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小池兼司

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小池 兼司(こいけ けんじ、1939年2月5日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

概要 大阪ホークスドリーム 終身名誉監督, 基本情報 ...
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経歴

要約
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プロ入りまで

浜松商では3年次の1956年春の甲子園遊撃手として出場したが、2回戦で県立尼崎高のエース今津光男に抑えられ敗退[1]

高校卒業後は1957年専修大学へ進学、東都大学野球リーグでは在学中に4度の優勝を飾る。3年次の1959年大学日本選手権では準決勝に進出するが、金沢宏安藤元博の投手陣、木次文夫近藤昭仁徳武定之を打の主軸とする早大に惜敗。リーグ通算85試合出場、272打数69安打、打率.254、2本塁打、28打点、ベストナイン(遊撃手)3度受賞。大学同期にエース坂井勝二(3年生で中退)・山本兵吾(坂井中退後の主戦投手)、1年下に堀込基明がいる。

現役時代

大学卒業後の1961年南海ホークスへ入団[2]し、5月13日の大毎戦(後楽園)で9回裏に三塁手で初出場。翌14日では8番打者・三塁手として初先発出場を果たし、2回裏に金山勝巳から初安打を記録した。同21日の近鉄戦(大阪)で4回裏にグレン・ミケンズから初打点、7月6日の大毎戦(大阪)では9回裏に穴吹義雄の代打でディック・ディサから2点本塁打を放ち、初本塁打を記録。8月には広瀬叔功中堅手に回り、その後継として遊撃手の定位置を獲得する。最終的に、当時の南海監督鶴岡一人が戦前の1リーグ時代の1939年に記録した10本塁打に次ぎ、1950年蔭山和夫の記録と並ぶ9本塁打を記録。これは2022年野村勇により更新されるまで、2リーグ制以降の球団新人最多本塁打記録タイであった[3]

2年目の1962年に初めて規定打席(30位、打率.230)に到達すると、堅実な守備と左に引っ張る打撃で名遊撃手として活躍し、1960年代の3連覇を含む4度のリーグ優勝に貢献。

3年目の1963年には113併殺で山田潔の持つパ・リーグの遊撃手併殺記録を破った。小柄ながら長打力もあり、同年は22本塁打を放ち、南海400フィート打線の一翼を担っていく。1963年から1966年まで4年連続でベストナインに選出され、1964年から1968年まで5年連続でオールスターゲームに出場[2]。1964年の阪神との日本シリーズでは全7戦に遊撃手として先発出場し、23打数8安打を記録して6年ぶりの日本一に貢献すると、シリーズの技能賞を獲得。

1968年には7月18日の阪急戦(大阪)に「7番・遊撃手」で先発し、史上134人目の通算1000試合出場を達成。遊撃手連続守備機会無失策218回という当時の日本記録を樹立した。オールスターでは7月25日の第3戦(西宮)では途中出場ながら3安打、江夏豊から3点本塁打と島田源太郎からサヨナラ三塁強襲安打を放ってMVPを獲得。小池は延長11回裏の一死二塁で打順が回ってきたが、相手はオープン戦で対戦したことがある程度の島田で、何も考えずストレートを強く振ることしか、小池の頭にはなかった[4]長嶋茂雄が、三遊間の当たりに横っ飛びでグラブを出した。グラブの網に入るか、入らないかで、長嶋のグラブの先端に当たった打球は、方向を変えて中堅の方へ大きく進路を変えた[4]。二塁走者であった代走の池永正明が手を叩きながら生還し、西宮での第3戦で全パは3連敗を逃れ「実力のパ」の面目を保った。殊勲の強襲安打を放った小池は5度目の出場で、初のMVP選出となった[4]。サヨナラ打の小池は7回に第3戦最初の打席で江夏から一度は逆転となる3点本塁打を左翼へ放っていたため、「正直、ホームランの方が嬉しかったかな」と、殊勲の一打にはあまり関心を示さなかった。内心はすっかりその気になっていたが、9回に全は二死一塁から2本の安打と全パの守備の乱れで同点にした際、遊撃のポジションから小池は試合中ながら「俺がこんな大舞台でヒーローになれるわけがないんだ」と考えていた。1964年から5年連続出場でこのサヨナラ打が最後の安打となったが、オールスターでは通算4安打でこの西宮の試合で3安打であった[4]

1971年7月15日の西鉄戦(平和台)では9回表に後藤清から左越ソロ本塁打を放ち、史上64人目の通算100本塁打を記録。

1972年には移籍入団の佐野嘉幸にレギュラーを譲り、1974年4月17日の太平洋戦(平和台)に「7番・遊撃手」で先発し、史上46人目の1500試合出場を達成。5月5日のロッテ戦(大阪)では7回裏に池田重喜から中前安打を放ち、史上86人目の1000安打を達成。プロでは1年目に三塁手二塁手としても起用され、晩年にも二塁手として2試合に出場したが、それ以外は遊撃手一筋であった。同年引退[2]

指導者として

引退後は南海→ダイエーで二軍助監督(1975年)→二軍コーチ(1976年 - 1977年)→一軍コーチ(1978年 - 1979年)→一軍守備・走塁コーチ(1980年)→二軍守備コーチ(1981年)→二軍ヘッド兼内野守備コーチ(1982年)→二軍監督(1983年 - 1985年)、編成部長、スカウトを歴任し、1992年退団[2]。その後は大阪府八尾市の少年野球チームで指導していたが、台湾CPBL三商タイガース打撃コーチ(1994年, 1998年)・和信ホエールズ打撃コーチ(1997年)を歴任[2]2012年からは大阪ホークスドリームのシニアアドバイザーに就任し、2014年4月より大阪ホークスドリーム女子硬式野球部総監督、2020年2月より大阪ホークスドリーム終身名誉監督に就任[5]

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詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1968年7月18日、対阪急ブレーブス15回戦(大阪スタヂアム)、「7番・遊撃手」で先発出場 ※史上134人目
  • 100本塁打:1971年7月15日、対西鉄ライオンズ16回戦(平和台球場)、9回表に後藤清から左越ソロ ※史上64人目
  • 1500試合出場:1974年4月17日、対太平洋クラブライオンズ前期3回戦(平和台球場)、「7番・遊撃手」で先発出場 ※史上46人目
  • 1000安打:1974年5月5日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(大阪スタヂアム)、7回裏に池田重喜から中前安打 ※史上86人目
その他の記録

背番号

  • 2(1961年 - 1975年)
  • 63(1976年 - 1978年)
  • 73(1979年 - 1980年)
  • 81(1981年 - 1982年)
  • 70(1983年 - 1985年、1997年)
  • 87(1998年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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