20勝投手がおらず、チーム順位は2位にとどまった。

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1964年

1964年も野村克也は本塁打王と打点王の二冠に輝いた。広瀬叔功は開幕から89試合目まで打率4割をキープし、最終的に打率.366で首位打者となった。春先から31連続盗塁成功を記録するなど俊足も大いに生かし、自己最高の72盗塁で4年連続盗塁王。阪急ブレーブスから出戻りの杉山光平は樋口正蔵との併用で右翼を守った。左翼は井上登と堀込基明が競い、最終的に井上は代打に回った。前年二塁を守った森下整鎮は慣れた三塁へ戻り、二塁には退団したバディ・ピートに代わって入団した新外国人のジョニー・ローガンが期待されたが、極度の打撃不振のためレギュラーを外され、3年目にして初めて一軍に抜擢された国貞泰汎がその穴を埋めた。

チーム打率(.259)、本塁打(144)、得点(653)は3部門ともリーグ1位。投手陣の好調も相まってチームはリーグ優勝し、阪神タイガースとの日本シリーズも制した。

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1965年

1965年は野村克也が戦後初の三冠王に輝いた。広瀬叔功は5年連続盗塁王。杉山光平の不振から、主に樋口正蔵が右翼に起用され、近鉄バファローズから移籍してきたジャック・ブルームが杉山に代わって3番を打った。

チーム打率(.255)、本塁打(153)、得点(614)は3年連続リーグ1位。この打撃力と2桁勝利投手5人で、チームは2位に12ゲーム差を付けてリーグ連覇を果たすも、日本シリーズでは巨人に屈した。

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その後

1966年に南海はリーグ3連覇を果たすが、野村克也と共にチームの長打力の柱であったケント・ハドリが打率こそ.279に上げたが、本塁打が18本に減少。小池兼司も打率.216、7本塁打と低迷した。結果、チーム打率.245(2位)、本塁打108(3位)、得点477(2位)といずれも前年に比べて大幅に落ち込んだ。ハドリは1967年に退団し、ドン・ブレイザーマーティ・キーオなどの外国人選手が入団したが、ハドリの後継となる長距離打者は不在で、長打を野村1人に頼らざるを得なくなり、「400フィート打線」も徐々に過去のものとなっていった。監督が鶴岡一人から飯田徳治に交代した1969年には、本来1・2番打者が主な役どころである広瀬叔功を3番に据えざるを得なくなり、加えて野村の負傷欠場もあって、チーム打率.241(5位)、本塁打85(6位)、得点409(6位)と更に落ち込み、パ・リーグ創設以来初の最下位に沈んだ。1年で辞任した飯田に代わり、選手兼任で監督となった野村はクラレンス・ジョーンズを獲得、富田勝門田博光といった若手も抜擢し、チームの刷新を行った。これにより、「400フィート打線」は事実上の終焉を迎え、新たな時代へと移ることになった。

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脚注

関連項目

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