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井上登 (野球)
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井上 登(いのうえ のぼる、1934年5月26日 - 2012年5月5日)は、愛知県宝飯郡三谷町(現・蒲郡市)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。
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経歴
岡崎高校では1952年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、時習館高に敗退。高校の1年上に石川克彦、小沢重光がおり、いずれも名古屋ドラゴンズに入団している。
1953年に名古屋ドラゴンズへ入団[1]。俊足巧打の内野手と期待され、同年10月には二塁手として5試合に先発出場。球団名が「中日ドラゴンズ」になった1954年は、レギュラーとして期待されていた小川滋夫が怪我をしたため、開幕からレギュラーとして起用され同年のリーグ優勝に貢献。初の規定打席(19位、打率.270)にも達する。同年の西鉄との日本シリーズでは5試合に先発。シュート打ちの名手であり、最終第7戦では河村英文のシュートをとらえる決勝適時三塁打を放つ。1955年から1958年に4年連続でベストナインに選出されたほか、オールスターゲームにも5度出場(1955年 - 1958年, 1960年)。1957年は開幕から五番打者を任され、四番打者としても37試合に起用される。1958年には打率.280(6位)、18本塁打の好成績を残した。1961年にはシーズン中盤から高木守道に定位置を譲り一塁手に回るが、自己最高の打率.293(4位)を記録した。
1962年に半田春夫・寺田陽介・長谷川繁雄との1対3の交換トレードで、南海ホークスへ移籍。同年は左翼手として74試合に先発、三番打者としても9試合に起用された。その後も中心打者として活躍、1965年の巨人との日本シリーズ第3戦では逆転となる適時二塁打を放つが、この頃から出場機会が減少。1967年には中日に復帰するが、同年限りで現役を引退。
引退後は中日で二軍内野コーチ(1970年)→二軍打撃コーチ(1971年, 1977年)・一軍打撃コーチ(1972年 - 1976年, 1979年 - 1980年)・二軍監督兼打撃コーチ(1978年)を務め、1974年のリーグ優勝に貢献。退団後はCBC解説者(1981年 - 1995年)を務めた[1]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 名古屋(名古屋ドラゴンズ)は、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更
表彰
- ベストナイン:5回 (1955年 - 1958年、1960年)
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1961年10月1日 ※史上67人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:4回 (1956年 - 1958年、1960年)
背番号
- 51 (1953年 - 1961年、1967年)
- 41 (1962年 - 1964年)
- 1 (1965年 - 1966年)
- 64 (1970年)
- 67 (1971年 - 1977年、1979年 - 1980年)
- 77 (1978年)
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関連情報
出演
※いずれも、解説者として出演していたプロ野球中継の現行タイトル。
- CBCドラゴンズナイター - CBCラジオ
- 侍プロ野球 - CBCテレビ(TBS系列全国ネットでのタイトル。ローカル中継は「侍プロ野球 燃えよドラゴンズ」)
脚注
関連項目
外部リンク
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