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前田則邦
日本の江戸時代後期~大正時代の武士・政治家・実業家・画家。越中富山藩士前田利民(9代藩主前田利幹次男)の子。富山師範学校校長・十二銀行頭取・富山市長等を歴任 ウィキペディアから
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前田 則邦(まえだ のりくに、1847年7月4日(弘化4年5月22日[1])- 1915年(大正4年)8月23日[1])は、富山県の政治家、実業家、画家。
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経歴
- 1847年(弘化4年) - 富山藩9代藩主前田利幹の次男前田利民の子として出生する。幼名竹太郎(武太郎)。民邦、春江とも。
- 1854年(嘉永7年) - 知行500石と若土姓を与えられ、臣籍となる。
- 1875年(明治8年) - 前田姓に復した後、富山師範学校校長、婦負・上新川・中新川の郡長を務める。
- 1878年(明治11年) - 第百二十三国立銀行の設立に旧藩士らとともに参画[2]。後に合併した十二銀行(北陸銀行の前身)の頭取も務める。
- 1880年(明治13年) - 政府より士族授産金を得て、大沢野村(現富山市)の原野の開墾に着手する。
- 1883年(明治16年) - 大沢野開墾事業を富山県に譲渡する。
- 1889年(明治22年) - 富山市長に就任する。
- 1895年(明治26年) - 富山市長を辞任する。
画家としても山水画を残している。
脚注
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