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岩城宣隆

江戸時代初期の大名。出羽亀田藩2代藩主。岩城氏20代、久保田藩士多賀谷家初代。佐竹義重の四男。従五位下・但馬守 ウィキペディアから

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岩城 宣隆(いわき のぶたか)は、江戸時代初期の大名出羽亀田藩2代藩主。久保田藩士多賀谷家初代。

概要 凡例岩城宣隆, 時代 ...
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生涯

天正12年(1584年)、佐竹義重の四男として生まれる。当初は多賀谷重経の養嗣子となり、長兄・義宣より偏諱を受けて多賀谷宣家(たがや のぶいえ)と名乗る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に多賀谷家が改易されたため、実家の佐竹家に戻る。

慶長7年(1602年)、長兄・義宣が出羽への転封となると養父・重経と共にそれに従った[4][5]。久保田藩重臣となると、初め仙北白岩城主、後に山本檜山城主となる。なお、宣家が岩城家を相続した際に、多賀谷家の名跡は佐竹一門・戸村義国の次男・彦太郎隆経が相続した。

寛永5年(1628年)8月、亀田藩主で甥の岩城吉隆(佐竹義隆)が久保田藩主で兄・佐竹義宣の養嗣子となったため、その跡を継いで藩主となる[6]。同年9月19日、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠や、その子・家光御目見している[2][7]

寛永11年(1634年)、宣隆に改名する。寛永20年(1643年)、山形藩主・保科正之陸奥国会津藩に転封となる際、戸沢政盛六郷政勝と共に山形城番を務めた[8]検地を行うなどして藩政の基礎を固め、明暦2年(1656年)7月25日に家督を嫡子の重隆に譲って隠居した[2][1]

寛文12年(1672年)、死去。享年89。

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系譜

父母

正室、継室

子女

  • 岩城重隆(長男) 生母は顕性院
  • 岩城隆家

養子

脚注

出典

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