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広島電鉄家政女学校
かつて広島県広島市皆実町に存在した私立実業学校 ウィキペディアから
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広島電鉄家政女学校(ひろしまでんてつかせいじょがっこう)は、かつて広島県広島市皆実町(現在の南区皆実町2丁目ゆめタウン広島北側の一角[1])に存在した私立実業学校(旧制中等学校)。
概要

地図中央やや右下"KYOBASHI-GAWA(京橋川)"に掛かる"MIYUKI-BASHI(御幸橋)"右側にあるのが"Government Monopoly Bureau(専売局)"。
その上に見える空き地に本校があった。
ただし本地図では校舎もしくは寮かは不明。
広島電鉄が太平洋戦争中に動員された同社職員の代わりに国民学校高等科を卒業した女子へ乗務を目的とした指導・教育のため創設した全寮制の女子実業学校で[2][3]、1943年(昭和18年)4月に開校した[1]。
終戦後、被爆からの復興に加え枕崎台風で発生した水害により広電天満橋が落橋するなど路線復旧費用がかさみ校舎復旧の目処がたたないこと、また男性運転士が復員してきたことから、1945年(昭和20年)9月に廃校となった[4][5]。
当初、当学校生徒は「働きながら勉強も出来て給料も貰える。女学校卒業の免状も出る」「ミシンやタイプライターも支給される」をうたって募集されたが、終戦後のやむを得ない事情があったとはいえ反故にされることになった。運転も含めて既に実際の作業を行っていたが、学校は焼け、復員により本来の従業員が戻ってきたためであった[6]。廃校を言い渡された夜、女生徒らは「ヤシの実」を泣きながら歌っていたという[6]。突然の閉校(と同時に事実上の解雇)通知に対し、退職金はおろか反物二反以外の支給はなかった。また、学校教師や監督者の要請の元に、原爆投下から閉校直前まで連日、専攻科の在学生を中心に乗務や負傷者の介護を実際に行っていたにもかかわらず、その給与も支払われる事は無かった。当然、就学継続の支援・就職の斡旋・生活支援等も無く、当時の在学者達の学歴・卒業資格は国民学校卒業に留まる。事後の補償も原爆被爆者としての国家による補償以外は行われていない。「働いて給料を貰いながら学べる」ということで、市外の貧しい農村地域から応募・入学した者も多く、当時「原爆には毒があり、それは移る」といった俗信も流布していたため、郷里に戻ると、彼女らはしばしば忌避の対象とされた[6]。
なお、広島実践高等女学校(後の鈴峯女子短期大学ならびに現・広島修道大学ひろしま協創中学校・高等学校)は姉妹校にあたる[7]。
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形態
開校時の1943年第1期生は72人[5]、「運転を手伝えばミシンやタイプライターも教える」が募集時の謳い文句で、女学校卒業資格と乗務による賃金の支給、また全寮制のため衣食住も約束されていたことから、生徒の多くは広島県北部・島根県・鳥取県の農山村部出身者が占めた[5][2]。1945年には309人[2]が在学していたが、3年制[1]学校であったことと開校から廃校までの期間が2年半のため卒業生は存在しない[7]。
普通学科のほかに電車ならびに路線バスの運行に関する授業も行われ、1年目には車掌業務で、2年目には電車の運転士業務で営業列車に乗務する実践教育が実施された[2][5][3]。
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沿革
1942年(昭和17年)
1943年
- 4月:開校。
1945年
脚注
参考資料
関連項目
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