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イギリスの単発レシプロ単座戦闘機 ウィキペディアから
スーパーマリン スピットファイア(Supermarine Spitfire)は、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発のレシプロ単座戦闘機。
スーパーマリン スピットファイア
第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。1940年のバトル・オブ・ブリテンの際に活躍したため、イギリスをドイツ空軍から救った「救国戦闘機」とも呼ばれる[3]。
格闘戦を重視し、旋回性能を向上させるため楕円形で薄い主翼を採用しているのが特徴である[3]。主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとするミッチェルの後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、ライセンス生産など含め23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。
スーパーマリン社の主任設計技師であったR・J・ミッチェルは、空気抵抗を減らすために非常に流麗な流線形の機体をもった水上機「Sシリーズ」を設計し、ネイピア ライオンやロールス・ロイス社製の強力なエンジンを搭載して、シュナイダー・トロフィー・レースに1927年のS.5、1929年のS.6、1931年のS.6Bで出場、3回の優勝を成し遂げ、祖国にトロフィーの永久保持権をもたらした。こうした先進的な設計は、戦闘機にも応用できる部分が大きかった。
1931年、イギリス空軍は次期戦闘機仕様書F7/30を提示、これに応募したスーパーマリーン社はミッチェルを主任設計士にし、合致する404km/h以上の速力を持つ戦闘機の開発を始めた。1934年2月に初飛行したタイプ224は風防がなく、空気抵抗の大きい固定脚をもつガルウイングの単葉低翼機で、エンジンにはロールス・ロイス ゴスホークを搭載していた[4]。タイプ224は他社が設計したものと同じくエンジンや機体の性能が低く、空軍の期待に添うものではなく、結局旧来の複葉機であるグロスター グラディエーターが採用となった。ミッチェルは、Sシリーズの経験を生かした設計に取り組み、より洗練された機体の設計を進めた。同年には新たな仕様書F.37/34が提示され、これに応じて新しく設計されたタイプ300は、主翼の小型化、主脚引き込み機構を搭載し、7月にイギリス航空省へ提出されたが、採用には至らなかった[5]。ミッチェルは更に改良を進め、風防、酸素マスク、そしてエンジンにはより強力なロールス・ロイス マーリンが搭載された。11月には、親会社であるヴィッカース・アームストロング社の支援を受け、タイプ300の細かな設計が進められた[6]。
1935年1月3日に航空省は正式に契約し、必要な装備の要求を掲載した仕様書F10/35を発行した。武装は、ヴィッカース7.7mm機関銃4丁であったが、1935年4月に航空省のラルフ・ソアビーによる推薦で、ブローニング7.7mm機関銃8丁へ改められた[7][8]。1936年3月5日、試作機(シリアルナンバーK5054)がイーストリー・エアロドローム(現サウサンプトン空港)において初飛行を行った。操縦を行ったヴィッカーズ・アームストロング社の主任テストパイロット、ジョセフ・サマーズ大尉は、「これ以上何も触れなくていい(=機体に手を加えなくていい)」と感想を述べたという。その後、ジェフリー・クイールとジョージ・ピカリングらによる試験飛行で最高速度528km/hを記録し、より鋭利なプロペラでは557km/hに達した[9]。これは同じマーリンを搭載し、4ヶ月前に初飛行したホーカー ハリケーンを60km/hも上回る性能であった。6月3日には、航空省から310機の発注がなされた。
タイプ300の名称については、航空省からいくつかの候補が載せられたリストが提示されたが、ヴィッカーズ・アームストロング社の取締役、ロバート・マクリーンが、気性の荒い自分の姉に付けられていたあだ名から「スピットファイア(直訳すると「口から炎を飛ばす人」、転じて短気な人、癇癪女の意)」を提案した[10]。この呼び名は非公式ながらタイプ224にも与えられていた。しかし、ミッチェルはこれについて「ひどく馬鹿げた類の名前だ」と漏らし、気に入らなかったという[11][12]。
ミッチェルは1933年から大腸癌に冒されていたが、スーパーマリン社の機体で初めて主力戦闘機の座を勝ち取ることや、ナチスの台頭に危機感を覚えたことから、病をおして設計を続けた。1937年12月、直腸癌が再発したミッチェルは、スピットファイアの量産第1号機の完成を見ることなく死去した。以降の設計や改良は同僚のジョセフ・スミスが引き継いだ。
ミッチェルの狙いは比較的容易な操縦性を保ちつつ、マーリンエンジンの力を生かして高性能な爆撃機を要撃できるバランスのとれた戦闘機であった[13]。当時、戦闘機は自軍や母国の防空に専念すると考えられ、イギリス上空に進出してくることを想定していなかったことから、要撃には爆撃機を待ち受けるために素早く上昇することが必要だった。
上昇力だけでは戦闘機と渡り合うことはできないという問題を解消するため、1934年に設計陣は楕円翼形を採用した。抗力を生むことを避けるため、主翼の厚みは薄くする必要があったが、巧妙な設計によって薄い翼でも機関銃とその弾薬、そして、格納式の引き込み脚の搭載を可能とした。
この楕円翼形の採用について、ミッチェルは1932年に初飛行したハインケル He 70の翼形をコピーしたと非難されることがあった。設計陣の航空力学担当であったシェンストーンは、戦後、これを否定した。
我々スーパーマリンが、楕円翼形をドイツのハインケル He 70 輸送機から盗用したと示唆された。これは、そうではない。我々の翼形は、ハインケルのそれよりも非常に細く、異なる翼型を持っていた。いずれにせよ、異なる目的のために設計された翼形をそのままコピーすれば、駄作機にしかならない[14]。 — Beverley Shenstone、Spitfire: A Documentary History
翼付け根で13%、翼端で6%の翼厚・翼弦比率の実現に向いていたため、翼型は、NACA 2200シリーズを使用した[13]。横方向の安定性に対応するため、上反角は6度とされた。
翼端のパーツのみを交換することで、飛行特性の変更が可能。主に高々度用に延長翼、低高度用に切断翼が使用されたが、型式のHF、LF等とは直接関係がない(これらの型式は搭載されたエンジン(スーパーチャージャーの設定高度)による。
主翼の特徴は、革新的な翼桁を延ばした設計であった。5本の角管が翼幅に従って細くなり、翼端に近づくにつれ角管を減らした。そのうちの2本は結合され、軽量でありながら強固な主桁となった[15]。引き込み脚構造は、主桁の内部に軸を設け、真横ではなく、やや後ろ方向へ車輪を収容した。これが着陸時に主桁にかかる曲げ荷重を軽減することから、車輪間の幅の狭さは、許容範囲だと考えられた[15]。
楕円翼の採用は生産性の悪化を招いたものの、捻り下げや戦闘機としては極めて低い翼厚比と併せて、大迎え角での誘導抵抗の減少、翼端失速の防止、翼内武装の充実、高速といった長所をスピットファイアに与えた。後期モデルの翼は、これよりももっと薄く、まったく異なった構造になっている。
1934年に.303ブリティッシュ弾を使用する標準口径ライフル機関銃に選定されたブローニング機関銃だが、供給量が不足していたため、初期のスピットファイアには4丁のみ搭載された[16]。この機関銃は地上や低高度での動作に問題が見られない一方で、高高度で凍結する傾向があり、特に翼端に近い機関銃ほど、その傾向が強かった。原因は、弾薬に使用されるコルダイトの過熱を防ぐため、機銃の構造をイギリス向けにオープンボルトへ変更したことであった[17]。根本的な解決策が見出されたのは1938年10月で、翼にラジエーターを据えてダクトを通じて機関銃に暖気を送った。しかし、8丁のブローニングを搭載していても大型機を撃墜するには威力不足であった。事実、戦闘報告において、1機を撃墜するのに平均で4,500発を撃っていたことが示された。1938年11月の装甲標的と非装甲標的に対する射撃試験により、本機には口径20 mmの火器が必要であると結論付けられた[18]。
1940年に開発されたスピットファイア Mk. Vは、武装によって主翼が異なった。A ウイングは最初期の翼と同等で、ブローニング機関銃を左右にそれぞれ4挺(弾数各350発)ずつ搭載可能であった。
B ウイングは左右にそれぞれイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各60発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各350発)ずつ搭載していた。Aウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲を搭載するためのバルジと翼から前方につきだした銃身保護用フェアリングである。
E ウイングは両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング M2 12.7 mm (.50) 機関銃を1挺(弾数各250発)ずつ搭載していた。B、C ウイングとの外見上の違いは20 mm 機関砲のフェアリングが外側にあること(外側が20 mm 機関砲の銃口、内側が12.7 mm 機関銃の銃口)である。
C ウイングはユニバーサル・ウイングともいい、次の3タイプの武装が可能であった[19]。a タイプでは、両翼それぞれにブローニング機関銃を4挺(弾数各350発)ずつ搭載した。b タイプでは、両翼それぞれにイスパノ20 mm 機関砲を1門(弾数各120発)ずつ、ブローニング機関銃を2挺(弾数各350発)ずつ搭載した。20 mm 砲弾数は、B ウイングのドラム式からベルト給弾に改められたため倍に増えている。Bウイングとの外見上の違いは、20 mm 機関砲用フェアリングの横に小さなフェアリングが付いている点である。c タイプでは、両翼それぞれにイスパノ 20 mm 機関砲を2門(弾数各120発)ずつ搭載した。
照準器に当初、GM-2が使用されていたが、後にジャイロ・ガンサイトのMk. IIが搭載された。
対地攻撃には、Mk. III 爆弾架を使用することで250ポンド爆弾を翼下に、500ポンド爆弾を胴体下に搭載可能であった。ロケット弾は、翼下に3.5インチHEロケット弾を搭載可能。
スピットファイアの短所のひとつである短い航続距離を延長するために、内装タンクの増加に加えて様々なタイプの外装式タンクが採用された。内装タンクは、胴体後部へのタンク追加、前部タンクの増量、翼前縁へのタンク追加がなされた。
コンフォーマルタンクを先取りしたとも言える、スリッパー式ドロップ・タンクは30英ガロン、45英ガロンの容量のものが作られた。さらにフェリー用の90英ガロンの容量を持つタンク、170英ガロンの大型スリッパー・タンクまで作られた。スリッパー型ドロップ・タンクの他、一般的な魚雷型ドロップ・タンクも使用された。
標準では、100オクタン燃料(緑色)を使用していたが、一部高速が要求される機種(後述のコードネーム「バスタ」)では150オクタン燃料が使用された。
ロールス・ロイス社のマーリンエンジンの後継が、同社の2000馬力級エンジンであるグリフォンエンジンである。同じ2段2速過給器搭載型で比較すると、
全長1.98m、全幅0.757m、全高1.145m、V型12気筒
全長2.05m、全幅0.749m 全高1.14m、V型12気筒
と、両者はほとんど大きさが変わっておらず、それゆえにスピットファイアにも搭載可能であった。
ただし乾燥重量だと948kgあり、744kgだったマーリンより200㎏ほど増えたので、対策として、大型垂直尾翼の採用により、操縦性の向上と同時に、機首のエンジンとの重量バランスを取った(Mk.XIV以降)。
マーリンの27,000 ccから37,000 ccへと排気量が大きくなり、オイルタンクも大きくなった事で、機首下部にあったオイルタンクを燃料タンクの前に移設した。この改修により、従来よりエンジンの取り付け位置が前に移ったことと、さらにスピナーも大型化したことで、機首が伸びた。また、グリフォンエンジンの出力軸はマーリンより少し低い位置にあるため、プロペラ軸の位置も少し下に下がり、さらに機首下部のオイルタンクが無くなったことで、スピナーに向けて機首が絞りこまれた。これらの結果、グリフォンスピットは、細身の印象の機体となった。
グリフォンエンジンのクランク回転方向はマーリンのそれとは異なり、減速後の軸の回転は左回り(パイロットから見て反時計回り)となるため、プロペラのピッチ[要曖昧さ回避](ひねり)もマーリンエンジン機とは逆である。シリンダーヘッドの張り出しが大きく、排気管上のフェアリングに大きな膨らみがある。これらの相違は搭載エンジンの外観上の識別点となる。ただし、このフェアリングの膨らみは、グリフォンエンジン自体が大きくなったからではなく(グリフォンの大きさはマーリンとほぼ変わらない)、機首の絞り込みにより、機首上面を曲面に整形したことによる。プロペラ軸がやや上方にあるマーリンエンジンでは、機首上面はやや角ばって整形されている。
総じてグリフォン搭載型は、エンジン出力の向上に機体強度が追いつかず、また、マーリンエンジンとはプロペラ回転トルクが反対方向になるため、当て舵が逆になることから、「高性能だが操縦が難しい」とされ、これらを失敗作と評価する向きも見られる。
なお、「グリフォン」という名称は、鷲の上半身とライオンの下半身をもつ伝説上の生物ではなく、シロエリハゲワシから取られたものである。「マーリン」も、アーサー王伝説の魔法使いではなく、コチョウゲンボウの事である。そもそもロールス・ロイスの航空エンジンが、「イーグル、ファルコン、ホーク」と猛禽類からの命名だったため、以後も踏襲したものである。
ロールス・ロイス グリフォンを搭載したスピットファイア Mk. XIIは1942年の夏までに配備された。このMk. XIIはわずか8分で高度1万メートルに達することができ、水平飛行で約640km/hの速度に達した。このタイプはマーリンエンジン搭載機に比べれば、速度と武装は向上したが、燃料消費が多く航続距離と搭載量に深刻な欠点をかかえていた。そのため、限定的な航続距離しか必要とされない本土防空戦闘機の役割が与えられ、もう一方のマーリンエンジン搭載機はヤーボとして運用された。
MK. 21以降は、正式にはスーパー・スピットファイアの名称が与えられているが、この名称は一般には浸透せず、単にスピットファイアと呼ばれることが多い。
第二次大戦勃発時にまともな艦上戦闘機を持たなかったイギリス海軍艦隊航空隊(Fleet Air Arms、FAA)は、艦上戦闘機としてハリケーンとスピットファイアのどちらが相応しいか調査を開始した。
1941年、FAAは空軍のスピットファイアMk.Vを100機借用した。FAAは54機を慣熟訓練用として運用し、残りには応急的にカタパルト用フックとアレスティング・フックを取り付け、離着艦テスト用の機体"Hooked Spitfire"として空母イラストリアスで試験が行った。
この試験の結果を受けて、最初から陸上機として生産されたスピットファイアに空母で運用するための着艦フックや折りたたみ式の主翼など艦上機用装置を装備すると共に機体構造を強化されたものが生産され、実戦部隊に配備された。スピットファイアは主脚の間隔が狭かったために安定した着艦が難しく、着艦時の事故が頻繁に発生したが、主脚の構造を艦上機として再設計している余裕がなかったため、設計の変更はなされていない。しかし、イギリス海軍にとって新型艦上戦闘機の導入は急務であったため、生産と配備は継続された。真っ先に投入されたのはソビエト連邦に向かう輸送船団で、第二次世界大戦中の北極海における輸送船団でアヴェンジャーなどの護衛空母に搭載された。
イギリス海軍向けのスピットファイアはシーファイア (Seafire) と呼称された。これは「海軍向けスピットファイア」を意味する「シースピットファイア (Sea Spitfire)」を省略したものであるが、Seafireとは日本でいうところの「不知火」を指す言葉でもある。スーパー・スピットファイアの艦上機型(MK. 45~47)を「スーパー・シーファイア」と呼ぶ事もあるが、公式な名称ではない。
スピットファイアは、バトル・オブ・ブリテンにおける勝利の立役者とされ、その設計者のミッチェルとともに「The First Of The Few(邦題「スピットファイア」)」という映画にもなって称賛されている。
ドイツのエースパイロットであるアドルフ・ガーランドが、「どんな飛行機が欲しいか」と聞いたヘルマン・ゲーリングに対し、皮肉を込めて「自分の部隊を全てスピットファイアにしていただきたい」と述べるなど、敵方のドイツ空軍パイロットからの評価も高い機体であった。
ハリケーンは、スピットファイアに対して翼の構造上、重武装を搭載するにあたり幾分か有利であった。それらは爆撃機や対地攻撃に効果を発揮し得たが、そういった火器を増強すると機動性と加速力、上昇力に影響を及ぼした。重くなったハリケーンはドイツの戦闘機との空戦には向かなかった。一方、スピットファイアはBf 109と肩を並べられる存在であった。
ドッグファイト(空中戦)では、その機動性とコックピットの良好な視界という要因によって、ドイツ軍の戦闘機に対してスピットファイアがかなり多く勝利をおさめている。燃料噴射装置を搭載するBf 109は、スピットファイアに追撃されるとマイナスGをかけながら降下して離脱した。在来のキャブレター式で燃料供給されるスピットファイアがマイナスGでエンジンが停止することを知っていたためである。設計陣とパイロットたちを悩ませたこの弱点は、王立航空機関 (RAE) の女性研究者ベアトリス・ティリィ・シリング(Beatrice (Tilly) Shilling)の考案になる、小さな孔をあけたダイヤフラムを追加してバルブをバイパスする、すこぶる簡潔だが巧みな仕掛け(通称「ミス・シリングのオリフィス」en:Miss Shilling's orifice 、邦訳「シリング嬢の煙突」)で打開された。バトル・オブ・ブリテンでは、スピットファイアが護衛戦闘機のBf 109やBf 110を攻撃し、その間にハリケーンが爆撃機を攻撃するといった戦法も用いられた。バトル・オブ・ブリテン全体で見れば、ドイツ軍が撃墜した10機のうち7機はハリケーンであった。
しかしながら、スピットファイアはライバルのBf 109と全く同じ、主脚の引き込み方式に由来する地上での安定性の不足、そして航続距離の短さという欠陥を抱えていた。防空戦闘機として活躍する際には航続距離は問題とならなかったものの、ドイツ本土に侵攻する爆撃機隊の護衛戦闘機としては致命的であった。ドイツとフランス上空が主戦場となった戦争の後半において、制空任務を務めたのは、増槽を持つアメリカ製のP-51 マスタングであり、イギリス空軍も本国の防空よりも敵地での地上攻撃が主となっていったことなどから、スピットファイアは戦闘爆撃機型と武装偵察機型の活躍が主となる。
戦闘爆撃機型のスピットファイアは、P-51やP-47などのアメリカの戦闘機や、ホーカー タイフーンやホーカー テンペスト等と比べれば、搭載量も航続距離も低かったが、これらの戦闘機よりも軽量で、滑走路も短くて済むため、地上部隊の直協任務に適していた。
防塵用フィルターのボークス(Vokes)を機首下に装備したスピットファイア Mk. Vが、ドイツ軍やイタリア軍と対峙していた北アフリカ、地中海、中東へ派遣された。最初に派遣されたのは補給が困難となったマルタ島で、1942年に空母イーグルから発艦して直接マルタ島の飛行場に降り立った。この進発を皮切りにスピットファイアが主に空母で送られたが、一時的にイギリス海軍がドイツ空軍の空襲により制海権を失いかけると、ジブラルタルからマルタ島まで直接無補給でスピットファイアを送る試みがなされた。この試みで、大型増槽の装備と武装の削減を施されたMk. Vが巡航で1,770 kmを無補給で飛び、17機のうち1機を除いてマルタ島にたどり着いた。その後もイギリス海軍の協力を得て、スピットファイアだけで270機以上がマルタ島に送られ、ドイツ空軍やイタリア空軍との戦闘を繰り広げた。
北アフリカでは、ボークス装備にともなう空気抵抗によって速度の低下及び機動性の劣化が避けられなかったため、小型のアブキール・フィルターが現地部隊によって開発された。これによって、速度の低下、機動性の劣化は多少改善された。また、より高性能なMk. VIIIが送られるとシシリー島やイタリア戦線でアメリカ空軍と連携して戦線を支えた。しかし、イタリア戦線でも制空任務への役割が低下すると、地上攻撃に従事した。
東部戦線では、ソ連に提供されたスピットファイアがドイツ軍と戦った。最初のスピットファイアはイラン経由でソ連に送られたMk.Vで、その後Mk. IXなどが追加された。 しかし、主脚トレッド幅の小さいスピットファイアは、整地不十分な前線の飛行場では離着陸時に事故を起こす危険性が高かった。 このため前線戦闘機(制空/戦術戦闘機)としては不適とされ、またソ連製戦闘機よりも高空性能に優れることから、後に都市部を守る防空軍に回され迎撃の任に就いた。
1942年(昭和17年)2月に、日本軍によるオーストラリア本土進攻の脅威を受けたオーストラリア首相のジョン・カーティンから、チャーチルに宛ててスピットファイアの派遣が要請された[20]。イギリス空軍(RAF)の戦闘機軍団に所属する第54飛行隊、第452飛行隊、第457飛行隊がリヴァプールを発ち、インド洋の制海権、制空権を得た日本軍を避けてオーストラリアのメルボルンに着いたのは同年6月であった。
第54飛行隊を除き、パイロットはオーストラリア人で構成されており、48機のMk. Vを装備していた。10月になって定数機が全て揃い、翌月にクライヴ・コールドウェル少佐を指揮官に据えてオーストラリア空軍(RAAF)第1戦闘航空団が編成された[20]。
年が明けた1943年の1月から、各部隊はオーストラリア北部への配置が開始され、3月にラバウルからクーマリー・クリーク基地へ襲来した大日本帝国海軍の第202海軍航空隊と第753海軍航空隊を迎撃したのが初の本格的な空戦であった[21]。5月2日の戦闘では5機のスピットファイアを失ったが、6機から10機の日本海軍機を撃墜した[22]。しかし、その他の5機が機体の損傷や燃料不足、エンジン故障で不時着し、このうちの2機だけが戦線へ復帰した[22]。
1943年2月から、ポートダーウィン上空に来襲する日本海軍の零式艦上戦闘機と数次に渡って会戦した。状況は非常な長時間飛行で長駆飛来する零戦を、レーダー管制にて待ち伏せ迎撃するという、スピットファイアにとっては極めて有利なものであったが、結果は零戦の5機喪失(未帰還3機)に対し、スピットファイアは喪失42機(未帰還機26機)という一方的なものであった[23]。このほか、両軍一次資料による実損害等と照らし合わせたものでは、全9回の日本海軍との空戦で零戦7機喪失に対しスピットファイア34ないし35機喪失となる[24]大きな損害を受けた。
RAAFパイロットの多くは、欧州戦線で高速のBf 109やFw 190へスピットファイアの旋回性能を生かした格闘戦で対抗してきた経験から、それまでに高い操縦性を持つ零戦と対峙していたP-40戦闘機隊の「一撃離脱戦法に徹すべき」という忠告を聞かず、零戦が得意とする格闘戦に正面から挑んでいき多くが撃墜された。対戦した日本側の第202海軍航空隊、第753海軍航空隊が、搭乗時間1,000時間以上の熟練パイロットで構成されていたことも敗因とされる。
この結果を受けてRAAFのコールドウェル中佐は、零戦の対策法として「零戦とドッグファイトに入るのは賢明ではない。高速を利用した急降下攻撃を何度も繰り返すべきである」とパイロットに訓示しているが、優秀な操縦士と性能に優れる零戦を持つ日本海軍に対する戦況は好転しなかった。
日本海軍による一連の空襲の後の1943年6月20日、日本陸軍の第7飛行師団も一式戦闘機「隼」以下戦爆連合をもってダーウィンを攻撃した。本戦にて日本陸軍は爆撃を成功させ、一式戦「隼」も爆撃機を護りつつ、倍の数のスピットファイアとの空戦に勝利している。参加部隊と機体は飛行第59戦隊の一式戦「隼」22機、飛行第61戦隊の一〇〇式重爆撃機「吞龍」18機、飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機9機の3個飛行戦隊計49機(これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」2機も出撃)、対するRAAFはレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃した。
戦闘の結果は一〇〇式重爆「吞龍」1機被撃墜に対し、スピットファイア2機被撃墜であった[25]。本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長がいぶかしむほどであった[26]。
さらに、高温多湿の太平洋アジア戦線においてスピットファイアは、飛び立っても高空では急激に温度が低くなり、低温の影響で定速装置のオイルが凝固すると制御不能となってエンジンを停止しなければならないという問題があり、被弾しなかったにもかかわらず機体故障のために未帰還となる機体が続出した[27]。さらに、赤道に近い地域では地上での高温多湿が機体を痛め、徹底的なメンテナンスを必要とさせたが、イギリス本土から遥か遠くという地理条件がある上に、1942年のセイロン沖海戦以降、1944年後半に至るまでインド洋の制海、制空権を長く日本が支配していたために、イギリス本土からの部品の供給がはかどらずに予備部品の不足が発生し[28]、その上、予備のエンジンを用意していないという重大なミスも犯していた[29]。
さらに、オーストラリアを拠点に太平洋戦線に当初配備されたスピットファイアは、当時の欧州戦線作戦機と比較すると旧式のMk.Vで、さらに防塵用フィルターが装備されていたため速度が30km/hほど低下していた[30](RAAFはMk. VIIIに機種交換するまで悩まされた[27])。
極東のRAF・RAAFにおいてMk.VIIIの配備、充足は、大西洋とインド洋の制海権を連合国軍が取り返しつつあった1944年となる。1945年中旬に入ると、アメリカ海軍の空母とともに沖縄や日本本土近海に進出したインディファティガブルなどのイギリス海軍空母艦載機のシーファイアーが沖縄戦や日本本土への攻撃に参加した。
イギリス空軍はビルマの制空権はスピットファイアによって獲得されたとその性能を高く評価した。 イギリス空軍公刊戦史によると、スピットファイアの日本軍機相手のキルレートは8対1であり、スピットファイアなくしてイギリス軍の勝利はなかったとしている[31]。 一例を上げるとニュージーランドの撃墜王アラン・パートは単機で飛行場を襲撃した日本軍機20機相手に40分間互角以上に戦い、1機を撃墜するという凄まじい戦果を上げた[31]。
オーストラリア防空戦の後の1943年後半、背後にイギリス領インド帝国を持つ極東太平洋戦域におけるイギリス空軍の主戦場であり、中華民国内に拠点を持つ同盟軍アメリカ陸軍航空軍と共に日本陸軍航空部隊と対峙するビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に、ハリケーンの後続としてスピットファイアは投入された。 チッタゴン飛行場に配備されたスピットファイア3個中隊は一〇〇式司偵3機を初陣で落とした。 同方面でのスピットファイアの本格的交戦は1943年11月22日である。当時、日本陸軍飛行第50戦隊と飛行第33戦隊の一式戦「隼」22機が、イギリス空軍の基地であるチッタゴン飛行場に侵攻、現地のRAFはレーダーで来襲を探知しスピットファイア10機とハリケーン57機を迎撃に揚げた。しかし、スピットファイアMk.V 1機(第615飛行隊レオナード少尉機)とハリケーン1機(第146飛行隊グリフィス軍曹機、水田に不時着)が一式戦「隼」に一方的に落とされ、RAFが狙った一式戦「隼」を撃墜することは出来ず、日本陸軍戦闘隊は喪失なく全機が無事に帰還した。RAF側はレーダーで来襲を探知し、約3倍と圧倒的な数の戦闘機で邀撃出来たにかかわらず、ビルマ航空戦で初陣を飾ったスピットファイアはまたしても登場早々一式戦に一方的に撃墜された[32]。
同年12月5日、日本軍は戦爆連合をもってイギリス領インド帝国のカルカッタを爆撃する龍一号作戦を実施した。(本作戦は、ビルマでの航空作戦を担当する日本陸軍航空部隊のみならず少数ながら日本海軍航空部隊も参加し、零戦および一式陸上攻撃機が投入されている。)
侵攻に先立ち各地に飛んでいた一〇〇式司偵がチャフを散布し、日本軍のマグエ飛行場群からは飛行第64戦隊、第33戦隊、飛行第204戦隊の一式戦74機と飛行第98戦隊の九七式重爆撃機17機、続いて第三三一海軍航空隊の零戦27機、第七〇五海軍航空隊の一式陸攻9機が出撃しカルカッタを目指した。侵攻途中で第258飛行隊のハリケーンの奇襲を受け九七重爆1機を喪失するも、援護する一式戦「隼」はこれを撃墜、また爆撃自体も成功し任務は成功を収めた。この迎撃戦でイギリス空軍はスピットファイア1機とハリケーン10機を喪失、一式戦「隼」はこのうちスピットファイア1機とハリケーン7機を撃墜、零戦はハリケーン3機のみを撃墜、日本軍戦闘隊に喪失は無く一方的な戦闘であった[33]。 1943年12月31日には日本軍の戦爆連合がアラカン南部を爆撃、12機のスピットファイアが迎撃し日本軍は5機の重爆を失い1機の戦闘機を失った。 1944年1月15日スピットファイア中隊は日本軍の送り込んだ単発戦闘機の全て(撃墜16、大破5、損害19機)を撃破した。
1944年1月15日に、各中隊にわかれ、8機ずつモンドウ等に順次制空を行う予定だった飛行第64戦隊の一式戦「隼」計24機は、的確な管制に導かれたスピットファイアと交戦、2機を撃墜したものの、開戦以来の古参も含む5機が撃墜され、64戦隊の開戦以来の大打撃を被った[34][35]。
1月20日に、飛行第204戦隊の一式戦「隼」はスピットファイアMk.V 2機を撃墜(第607飛行隊ソール准尉機・ケネディ軍曹機)し3機を撃破、日本陸軍の損害は1機不時着のみ。また2月5日は、第64戦隊の一式戦「隼」は損害無くスピットファイア1機(第136飛行隊カーロン曹長機)とハリケーン2機(第11飛行隊ブライト中尉機・コーベット軍曹機)を撃墜[36]した。
2月13日、飛行第64戦隊の一式戦「隼」の英軍弾薬集積所を攻撃、上空直掩をしていた隼がスピットファイアと戦闘、損害を与えることはできず、1機を喪失した[37]。
3月17日午後に第204戦隊は15機でモーニン飛行場を攻撃し、第81飛行隊のうち、かろうじて地上攻撃を免れたスピットファイア2機と交戦、1機を喪失するも、エースかつ指揮官機たるスピットファイア1機を撃墜(第81飛行隊長ホワイタモア少佐機)、離陸態勢の1機を撃滅(クールーター大尉機、炎上)、さらに2機を地上破壊している[38]。
4月17日、25日の両日において、飛行第64戦隊の一式戦「隼」はスピットファイアと交戦、損害を与えることができず、1機が被弾により飛行継続困難となり自爆、1機が撃墜されている[39]。
5月6日、飛行第50、204戦隊は25機で8戦隊の双軽3機を護衛していたが、迎撃にあがった第607飛行隊のスピットファイア12機と交戦、損害を与えることはできずに一式戦「隼」1機が撃墜され、続く11日、64戦隊がスピットファイアと交戦し、一方的に1機撃墜された。同月14日にも、各戦隊から5機ずつ選抜された15機がスピットファイアと交戦、4機を被弾、損傷させたものの、1機が撃墜された[40]。
6月17日、本来の航路を外れたウェリントンを撃墜した第50、204戦隊の隼計14機は、緊急出動した第607、615飛行隊のスピットファイアと交戦、1機を撃墜したものの、「P-38撃墜王」と呼ばれた五十嵐機を含む6機が一挙に撃墜されている。これは、隼がインパール作戦協力した最後の戦闘であった[41]。
1943年7月2日から1944年7月30日の期間、ビルマ戦線における空戦で日本陸軍の一式戦「隼」は連合軍機135機を確実撃墜し、対する空戦損害は83機喪失のみ。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機、爆撃機等32機、輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機、スピットファイア18機、P-51 15機、P-38 8機、P-40 4機、P-47 1機。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はハリケーン3機、スピットファイア16機、P-51 12機、P-38 13機、P-40 14機、スピットファイアまたはハリケーン3機等となる[42]。
日本軍劣勢の大戦後期においても、ビルマで日本陸軍航空部隊は強力な連合軍空軍と互角の勝負を、時には勝利を収めており、一式戦「隼」とスピットファイアもまた撃墜、被撃墜機数ではほぼ同等であるなど、名実ともに互角以上の関係であった[要出典]。
1944年12月11日に、第273飛行隊のスピットファイアMk.VIII 12機はモンドウ地上攻撃から帰還中である第64戦隊の一式戦28機と交戦。一式戦「隼」を撃墜することは出来ず1機が撃墜された(第273飛行隊バリオン准尉機)[43]。一方で1945年1月9日、アキャブ沖の連合軍艦船攻撃に来襲した第64戦隊の一式戦と第50戦隊の四式戦闘機「疾風」を、レーダー管制に導かれたスピットファイアが襲撃、第64戦隊長江藤豊喜少佐機やエース山本隆三軍曹機を含む計4機の一式戦「隼」を一方的に撃墜する戦果を残している[44]。
大戦末期となる1944年8月18日から、日本の敗戦間際の1945年8月13日の約1年間にかけてビルマを初めとする東南アジア方面(イギリス領ビルマ、フランス領インドシナ、マレー、インドネシア、タイ王国等)を担当する日本陸軍第3航空軍戦域において、一式戦「隼」は連合軍機63機を撃墜(このほか一式戦が撃墜した可能性がある未帰還9機が存在し、それを含めた場合は連合軍機72機を撃墜)、対する空戦損害は61機喪失を記録。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機14機(18機ないし19機)・爆撃機等32機(36機ないし37機)・輸送機等17機に上り、戦闘機の詳細はP-47 4機、スピットファイア3機、P-38 2機、F4U 2機、P-51D 1機、F6F 1機、ハリケーン1機(先述の一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機の内訳は、戦闘機等がハリケーン3機、F4U 1機、爆撃機等がB-29 2機、PB4Y-1 1機、B-24 1機、ファイアフライまたはTBF1機)。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はスピットファイア7機、F6FまたはF4U 17機、P-38 11機、P-51 6機、P-47 6機であった[45]。
第二次世界大戦後の1960年代になっても、イギリスの元植民地や影響圏であるエジプト、アイルランド、イスラエル、シリア、トルコ、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、インド、ビルマ、タイなどに輸出、譲渡された機体が世界各国で使用されていた。
同じくイギリスの元植民地である国が参戦した中東戦争では、敵味方にわかれてスピットファイア同士が戦う場面も見られた。かつてのライバルBf 109の戦後型であるアヴィア S-199との戦闘も発生している。
スピットファイアの優秀さと、その優美な機体や先が細い楕円翼は、無数の愛好家を集め、敵側にも惚れ込んだ者がいた。ゲーリングがガーランドに(イギリス空軍に勝つために)何が必要かと聞くと、ガーランドは「英国のスピットファイアを」と答えた[46]。これは当時ゲーリングが爆撃機を援護する戦闘機隊に対し、先回りして敵迎撃機を掃討する制空戦を止め、爆撃隊に寄り添って護衛する直奄方式に専念するよう命令したことへの反論でもある。速度を生かした一撃離脱を得意とする重戦Bf110を速度の遅い爆撃機に張り付かせるということは、必然的に軽戦であるハリケーンやスピットファイアとの(Bf110にとっては不得手な)格闘戦に巻き込まれてしまう事を意味していた。
制式名称 | Mk.Ia | Mk.II A | Mk.Va | Mk.Vb | Mk.IX E | Mk.XIV E | Mk.XVIII |
---|---|---|---|---|---|---|---|
試作名称 | K5054 | ||||||
全幅 | 11.23m | ||||||
全長 | 9.12m | 9.47m | 9.96m | 10.14m | |||
全高 | 3.02m | 3.86m | |||||
翼面積 | 22.48m2 | 21.46m2 | 22.48m2 | ||||
翼面荷重 | 117kg/m2 | 122kg/m2 | kg/m2 | 137kg/m2 | 171kg/m2 | kg/m2 | |
自重 | 1,953kg | 2,059kg | 2,267kg | 2,309kg | 3,040kg | ||
正規全備重量 | 2,692kg | 2,799kg | 2,911kg | 3,000kg | 3,354kg | 3,889kg | 4,222kg |
発動機 | ロールス・ロイス マーリンIII(離昇1,030馬力) 1基 |
ロールス・ロイス マーリン12(離昇1,135馬力) 1基 |
ロールス・ロイス マーリン45(離昇1,470馬力) 1基 |
ロールス・ロイス マーリン66(離昇1,720馬力) 1基 |
ロールス・ロイス グリフォン65(離昇2,050馬力) 1基 |
ロールス・ロイス グリフォン66(離昇2,035馬力) 1基 | |
最高速度 | 582km/h(高度5,669m) | 570km/h(高度5,349m) | 630km/h(高度6,300m) | 605km/h(高度4,000m) | 650km/h(高度6,400m) | 720km/h(高度5,200m) | 708km/h(高度5,200m) |
上昇力 | 11.0m/秒(高度2,956m) | 15.3m/秒(高度3,962m) | - | 13.5m/秒 | 24.1m/秒(高度3,048m) | - | - |
航続距離 | 680km | 651km | 1,827km(落下式増槽装備時) | 1,840km(落下式増槽装備時) | 1,577km(落下式増槽装備時) | 1,368km(落下式増槽装備時) | - |
武装 | ブラウニング AN/M2 Mk.II 7.7mm機関銃 8挺(携行弾数各350発) |
イスパノ Mk.II 20mm機関砲 2門(携行弾数各60発) ブラウニング AN/M2 Mk.II |
イスパノ Mk.II 20mm機関砲 2門(携行弾数各120発) ブラウニング AN/M2 12.7mm機関銃 2挺(携行弾数各250発) | ||||
爆装 | - | - | - | 胴体下 110kg爆弾 2発 | 胴体下 230kg爆弾 1発 翼下 110kg爆弾 2発 |
胴体下 227kg爆弾 1発 翼下 113kg爆弾 2発 |
翼下 ロケット弾 2発から4発 |
生産数 | 1,549機 | 920機 | 94機 | 3,923機 | 1,294機(Mk.IX) | 500機(Mk.XIV) | 202機 |
出典:The Great Book of Fighters[47] and Jane's Fighting Aircraft of World War II[48]
出典:Spitfire: The History[49]
型名 | 機体番号 | 機体写真 | 国名 | 所有者 | 公開状況 | 保存状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Spitfire | |||||||
F Mk.Ia | K9942 6S/30225 |
イギリス | イギリス空軍博物館コスフォード館 | 公開 | 静態展示 | 他の画像 | |
F Mk.Ia | N3200 441 |
イギリス | フライング・レジェンズ (Flying Legends) |
公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.Ia | P9306 508FF |
アメリカ | シカゴ科学産業博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Ia | P9374 TE566 6S/30565 |
イギリス | マーク1パートナーズ株式会社 | 公開 | 飛行可能 | P9374として製造されたのち、チェコに移されTE566と番号が変更された。 | |
F Mk.Ia | P9444 6S/30613 |
イギリス | ロンドン科学博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Ia | R6915 6S/80914 |
イギリス | ロンドン帝国戦争博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Ia | X4590 6S/81254 |
イギリス | イギリス空軍博物館ロンドン館 | 公開 | 静態展示 | 2016年にコスフォード館から移された際、整備が行われた。他の画像 | |
F Mk.Ia | X4650 6S/75531 |
アメリカ | コマンシェ・ファイターズ (Comanche Fighters) |
非公開 | 飛行可能 | 2016年5月23日に収録されたダンケルクにR9612号機の塗装を施して出演した。 | |
F Mk.Ia | AR213 WASP/20/2 |
イギリス | スピットファイア・ザ・ワン (Spitfire The One) |
非公開 | 飛行可能 | ダンケルクにR9632号機の塗装を施して出演した。 | |
F Mk.IIa | P7350 CBAF.14 |
イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊 ヴィジターセンター |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
F Mk.IIa | P7540 CBAF.124 |
アメリカ | ダンフリース・ギャロウェイ航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.IIa | P7973 CBAF.492 |
写真 | オーストラリア | オーストラリア戦争記念館 | 公開 | 静態展示 | |
F Mk.IIa | P8088 CBAF.534 |
写真 | イギリス | マーク・ロデリック・オリヴァー氏 | 公開 | 静態展示 | |
F Mk.IIa | P8332 CBAF.711 |
写真 | カナダ | カナダ戦争博物館 (Canadian War Museum) |
公開 | 静態展示 | |
F Mk.Vb | BL370 CBAF.1402 |
アメリカ | 国立第二次世界大戦博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Vb | BL614 CBAF.1646 |
イギリス | イギリス空軍博物館ロンドン館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Vb | BL628 CBAF.1660 |
アメリカ | ルイス・エア・レジェンズ (Lewis Air Legends) |
公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.Vb | BL655 CBAF.1680 |
イギリス | リンカーンシャー航空センター (Lincolnshire Aviation Heritage Centre) |
公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Vb | BM597 CBAF.2461 |
イギリス | フライング・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
LF Mk.Vb | AB910 CBAF.1061 |
イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊 ヴィジターセンター |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
LF Mk.Vb | EP120 CBAF.2403 |
イギリス | フライング・レジェンズ (Frying Legends) |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
LF Mk.Vb | EP122 CBAF.2405 |
アメリカ | フライング・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | ダンケルクにMk.I R9649号機の塗装を施して出演した。 | |
F Mk.Vc | AR614 WASP/20/288 |
アメリカ | フライング・ヘリテージ・コレクション | 公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.Vc | BR108 2718 |
写真 | マルタ | 国立戦争博物館 | 公開 | 静態展示 | |
F Mk.Vc | BR491 3101 |
エジプト | エル・アラメイン軍事博物館 (El Alamein Military Museum) |
公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Vc | EE602 WWA.2822 |
写真 | イギリス | ビギン・ヒル・ヘリテージ・ハンガー (Biggin Hill Heritage Hangar) |
公開 | 飛行可能 | |
F Mk.Vc | EE853 A58-592 WASP/20/484 |
オーストラリア | 南オーストラリア航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.Vc | JK448 CBAF.4690 |
セルビア ベオグラード | 航空博物館 | 公開 | 静態展示 | JK808号機の塗装で展示されている。 | |
F Mk.Vc | LZ844 A58-213 6S/370240 |
写真 | イギリス | マーティン・コブ氏 (Martin Cobb) |
非公開 | 飛行可能 | |
F Mk.Vc | MA863 A58-246 CBAF.5522 |
アメリカ オハイオ州 | 国立アメリカ空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 地中海で任務に就いていた、第31戦闘飛行群内の米空軍第308戦闘飛行隊所属機の塗装がされている。 | |
LF Mk.Vc | AR501 WASP/20/223 |
イギリス | シャトルワース・コレクション | 非公開 | 飛行不能 | ||
LF Mk.Vc | JG891 A58-178 |
イギリス | フライング・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | ||
HF Mk.VIIc | EN474 6S/171652 |
アメリカ | 国立航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.VIII | JF294 5501 6S/238666 |
南アフリカ共和国 | 南アフリカ国立軍事歴史博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.VIIIc | JG668 A58-441 6S/196514 |
写真 | イギリス | ウェールズ・スピットファイア博物館 | 公開 | 静態展示 | |
LF Mk.VIIIc | MT719 6S/479770 |
アメリカ | キャヴァナー航空博物館 | 公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.VIIIc T Mk.VIII |
MT818 6S/729058 |
写真 | アメリカ | エリクソンエアクレイン株式会社 | 非公開 | 飛行可能 | 他の画像502 Spitfire T8 AN0704754.jpg |
HF Mk.VIIIc | MV154 6S/583793 |
ドイツ | マックスアルファ航空有限会社 (MaxAlfa Aviation GmbH) |
公開 | 飛行可能 | MT928の塗装がされている。他の画像 | |
HF Mk.VIIIc | MV239 A58-758 6S/581740 |
オーストラリア | テモラ航空博物館 | 公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.IX | MH603 CBAF.5589 |
写真 | オーストラリア ニュー・サウス・ウェールズ州 | ヴィンテージ・ファイター・リストレーションズ (Vintage Fighter Restorations) |
公開 | 修復中 | |
LF Mk.IX T Mk.IX |
MJ627 CBAF.7722 |
アメリカ | ビギン・ヒル・ヘリテージ・ハンガー | 公開 | 飛行(搭乗)可能 | ||
LF Mk.IX T Mk.IX |
MJ772 CBAF.7263 |
アメリカ | ミュージアム・オブ・フライト | 公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IX (T Mk.IX) |
PV202 CBAF.9590 |
イギリス ウェスト・サセックス州 | ブールトビー飛行学校 (Boultbee Flight Academy) |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
LF Mk.IX | TA805 CBAF.10372 |
イギリス | マイク・シンプソン氏 (Mike Simpson) |
非公開 | 飛行可能 | ||
HF Mk.IX | TD314 CBAF.10492 |
イギリス | エアロ・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | ||
T Mk.IX | MH367 CBAF.5487 |
ニュージーランド | ニュージーランドウォーバード協会 | 非公開 | 飛行(搭乗)可能 | ||
LF Mk.IXb | MH434 H-105 H-68 CBAF.IX552 |
イギリス | オールド・フライング・マシン・カンパニー (Old Flying Machine Company) |
非公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
HF Mk.IXb | MH415 H-108 H-65 SM-40 CBAF.IX533 |
オーストラリア ニュー・サウス・ウェールズ州 | ヴィンテージ・ファイター・リストレーションズ | 公開 | 修復中 | ||
F Mk.IXc | MK959 17-804 |
アメリカ | テキサス・フライング・レジェンズ博物館 (Texas Frying Legends Museum) |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXc | MJ143 CBAF.IX907 |
オランダ | 国立軍事博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXc | MJ271 CBAF.IX970 |
イギリス ウェスト・サセックス州 | ブールトビー飛行学校 | 公開 | 飛行可能 | 2019年に修理が行われた。この際表面は銀色の金属地を剥き出した状態に仕上げられ「シルバースピットファイア」と名付けられる。2019年8月より世界一周ツアーを敢行[50]。その途中で日本にも立ち寄るが、台風シーズンと重なったこととメンテナンスによる日程変更もあり2019年9月21日から10月23日にかけての長期滞在となった[51]。 | |
LF Mk.IXc | MJ783 CBAF.IX1301 |
ベルギー | 王立軍隊軍事史博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXc | MK356 CBAF.1561 |
イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊ヴィジターセンター | 公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
LF Mk.IXc | MK732 CBAF.IX1732 |
オランダ | オランダ空軍歴史飛行小隊 (Royal Netherlands Air Force Historical Flight) |
非公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXc | MK805 CBAF.IX1780 |
イタリア | イタリア空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXc | MK912 CBAF.IX1875 |
カナダ | ラッセル航空機グループ (Russell Aircraft Group) オーナー:エドワード・ラッセル(Edward Russell) |
非公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXc T Mk.IX |
ML407 CBAF.8463 |
イギリス | カロライン・グレイス氏 (Carolyn Grace) |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXc | ML427 CBAF.IX2131 |
イギリス | シンクタンク・バーミンガム科学博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXc | NH188 CBAF.IX2161 |
カナダ | カナダ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXc T Mk.IX |
PV270 CBAF.9590 |
ニュージーランド | ブレンドン・ディアー氏 (Brendon Deere) |
非公開 | 飛行可能 | ||
HF Mk.IXc | MK923 CBAF.IX1886 |
アメリカ | ミュージアム・オブ・フライト | 公開 | 静態展示 | ||
HF Mk.IXc | ML255 CBAF.8342 |
横からの写真 | ポルトガル | 航空博物館 | 公開 | 静態展示 | |
HF Mk.IXc | RR232 5632 |
イギリス ウェスト・サセックス州 | ブールトビー飛行学校 | 公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.IXe | EN199 3677 |
マルタ | マルタ航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXe | EN145 6S/240837 |
イスラエル | イスラエル空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 他の画像 | |
LF Mk.IXe | MH350 CBAF.IX490 |
ノルウェー | ノルウェー航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXe T Mk.IX |
ML417 HS543 6S-730116 6S-735188 |
アメリカ | チノ・スピットファイア株式会社 (Chino Spitfire LLC) |
非公開 | 飛行可能 | LF Mk.IXcに改造されている。 | |
LF Mk.IXe (T Mk.IX) |
NH341 CBAF.8912 |
イギリス | エアロ・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXe | PL344 CBAF.9590 |
アメリカ | サザン航空機株式会社 (Southern Aircraft Inc) |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXe | SL633 20-42 UB425 CBAF.IX571 |
アメリカ | フライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館 | 公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXe | TE213 CBAF.11274 |
南アフリカ共和国 | 南アフリカ空軍歴史飛行小隊 (SAAF Historic Flight) 保管場所:南アフリカ空軍博物館 |
公開 | 修理中 | ||
LF Mk.IXe | TE554 A408 20-57 17-1351 |
イスラエル | イスラエル空軍博物館 | 公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.IXe S.89 |
TE565 CBAF.11397 |
チェコ | ナロドニ技術博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.IXe S.89 |
TE578 20-28 (SL653?) CBAF.IX558 |
イスラエル | イスラエル空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 殆どの参考サイトにはTE578で記してあるが一部ではSL653とされている。可能な限り調査した限りではTE578が本来の機体記号で、SL653は現在の塗装の元の機体であると思われる。 | |
LF Mk.IXe | UB421 CBAF.IX550 |
写真 | ミャンマー | 防衛軍博物館 (Defence Forces Museum) |
公開 | 静態展示 | RAF所属時の番号は不明。他の画像 |
HF Mk.IXe | MA793 5601 |
ブラジル | TAM博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
HF Mk.IXe | MJ730 CBAF.7243 |
写真 | アメリカ | 軍事航空博物館戦闘機ファクトリー | 公開 | 飛行可能 | |
HF Mk.IXe | NH417 41-401 |
デンマーク | ストーニング空港内の デンマーク飛行博物館 |
公開 | 静態展示 | 元々はHF Mk.Vcであったが運用途中で改造された。 | |
HF Mk.IXe (T Mk.IX) |
PT462 MM4100 20-67 |
イギリス | 航空機修理社 | 公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
HF Mk.IXe (T Mk.IX) |
SM520 CBAF.10164 |
イギリス ウェスト・サセックス州 | ブールトビー飛行学校 | 公開 | 飛行可能 | ||
HF Mk.IXe (T Mk.IX) |
TE308 CBAF.4494 |
アメリカ | ウィリアム・S・グリーンウッド (William S. Greenwood) |
非公開 | 飛行可能 | ||
PR Mk.X | PA908 M342 6S/417723 |
アメリカ | 国立アメリカ空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | PR Mk.XIとして展示されている。 | |
PR Mk.XI | PL965 6S/504719 |
イギリス | ハンガー11コレクション (Hangar 11 Collection) |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
PR Mk.XI | PL979 6S/583719 |
ノルウェー | ノルウェー軍用機コレクション | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.XII | EN224 6S/197707 |
写真 | イギリス | エア・リーシング有限会社 (Air Leasing Ltd) |
非公開 | 修復中 | |
F Mk.XIV | SM832 6S/663452 |
アメリカ | コマンシェ・ファイターズ (Comanche Fighters) |
非公開 | 飛行可能 | PR Mk.XIVとして発注された。 | |
FR Mk.XIV | MV293 6S/649205 |
イギリス | ザ・ファイター・コレクション | 非公開 | 飛行可能 | MV268の塗装となっている。 | |
FR Mk.XIV | NH749 6S/5838873 |
アメリカ | 記念空軍(CAF) | 公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XIV | NH799 6S/648269 |
ニュージーランド | アヴィエーショントレーディングカンパニー有限会社 (Aviation Trading Company Ltd、セール中) |
公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XIVc | MV246 SG-55 6S/649170 |
ベルギー | 王立軍隊軍事史博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
FR Mk.XIVc | MV370 |
ドイツ | ハノーファー航空機博物館 (Hannover Aircraft Museum) |
公開 | 静態展示 | 他の画像 | |
FR Mk.XIVc | NH904 6S/648206 |
アメリカ | パームスプリングス航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
FR Mk.XIVc | RM921 6S/432331 |
写真 | ベルギー | フロレンヌ空軍基地 | 公開 | 静態展示 | |
F Mk.XIVe | RN201 SG-31 6S/663417 |
イギリス | 航空機修理社 | 非公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XIVe | MT847 6S/643779 |
アメリカ アリゾナ州 | ピマ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
FR Mk.XIVe | SM914 6S/585092 |
タイ | タイ王国空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 他の写真 | |
FR Mk.XIVe | TZ138 6S/676505 |
写真 | アメリカ | ロバート・ジェンス(Robert Jens) | 非公開 | 飛行可能 | |
LF Mk.XVIe | RR263 CBAF.IX3310 |
フランス | ル・ブルジェ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | RW386 CBAF.IX4644 |
スウェーデン | ビルテマ・スウェーデンホールディングス (Biltema Sweden Holding AB) |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.XVIe | RW388 CBAF.IX4646 |
イギリス | 陶器博物館・美術館 | 公開 | 静態展示 | 他の画像 | |
LF Mk.XVIe | RW393 CBAF.IX4651 |
イギリス | イギリス空軍博物館ロンドン館 | 公開 | 静態展示 | TB675として展示されている。他の画像 | |
LF Mk.XVIe | SL574 CBAF.IX4688 |
アメリカ | サンディエゴ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | SL721 CBAF.IX4756 |
カナダ | ヴィンテージ・ウィングス・オブ・カナダ (Vintage Wings of Canada) |
非公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.XVIe | SM411 (TB995) CBAF.IX3495 |
ポーランド | ポーランド航空博物館 | 公開 | 静態展示 | TB995はポーランドに置かれていたRAF308飛行隊所属機で、現在その塗装で展示されている。実際のSM411は1945年当時のRCAF421飛行隊所属機。 | |
LF Mk.XVIe | TB752 CBAF.IX4113 |
イギリス | スピットファイア・ハリケーン記念博物館 (Spitfire & Hurricane memorial museum) |
公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | TB863 CBAF.10895 |
オーストラリア | テモラ航空博物館 (Temora Aviation Museum) |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.XVIe | TB885 CBAF.10917 |
写真 | アメリカ | フライ・ア・スピットファイア・ビギン・ヒル (Fly A Spitfire Biggin Hill) |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 |
LF Mk.XVIe | TD248 CBAF.IX4262 |
イギリス | スピットファイア株式会社 (Spitfire Ltd.) |
非公開 | 飛行可能 | 他の画像Spitfire Mk XVI NR crop.jpg | |
LF Mk.XVIe | TE184 CBAF.IX4394 |
イギリス | ビギン・ヒル・ヘリテージ・ハンガー | 公開 | 飛行可能 | 他の画像Supermarine Spitfire LF Mk.XVIE Kraków Air Show 5282.jpg | |
LF Mk.XVIe | TE214 CBAF.4424 |
写真 | カナダ | カナダ軍用機遺産博物館 | 公開 | 静態展示 | |
LF Mk.XVIe | TE288 CBAF.11414 |
ニュージーランド | ニュージーランド空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | TE311 CBAF.IX4497 |
イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊
ヴィジターセンター |
公開 | 飛行可能 | ||
LF Mk.XVIe | TE330 CBAF.IX4504 |
写真 | 中国 | 中国空軍航空博物館 | 公開 | 静態展示 | |
LF Mk.XVIe | TE356 CBAF.11470 |
アメリカ | エヴァーグリーン航空博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | TE456 CBAF.IX4590 |
ニュージーランド | オークランド戦争記念館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | TE462 CBAF.IX4596 |
イギリス | 国立飛行博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
LF Mk.XVIe | TE476 CBAF.IX4610 |
アメリカ | ファンタジー・オブ・フライト | 公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XVIIIe | SM845 6S/672224 |
イギリス | スピットファイア株式会社 | 非公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
FR Mk.XVIIIe | SM969 6S/663052 |
アメリカ | HMB・P-51C有限会社 (HMB P51C LLC) オーナー:ジム・べスリー(Jim Beasley) |
非公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XVIIIe | SM986 HS986 6S/643887 |
インド | インド空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
FR Mk.XVIIIe | TP276 6S/676368 |
写真 | アメリカ | フラスカ航空博物館(Frasca Air Museum) /フラスカインターナショナル株式会社 (Frasca International Inc) |
非公開 | 修復中 | |
FR Mk.XVIIIe | TP280 6S/676372 |
アメリカ | フラスカ航空博物館 | 非公開 | 飛行可能 | ||
FR Mk.XVIIIe | TP285 HS649 6S/672268 |
オランダ | 国立戦争・レジスタンス博物館 | 公開 | 静態展示 | RM927の主翼を使用してMk.XIVeとして修復された。NH649の塗装で展示されている。 | |
PR Mk.XIX S.31 |
PM627 HS964 6S/699626 |
スウェーデン | スウェーデン空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
PR Mk.XIX | PM631 6S/683528 |
写真 | イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊 ヴィジターセンター |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 |
PR Mk.XIX | PM651 6S/687107 |
写真 | イギリス | イギリス空軍博物館 | 非公開 | 飛行可能 | |
PR Mk.XIX | PS853 6S/683528 |
イギリス | ロールス・ロイス株式会社 (Rolls Royce PLC) |
非公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
PR Mk.XIX | PS890 6S/585110 |
イギリス | フライング・レジェンズ | 公開 | 飛行可能 | 何度か二重反転プロペラに付け替え、塗装も全面青にした姿で飛行している。他の画像spitfire PR 19.jpg|100px | |
PR Mk.XIX | PS915 6S/585121 |
イギリス | バトル・オブ・ブリテン記念飛行小隊 ヴィジターセンター |
公開 | 飛行可能 | 他の画像 | |
F Mk.21 | LA198 SMAF.4338 |
イギリス | ケルヴィングローヴ美術館・博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.21 | LA266 SMAF.4371 |
写真 | イギリス | イギリス空軍博物館 | 非公開 | 保管中 | |
F Mk.21 | LA255 SMAF.4388 |
イギリス | コテスモア空軍基地 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.22 | PK355 CBAF.44 |
ジンバブエ | ジンバブエ空軍博物館(Zimbabwe Air Force Museum) | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.22 | PK481 CBAF.70 |
イギリス | 空軍協会航空遺産博物館 (RAAF Association Aviation Heritage Museum) |
公開 | 静態展示 | ||
F Mk.22 | PK519 CBAF.108 |
写真 | イギリス | ピーター・リチャード・アーノルド (Peter Richard Arnold) |
公開 | 修復中 | |
F Mk.22 | PK624 CBAF.189 |
写真 | イギリス | ザ・ファイター・コレクション | 公開 | 修復中 | ダックスフォード帝国戦争博物館の所有する飛行可能機を管理・飛行を行っているザ・ファイター・コレクションが飛行可能な状態へと復元している機体。就役中は第614飛行隊所属で、その後各地の基地前に展示されていたが、1994年に帝国戦争博物館へと移され、修復を待っていた。 |
F Mk.22 | PK664 CBAF.217 |
写真 | イギリス | 航空機修理社 | 公開 | 修理中 | 屋外展示の後RAFが処分しようとした際、科学博物館から申し出があり科学博物館で展示することになった為、その前に修理が行われることになった。 |
F Mk.24 | PK683 CBAF.236 |
写真 | イギリス | ソレント・スカイ航空機博物館 | 公開 | 静態展示 | |
F Mk.24 | PK724 CBAF.255 |
イギリス | イギリス空軍博物館ロンドン館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.24 | VN485 SMAF.21567 |
イギリス | ダックスフォード帝国戦争博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
Seafire | |||||||
LF Mk.IIIc | PP972 |
イギリス | エア・リーシング株式会社 (Air Leasing Ltd) |
非公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.XV | PR451 CO.9673 |
写真 | カナダ | アルバータ海軍博物館 (Naval Museum Of Alberta) |
公開 | 静態展示 | |
F Mk.XV | PR503 COA.30621 |
アメリカ | ウェス・ストリッカー(Wes Stricker) | 非公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.XV | UB409 CO.9621 |
写真 | ミャンマー | 防衛軍博物館 (Defence Forces Museum) |
公開 | 静態展示 | |
F Mk.XVII | SX137 WASE.15325 |
イギリス | イギリス海軍航空隊博物館 | 公開 | 静態展示 | ||
F Mk.XVII | SX336 FLWA.25488 |
イギリス | ティム・J・マンナ (Tim J. Manna) |
非公開 | 飛行可能 | ||
F Mk.47 | VP441 6S/732289 |
写真 | アメリカ | ジェイムズ・E・スミス (James E. Smith) |
非公開 | 飛行可能 | |
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