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マニック・ストリート・プリーチャーズ
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マニック・ストリート・プリーチャーズ(Manic Street Preachers)は、イギリス、ウェールズ出身のロックバンド。愛称はマニックス(Manics)。
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概要
1986年にジェームス・ディーン・ブラッドフィールドを中心に結成。1988年に自主制作シングル「スーサイド・アレイ」でデビュー。
その後3枚のアルバムを発表し、バンドとしての評価が高くなった1995年、かねてからうつ病や自傷行為、ドラッグ、アルコールなど様々な問題を抱えていたギタリストであり作詞を担当していたリッチー・エドワーズが失踪。その後も彼は見つからず、2008年11月24日に死亡宣告が出された。
精神的な支柱を失ったバンドは一時解散も検討されたが、3人体制となって活動を継続。立て続けに傑作アルバムを発表したことにより、90年代イギリスを代表するロックバンドとして認知されるようになる。リッチーは今でもメンバー扱いとなっており、彼の分の印税はリッチーの家族に等分されている。
メンバー
現メンバー
元メンバー
- リッチー・エドワーズ(Richey Edwards、本名:リチャード・ジェームス・エドワーズ、Richard James Edwards、1967年12月22日 - 1995年2月1日失踪、2008年11月23日死亡宣告):ギター
ジェームスとショーンは従兄弟同士である。また、ニッキーの兄は詩人のパトリック・ジョーンズで、非公式PV制作など、しばしばバンドに関与している。
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バンドの歴史
要約
視点

1991年まで
ベティ・ブルー(37°2 le matinというフランス映画の英語のタイトルから取られた)と名付けられたバンドが1986年にジェームス・ディーン・ブラッドフィールド(リードギター)、フリッカー(ベース)、ショーン・ムーア(ドラムス、ジェームスの従兄弟)、ニッキー・ワイヤー(リズムギター)で結成された。短い間Jenny Watkins-Isnardiがシンガーとして参加していたが、彼女がバンドを辞めた後ジェームスがシンガーとなった。
1988年、フリッカーがバンドを辞め3人になり、ニッキーはリズムギターからベース担当になり、最初のシングル「スーサイド・アレイ」を自主制作で録音した。その後間もなくリッチーが正式に加入。 1990年、彼らはパンクレーベル「Damaged Goods Records」と1枚のEPの契約を交わした。4曲入りのEP『ニュー・アート・ライオット』を発表。「Hall Or Nothing」マネージメントの助けで「Heavenly Records」と契約を結び、シングル「モータウン・ジャンク」(1991年1月21日)を発表。同時に「30曲入りの2枚組のデビューアルバムを発表し、世界中でナンバーワンにした後、解散する」といった内容の解散宣言をする。
次のシングル「ユー・ラブ・アス」を発表。今では伝説となった事件が起きる。彼らの大げさな宣伝に軽蔑した態度をとったNME誌のインタビュアー(Steve Lamacq)に対してマニックスが本物であることを証明するために「4 REAL (本気だ)」とリッチーがカミソリの刃で自らの腕に切り刻み17針の大怪我を負う。その後まもなくソニーレコードと契約を結び、1stアルバムの製作にとりかかった。
1992年から1995年
1枚組(レコードでは2枚組)のデビューアルバム『ジェネレーション・テロリスト』を発表。アルバムを引っ提げてバンドは世界中をツアーし、多くの国々で成功を収める。特に日本では熱狂的なファンに迎えられた。しかし、アメリカでは全く成功しなかった(イギリス・チャート13位)。
解散宣言を撤回[1]、1993年、2ndアルバム『ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル』を発表。イギリスのチャートで8位まで上昇した。
1994年8月30日、3rdアルバム『ホーリー・バイブル』を発表。前作以上に彼らの批判精神を取り戻したアルバムであった(イギリス・チャート6位)[2]。またアルバム発表時、イギリスの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスでジェームスがバラクラバ帽を被り歌った為視聴者が激怒、TV局にセックス・ピストルズのビル・グランディ事件を超える程記録破りの抗議が殺到した。
程なくしてリッチーが精神病を患い精神病院に入院、その後退院し一時はバンド活動に復帰するも、アメリカ・ツアー前夜の1995年2月1日リッチーはジェイムスと泊まっていたロンドンのベイズウォーターにあるエンバシー・ホテルから突然姿を消してしまう[3]。バンドは6ヶ月間活動を休止したが、リッチーの家族の願いもあり活動を再開した。
1996年以降

リッチーが行方不明になってからの最初のアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』(リッチーによって書かれたかまたはニッキーと共同で書かれた4曲を含む)は好意的なレビューによって迎えられた。全英2位を記録し、バンド初のプラチナディスクを獲得する。シングル「デザイン・フォー・ライフ」は労働者階級のアンセムとなり、日本の深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』(フジテレビ)でもUKシングルチャートでNo.1を獲得した。アルバムは1996年の「マーキュリー賞」の最終選考リストに載り、「エヴリシング・マスト・ゴー」、「オーストラリア」、「ケビン・カーター」のヒット曲を生んだ。
1997年、カイリー・ミノーグのアルバム『インポッシブル・プリンセス』の制作に参加、先行シングル「サム・カインド・オブ・ブリス」など2曲を共作。
1998年の5thアルバム『ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ』はバンド最大の成功を収め、同アルバムで念願の全英1位を獲得する。また、バンド初のナンバー1ヒットシングル「輝ける世代のために (If You Tolerate This Your Children Will Be Next)」をもたらした。この曲はスペイン内戦について書かれ、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」、ザ・クラッシュの「スペイン戦争」にインスパイアされて書かれた。
2000年には限定版のシングル「ザ・マッシズ・アゲインスト・ザ・クラッシズ」を発表した。これは19世紀の首相ウィリアム・グラッドストンの"All the world over, I will back the masses against the classes"の言葉から名付けられた。プロモーションをほとんどしなかったにもかかわらず、イギリスのシングルチャート1位を記録した。
2001年、カール・マルクスシアターでライブを行い、キューバで初めて演奏する西側のロックバンドとなった。フィデル・カストロに面会した際、「大音量のライブになる」と伝えたところ、カストロが「戦争よりも大音量にはならないだろう」と言われたことがきっかけで、ライブDVDのタイトルには「Louder Than War」が選ばれた(ライブにはカストロも訪れている)。同年6thアルバム『ノウ・ユア・エネミー』を発表、全英2位を記録。
2004年、7thアルバム『ライフブラッド』を発表。ニュー・ウェイヴに接近、全英13位にとどまる。
2006年、2005年から2年間の活動休止期間中にジェームスがアルバム『ザ・グレート・ウエスタン』ニッキーがアルバム『アイ・キルド・ザ・ザイトガイスト』とそれぞれソロ・アルバムを発表した。
2007年、ソロ・プロジェクトを経てバンド活動を再開し、8thアルバム『センド・アウェイ・ザ・タイガーズ』を発表、全英2位を記録。シングル「ユア・ラブ・アローン・イズ・ノット・イナフ」ではカーディガンズのニーナ・パーションとデュエットしている。
2008年11月23日、英国の裁判所がリッチーの死亡宣告を発した。メンバーとリッチーの家族はリッチーの死亡に関して一切否定している。
2009年、9thアルバム『ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ』を発表。全曲リッチーが残していた歌詞を元に制作し、ジャケットの絵は3rdアルバムのホーリー・バイブルと同じジェニー・サヴィルによるものであり、本作はホーリー・バイブルの続編として位置づけられている。プロデューサーにニルヴァーナのイン・ユーテロなどを手がけたスティーブ・アルビニを起用している。イギリスの大手スーパーマーケットチェーンはアルバム・カバーの絵を問題視し、無地のスリップケースに入れた上で販売している[4]。
2010年、前作からわずか1年4か月で10枚目となるアルバム『ポストカーズ・フロム・ア・ヤングマン』を発表。ジャケットのビデオカメラを持つ人物は俳優のティム・ロス。全英3位を記録。
2011年、2枚組ベスト・アルバム『ナショナル・トレジャーズ』を発表。デラックスエディションにはミュージック・ビデオを収録したDVDを付属。日本盤にはボーナストラック「ロックンロール・ジーニアス」収録。全英10位を記録。
2012年、リリース20周年を記念して1stアルバム『ジェネレーション・テロリスト』をリマスターしてリイシュー。初回限定盤にはドキュメンタリー映像やライヴ映像、ミュージック・ビデオを収録したDVDを付属。
2013年、前作から3年振りとなる11枚目のアルバム『リワインド・ザ・フィルム』を発表。今までと異なるアコースティックなサウンドを展開した。全英4位を記録。
2014年、前作から1年足らずで12枚目のアルバム『フューチャロロジー』を発表。8thアルバム以来となる全英2位を記録した。
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ディスコグラフィ
要約
視点
- 日付は英国での発売日を示す。「英」とはイギリスの「UK Albums Chart」の、「日」は「オリコン・アルバムチャート」におけるチャートの最高位を示す。「ゴールド等認定」については、イギリスの「BPI」における記録である。
スタジオ・アルバム
コンピレーション・アルバム
シングル
EP
- メモ
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日本公演

- 1992年 Generation Terrorists Tour(5/9大阪クラブクアトロ、5/10名古屋クラブクアトロ、5/11-13川崎クラブチッタ)
- 1993年 Gold Against The Soul Tour(10/7-8大阪クラブクアトロ、10/9福岡クロッシングホール 10/10広島ナミキジャンクション 10/11-13渋谷On-Air East、10/16-17名古屋クラブクアトロ、10/18-19渋谷On-Air East、10/20仙台ビーブベースメントシアター、10/22札幌ペニーレーン)
- 1999年 This Is My Truth Tell Me Yours Tour(2/5大阪ZEPP、2/7-8赤坂ブリッツ、2/9渋谷On-Air East)
- 2001年 フジロック・フェスティバル(7/25)
- 2003年 Greatest Hits Tour(1/22名古屋ダイアモンドホール、1/23福岡ZEPP、1/24大阪ZEPP、1/26東京ベイNKホール)
- 2005年 Life Blood Tour(2/10 渋谷AX、2/12大阪ZEPP、2/13東京ZEPP、2/14名古屋クラブクアトロ)
- 2007年 サマーソニック(8/11大阪、8/12東京)
- 2010年 Postcards From A Young Man Tour(11/26新木場STUDIO COAST、11/27横浜ベイホール)
- 2011年 NANO-MUGENフェスティバル(7/17横浜アリーナ)
- 2011年 Postcards From A Young Man Tour(7/18新宿BLAZE)
- 2012年 National Treasure Japan Tour(5/17-18新木場STUDIO COAST)
- 2014年 フジロック・フェスティバル(7/26)
- 2015年 サマーソニック(8/15東京、8/16大阪)
- 2016年 ’Everything Must Go’ 20th Anniversary Tour(11/8新木場STUDIO COAST、11/9大阪なんばHatch)
- 2019年 ’This Is My Truth Tell Me Yours’ 20th Anniversary Show and More(9/26ZEPP DIVERCITY東京、9/27豊洲PIT)
- 2024年 'Manic Street Preachers x Suede' (11/18・19 Zepp Haneda)
- 2025年 'rockin'on sonic' (1/5幕張メッセ国際展示場)
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その他
- リッチー失踪後、ジェームスはセラピー?にセカンドギターとして加入するという話(何度かセッションも行われた)もあったが、実現はしなかった。
- リッチーは日本で「根性焼き」という言葉を覚えて左腕に実践していた。
- リッチーは文学への造詣が非常に深く、好きな詩人はアルチュール・ランボー、ウィリアム・バロウズ、シルヴィア・プラス、フィリップ・ラーキンなど、好きな作家はカフカ、カミュ、ジョージ・オーウェル、ヘンリー・ミラー、アラン・シリトー、太宰治等で、愛読書は長距離走者の孤独、人間失格、地獄の季節、1984などである。
- リッチーとニッキーはウェールズのスウォンジー大学で学び(学年は、ニッキーがリッチーよりも1年後れ)、ともに政治史の学位を取得している。
脚注
関連項目
外部リンク
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