アフガニスタン紛争 (アフガニスタンふんそう、ロシア語 : Афганская война 、パシュトー語 : د افغانستان جگړه )とは、冷戦 時代の1978年 に成立したアフガニスタン民主共和国 (アフガニスタン)と同国と軍事同盟 を締結して介入・侵攻したソビエト連邦 (ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーン と呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争 である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国 (アメリカ)やイギリス 等の西側諸国 やパキスタン 、サウジアラビア 、イラン 等のイスラム世界 の国々、エジプト 等の親米アラブ諸国 、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国 (中国)などの一部の東側諸国 もムジャーヒディーンや反ソの毛沢東主義勢力を支援し、武器などを送る軍事援助やスパイ を送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍 は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府 が創られた。
概要 アフガニスタン紛争, 交戦勢力 ...
アフガニスタン紛争
左上から時計回りにソ連軍の狙撃兵 、ソ連軍の装甲車 部隊、作戦中のムジャーヒディーン、ムジャーヒディーンとアメリカの首脳会談 。
戦争 :アフガニスタン紛争/冷戦 [1]
年月日 :1978年 4月 - 1992年 4月[1]
場所 :アフガニスタン [1]
結果 :ムジャーヒディーン側の勝利。ソ連軍は撤退 し、アフガニスタンの政権は崩壊[1] 。
交戦勢力
ソビエト連邦 アフガニスタン民主共和国 支援国 ブルガリア人民共和国 キューバ共和国 チェコスロバキア社会主義共和国 東ドイツ ハンガリー人民共和国 ポーランド人民共和国 ベトナム社会主義共和国 アンゴラ人民共和国 インド
ムジャーヒディーン ヒズベ・イスラミ・ヘクマティアル派 ジャマーアテ・イスラーミー ヘズブ・エ・イスラミ・ハーリス アフガニスタン・イスラム戦線 ハッカーニ・ネットワーク サズマン・イ・ナスル ヒズボラ・アフガニスタン マクタブ・アル=ヒダマト ヘズブ・エ・イスラミ・ハーリス イッテハド・エ・イスラミ アフガニスタン解放機構 (ALO)アフガニスタン人民解放機構 (SAMA)アフガニスタン・ムジャーヒディーン自由戦線 (AMFF) 支援国 アメリカ合衆国 イギリス サウジアラビア パキスタン イラン エジプト 中華人民共和国
指導者・指揮官
レオニード・ブレジネフ ユーリ・アンドロポフ コンスタンティン・チェルネンコ ミハイル・ゴルバチョフ ドミトリー・ウスチノフ アンドレイ・グロムイコ セルゲイ・ソコロフ ドミトリー・ヤゾフ ヴァレンティン・ヴァレンニコフ (英語版 ) イーゴリ・ロジオノフ ボリス・グロモフ ユーリー・ドロズドフ ヌール・ムハンマド・タラキー ハフィーズッラー・アミーン バブラク・カールマル ハジ・モハンマド・チャムカニ ラシッド・ドスタム アブドゥル・カディル モハマッド・アスラム・ワタンジャル ムハンマド・ナジーブッラー シャフナワーズ・タナイ
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー アフマド・シャー・マスード ムラー・ナキーブ (英語版 ) イスマーイール・ハーン グルブッディーン・ヘクマティヤール ファザル・ハック・ムジャーヒド (英語版 ) アブドゥッラー・アッザーム ワエル・ハムザ・ジュライダン (英語版 ) ウサーマ・ビン・ラーディン アイマン・ザワーヒリー ムハンマド・ユーヌス・ハーリス ジャラールッディーン・ハッカーニ (英語版 ) ムハンマド・オマル アブドル・ハク ハジ・アブドゥル・カディール アブドゥル・ラスル・サイヤフ ムハンマド・ナビー・ムハンマディ (英語版 ) シブガトゥッラー・ムジャッディディー サイード・アフマド・ギラニ アブドゥッラヒム・ワルダク アブドゥルアリー・マザーリー ムハンマド・ジア=ウル=ハク ジミー・カーター ロナルド・レーガン
戦力
1988年当時ソ連軍 100,300人アフガニスタン軍 40,000人 同国秘密警察 20,000人 同国民兵 100,000人[2]
1988年当時 国内ムジャーヒディーン130,000人 国外予備勢力110,000人[2]
損害
15,000人以上戦死 [3]
2,000,000人以上戦死難民 6,000,000人以上[4]
冷戦
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しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。
日本のマスメディア では、ソ連軍 の侵攻以降の局面は「アフガニスタン侵攻 」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「ソ連・アフガン戦争 」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、アフガニスタン の反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年 の出兵から1989年 の完全撤収まで約10年に及んだ。
長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死 、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連のベトナム戦争 」と言われた[5] [6] 。とは言っても、かつてアメリカ軍 と戦ったベトナム民主共和国 (北ベトナム)や南ベトナム解放民族戦線 が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。 [ 要出典 ]
1978年 にアフガニスタン では、共産主義 政党であるアフガニスタン人民民主党 による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は1979年 12月24日 に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB) は政体混乱の収拾能力が無いとみたハフィーズッラー・アミーン 革命評議会議長 (書記長 )を特殊部隊で襲撃(嵐333号作戦 )して死に至らしめ[7] 、バブラク・カールマル を新たな指導者とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。
チャールズ・ウィルソン とムジャーヒディーン 。
共産主義政権とソ連軍に対してムジャーヒディーン と呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA) やチャールズ・ウィルソン らによる極秘の武器供給など[8] 、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン 経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、パキスタンとその友好国の中華人民共和国 は訓練キャンプも提供していた[9] 。サウジアラビア などの親米 アラブ 諸国と反共反ソ同盟サファリ・クラブ (英語版 ) を結成していたエジプト のアンワル・アッ=サーダート 政権もムジャーヒディーンの支援を表明して協力した[10] [11] 。ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国 から来た20万人の義勇兵が含まれていた。その中にはサウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となり、後にアメリカ同時多発テロ を行うことになる、ウサーマ・ビン・ラーディン も参加していた。
多くの国々は、この戦争は主権国家 への正当な理由のない侵略行為だと見なした。たとえば1982年 11月29日 の国連総会 でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。一方でソ連を支持した国々もあり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義 のテロリズム を封じ込める為の攻撃としている。アンゴラ 、東ドイツ 、ベトナム 、インド はソ連のアフガニスタンでの立場を支持した[12] 。ただし、この紛争をきっかけにして、後にイスラム原理主義テロリストの活動が活発になった事実もある。
最終的にソ連軍は1988年 5月15日 から1989年 2月2日 の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日 にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。
しかしソ連撤退後も今日の日に至るまでアフガニスタンに平和の日々が訪れることはなく、ムジャーヒディーンの内部抗争、タリバン の台頭、タリバンと米国 を含む有志連合 諸国およびアフガニスタン・イスラム共和国 政府の間の戦闘といった複数の要因により戦火が長引いているのが現状で、2021年にはタリバンが再度の政権掌握を果たすなど未だ不安定な情勢下にある。
1919年 の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年 以降はザーヒル・シャー が国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガ によって推戴されていた。ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウード を首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年 、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリア に赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。
1978年 4月27日にダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺された。共産主義 政党アフガニスタン人民民主党 が政権を掌握し、4月30日に革命評議会布告第1号によって国名をアフガニスタン民主共和国(DRA)とした。5月1日に発足した政権の首班はヌール・ムハンマド・タラキー 革命評議会議長兼首相で、バブラク・カールマル が副議長兼副首相、ハフィーズッラー・アミーン が副首相兼外相となった[13] 。
革命政府は1978年12月2日の革命評議会布告第8号により、封建的土地所有を解体する土地改革を実施する方針を打ち出した。耕地としての価値で区分した7等級のそれぞれに所有の上限を設け、限度を越えた分を無償で没収し、農民に無償で分配するものである。土地改革は1979年 1月から実施され、4月までに26万866.4ヘクタール(2686km2 )が13万2264家族に分配されたという[14] 。部族指導者の物的利益を直撃する土地改革は、彼らの強い反発を招いたが、政府は軍隊を派遣し農民に武器を配って改革を実施した[15] 。また、政府が男女平等政策を進めたことも、宗教意識を逆なでするものであった[16] 。
外交的には非同盟・中立を標榜したが[17] 、ソ連寄りの姿勢は早くからはっきりしており、5月15日にソビエト連邦と共同声明を発してあらゆる分野での協力を約し、12月5日には善隣友好条約を結んだ[18] 。この条約は軍事協力に関する条項を含んでおり、ソ連は1979年1月に軍事顧問団を派遣した[19] 。
人民民主党には政権掌握前から派閥の対立があり、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次いでいた[20] 。1979年3月、革命評議会議長はそのままで、首相職がタラキーからアミーンに交代した。
この3月に、東北部のヌーリスターン で反乱が起こった。さらに西部ヘラート でソ連人技術者が殺され、ファラー で空軍基地が襲われるなど、反乱は全国に拡大した。夏には全州の半分以上に何らかの反乱がおき、首都でも衝突が発生した[21] 。ソ連の軍事顧問が反政府ゲリラとの戦いに参入したが、ゲリラの勢力はむしろ拡大し、ベトナム戦争 を思わせる泥沼状態に陥った[22] 。
内戦が深刻化する中、タラキーは1979年 9月16日に失脚して、アミーンが革命評議会議長になった[20] 。この政変でソ連はアミーンの追い落としをはかってタラキーを後押ししたと言われる。10月6日にアフガニスタンのシャー・ワリ外務大臣は社会主義諸国の大使の前でソ連の陰謀を非難した[23] 。
ヘラートのアフガン政府第17軍が崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連の政治局 ではアフガン情勢について討議が行われた。しかし書記長レオニード・ブレジネフ 不在の中で政治局員達の意見は分かれた。国防相ドミトリー・ウスチノフ やKGB 議長ユーリ・アンドロポフ は「侵略者のレッテルを確実に貼られることを意識」するとしながらも軍事介入を主張した。しかし首相アレクセイ・コスイギン は政府軍への支援が先決であると消極的であり、アンドレイ・キリレンコ は明確に反対していた[24] 。一方で外相のアンドレイ・グロムイコ は「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極的であった[25] 。
翌3月18日にはタラキーから、援助がなければ政権が崩壊するため、アフガン政府軍の制服を着たソ連軍を派遣するよう要請が入った。しかしコスイギンは発覚の確率が高く、ソ連が非難を受けるとして拒否した[26] 。この日の会議ではデタント の流れや非同盟諸国 への影響を懸念したアンドロポフとウスチノフも介入回避に傾き、19日にはブレジネフもこの方針を承認した[26] 。
しかし、9月にタラキーがアミーンのクーデターによって排除されると、ソ連指導部はアミーンに対して不信を抱き始めた。10月19日にはアミーンがアメリカと接触するなど、「バランス外交 」を志向している上に政府が腐敗していると報告があり、12月にはGRU(参謀本部情報総局) の派遣が決定された。
12月12日には、アフガン問題をグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフの三人に一任する決定が行われ、介入決定も行われたと見られている[27] 。12月26日にはブレジネフの別荘で最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権の腐敗と統治能力の欠如」「1978年12月のソ連・アフガン条約に基づくカールマルの軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入を開始した[28] 。
介入決定の大きな要因として、アミーンの政治姿勢が1978年以来のソ連の勢力を失わせる危険があったことが挙げられる。1979年12月31日にアンドロポフらが政治局に提出した報告書では、「四月革命の成果と我が国の安全保障上の利益が危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている[28] 。アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。
また、アメリカ合衆国 の軍事支援の影響もあった。当時のアメリカ合衆国連邦政府 は、パキスタンを経由して、非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは、当時進行していた米ソデタント の動きからも不利益と判断された。ソ連政府は、武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。
もう一つの要因として、イスラム原理主義 の動きから発生した、イラン でのイラン革命 が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー 皇帝政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニー を中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。
なぜなら、アフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起これば、ソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフ が、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン 」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争 において、最も強力にイラク を援助したのもソ連であった。
また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ、大量のアメリカ軍 をペルシャ湾 へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国との接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。
まず、ソビエト連邦は、アミーン書記長によるソ連軍 派遣要請を受けて派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン書記長の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦(嵐333号作戦 )を立案し、KGB アルファ部隊 やGRU スペツナズ などの特殊部隊を投入して実行した。公式には、アミーンは革命裁判で「国家に対する罪」を宣告され処刑されたと、アフガニスタンラジオが発表した[29] 。
その後は親ソ的なバブラク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。 [ 要出典 ]
戦術
アフガニスタンに展開するソ連軍の部隊 (1984年)
ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘 を行った。
ソ連第40軍(10万人以上の地上部隊で構成)の展開。航空支援、兵站 部門、内務省(MVD) の部隊 及び国家保安委員会 (KGB) 傘下の国境警備隊 、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ17万5千人になったと複数の観測者によって計算されている。この数字は当時のソビエト連邦が保有するカテゴリー1(第一線級)の師団のほぼ20%に相当した。
前線の裏側ではソビエト連邦によって化学兵器 が広域にわたって使用されていた。このことは(ソ連の軍事雑誌が伝えるところによると)ソ連軍のための訓練だとみなされていた (化学兵器の使用については異説あり)。
2000万個以上の対人地雷 がソ連軍によってばらまかれた。これらの対人地雷は地雷が不発弾となったとき、発見しやすくする為に色を塗り、投下時の空気抵抗を減らすために異様な形をしたもの(PFM-1 を参照)が生産された、それをおもちゃ と間違えて拾った子供 が死傷する事件が度々起こったため「人形 爆弾」と呼ばれた
ソ連軍の戦闘教義 はもともと平原及び丘陵地帯における(NATO 軍や中国人民解放軍 などの)正規軍相手の電撃戦 及び総力戦 を前提としたものであり、ゲリラ 及びパルチザン の掃討作戦 や山岳戦 を想定していなかったため、戦闘では苦戦を強いられた。ベトナム戦争 におけるアメリカ軍と同様にヘリコプター で機動 する治安作戦、掃討作戦がアフガニスタン全土で多く実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。
9年間に渡る戦争において平均してアフガニスタンに駐留したソ連軍の兵力は10万人強である。1984年 頃、ソ連陸軍首脳は政府に対し地上兵力増強を要求した。軍の要求した兵員数は30.5万人で駐留軍を3倍に増やすというものであった。アフガニスタンのゲリラ勢力は最大でも10万人であり、30万人増強が行われれば反政府勢力は壊滅していた可能性もある。戦闘が最も激しかった1985年 のソ連軍の総兵力は実に511万5000人(他に国内保安部隊など113万5000人)という大きなものであったが、その世界最大の陸上兵力を持つソ連軍が、より多くの兵員をアフガニスタンに投入出来なかったのは経済面を含んだ輸送力の不足のためであった[30] 。
対ゲリラ専用に戦闘ヘリコプターMi-24 が多数投入され、航空戦力を持たないムジャーヒディーンにとって大きな脅威になった。しかし、アメリカと中国とイギリスがムジャーヒディーンにFIM-92 スティンガー などの携帯式防空ミサイルシステム を供与したため[31] 、Mi-24の脅威は限定的なものとなった[32] 。
ムジャーヒディーンはそれぞれ分派を作ったため、ベトナム戦争 における南ベトナム解放民族戦線 や北ベトナム人民軍 のように統合された指揮系統や思想は存在しなかった。
中東におけるソ連の影響力浸透を嫌ったアメリカ、パキスタン、中国、エジプト、イギリス、サウジアラビア、イランが主なムジャーヒディーン支援国であり[33] [34] 、これらはソ連のモスクワオリンピック をボイコットした国々でもある。また、武装勢力の中には中立的な勢力もあったが、戦局の進展によっては反ソ連派に結集することもあった。
代表的なムジャーヒディーン勢力
ハザーラ人系
イスラム革命統一評議会 (指導者: セイエド・アソ・ベヘシティ)
イスラム勝利組織 (指導者: ミール・フサイン・サーデキー)
パズラタン
イスラム聖戦防衛機構
一般に1979年12月24日を紛争の始まりとすることが多いが、どの出来事を始まりとするかについては解釈の違いがある。
年表
カーブル のソ連軍総司令部。旧アフガン大統領官邸。(1987年)
1978年
4月27日 - 人民民主党のクーデターにより、アフガニスタン共和国大統領ムハンマド・ダーウード (ザーヒル・シャー 元国王の従兄弟)が殺害される。釈放された人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキー は、4月30日 に革命評議会議長に選出され、書記長、首相として政権を握り、アフガニスタン民主共和国の樹立を宣言した。タラキーと並ぶ人民民主党の幹部ハフィーズッラー・アミーンとバブラク・カールマルはともに首相代理に任命された。
春 - 地方で部族やイスラム 擁護勢力による抵抗運動及び反乱が始まる。
晩春 - ソビエト政府がアミーンと接触し、タラキー排除に関する話し合いを始めた。
12月5日 - 民主共和国がソビエト連邦との友好条約に調印。
1979年
1979年の戦死: 86人
2月15日 - 米国 大使 アドルフ・ダッブスが暴徒により誘拐され、アミーン首相によって救出が試みられている間に殺害された。アメリカは彼の死を導くことになった銃撃戦を引き起こしたとしてソ連を非難した。
3月 - ソビエト連邦がアフガニスタンに対する強力な軍事的支援を開始。その一つとして500人の軍事顧問が援助のために到着した。彼らが家族を伴ってきたことは長期にわたり関与することを意味した。
3月10日 - ヘラート のアフガニスタン人部隊 が暴動を起こし、350人のソビエト市民が殺された。3月20日 までに暴動は鎮圧されたが、これにより多くの人命が失われた。
3月 - ソビエトの顧問団はアフガニスタン政府の技術者からバグラム空軍基地の運営を引継ぎ始めた。外交上の公文書や機関紙プラウダ の記事ではアフガニスタンを“社会主義国家群の一員”と呼び始めた。ソビエト連邦は今やアフガニスタンをブレジネフ政策 に属するものと見なしているということを示唆するものとして理解された。
8月 - ソビエト陸軍の司令官イヴァン・パブロスキー将軍が50人以上の将校を伴ってアフガニスタンに到着。
9月1日 - タラキー議長がキューバ のハバナ で開かれた非同盟諸国の会議に出席。
9月11日 - タラキーがカーブル に帰国。
9月12日 - アミーンの圧力により、タラキーが「健康上の理由」により政府と党の一切の職務を辞職。
9月14日 - 大統領宮殿においてアミーン暗殺未遂。タラキーによって命令されたものだとみられる。
9月16日 - アミーン首相が、政府と党におけるタラキーの職を継承。
9月18日 - タラキー寄りの政府の役人や軍の将校の一部の集団が抵抗したが、アミーンに忠実な他の者たちによって殺された。タラキーはこの戦闘の最中に殺されたと推測される。
10月 - パブロスキー将軍と参謀たちはアフガニスタンを離れた。ソビエト連邦は南の複数のソビエト社会主義共和国でカテゴリー2の師団の動員を開始した。
10月10日 - カーブル・タイムズが、タラキーの病死を報じた。他の新聞の報道は、銃撃戦の最中に死亡したのではないかと示唆したが、それを証明できる者はいなかった。
11月7日 - ロシア革命記念日を祝うカーブル・タイムズ誌は、「偉大な10月革命の継続」におけるアフガニスタンの役割についての記事を書いた。この報告を見た多くの人は、人民民主党がアフガニスタンに関するブレジネフ政策を受け入れたと見なした。
11月28日 - ソビエト連邦の内務大臣の代理として、ヴィクトール・パプチン中将が「相互協力と利害関係上の問題点」に関する会合に出席するためにカーブルに到着した。中将は侵攻の調整役を引き受けるソ連国家保安委員会 (KGB) のトップであったと推測される。
12月 - タシュケント を拠点とする重武装したソ連の空挺大隊のいくつかがバグラム空軍基地に配置された。
12月17日 - アフガニスタンの情報機関の長であるアサドゥッラー・アミーン暗殺未遂。重傷を負ったアサドゥッラーは、タシュケントで治療を受けるために国を離れた。
12月18日 - バグラムに配置された空挺部隊はサラン峠 を見張るために移動した。これはタシュケントを本拠地とする第357自動車化狙撃師団が国境を越えてやってくるのを支援するためのものであった。
12月21日 - 増強されたソビエト空挺連隊がバグラムに空輸された。
12月22日 - アフガニスタンに駐留するソビエト軍の顧問団はアフガニスタン人の部隊に戦車や他の重要な装備についてのメンテナンスのサイクルを経験させるように勧めた。カーブルの外側に通じる遠距離通信網は首都を孤立させるために切断された。アミーンは大統領府を侵攻があった場合により守りやすい場所にあるダールルアマーン宮殿に移した。
12月24日 - ソビエト連邦の3個師団規模の部隊がカーブルとその周辺地域の飛行場をすべて制圧した。スペツナズ がカーブルの通信網の支配権を掌握し、都市内のすべての通信を統制した。
12月26日 - さらなるソビエト連邦の連隊や師団規模の部隊がアフガニスタン国境に向かって南下を始めた。
12月27日 - ソ連軍の3個大隊がアミーンのいる宮殿を攻撃し、アミーンを殺害する(嵐333号作戦 )。また、アフガニスタン人の役人が多数逮捕され投獄される。
12月28日 - ソ連軍の3つの自動車化狙撃師団がソビエト連邦南部の4つの予備師団に支援されてアフガニスタン国境を越えた。
12月29日 - タラキーらのハルク派と別路線であったために東欧 で亡命生活を送っていた人民民主党パルチャム派のリーダーであるバブラク・カールマルが、アフガニスタン民主共和国の革命評議会議長、首相、人民民主党の書記長に就任。この日までに5万人以上のソビエト軍がアフガニスタン国内に到着。
1980年
1980年の戦死: 1,484人
1月 - ソ連第40軍、アフガンの重要都市を占領。
1月15日 - 第6回国連緊急総会において、ソ連軍の撤退を求めた決議が賛成多数(賛成104、反対18、棄権18)で採択される。
2月20日 - カーブルで大規模な反政府行動が発生。ソ連指導部は、当初の計画になかった反乱鎮圧へのソ連軍の投入に同意。
2月 - 1979年夏に反乱軍に寝返っていたアフガン山岳歩兵連隊を攻撃するために、クナル 作戦開始。軍事的には成功したが、同地に権力を確立することはできなかった。
4月 - ホースト攻囲戦 (ペルシア語版 、英語版 ) 開始(1980年 - 1991年 、ホースト州 )。
5月11日 - カラ村の戦い (ロシア語版 ) 。
春 - 第1次パンジシール作戦。(パンジシール攻勢 、1980年 - 1985年 、ヒンドゥークシュ山脈 のサラン峠 )
秋 - 第2次パンジシール作戦。
6月22日 - 第6回先進国首脳会議の開幕当日に、ソ連がアフガン駐留ソ連軍の一部(1個師団約1万人と戦車108台)撤退を発表[35] 。
7月19日 - モスクワオリンピック 開幕。ソ連軍の攻撃を非難した50カ国がボイコット。
8月3日 - シャエスタ村の戦い (ロシア語版 ) 。
11月 - カーブルの隣接州で、ウダール(Удар 、打撃の意)作戦開始。
1981年
1981年の戦死: 1,298人
1月 - アフガニスタンで全国民皆兵法成立。20歳以上の国民は兵役義務を負った。
4月 - 第3次パンジシール作戦。
6月18日 - トラボラ峡谷でムジャーヒディーンの大規模な基地が発見され、ソ連軍第66自動車化狙撃旅団とアフガン軍第11師団が攻撃開始。大量の武器弾薬が鹵獲されたが、ムジャーヒディーン部隊は逃走。
1982年
1982年の戦死: 1,948人
4月 - ニームルーズ で作戦。
5月18日 - 第5次パンジシール作戦開始。約1万2千人が投入され、今回の作戦で初めて大規模ヘリ強襲(3日間で3千人が降着)が行われた。マスード の捕捉に失敗。
8月 - 第6次パンジシール作戦。
10月 第37回国連総会 において、ソ連軍の撤退を求める決議が賛成多数(賛成114、反対21、棄権13、投票不参加9)で採択される。
12月 - パンジシール渓谷に支配を確立できなかったため、アフガン政府軍は渓谷から撤退。
1983年
1983年の戦死者: 1,446人
1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。
1984年
1984年の戦死者: 2,343人
1月 - スティンガーを装備するムジャーヒディーンにより孤立させられたウルグン に対して、ウルグン作戦 (フランス語版 、英語版 ) 開始。
4月21日 - 第7次パンジシール作戦開始。ソ連軍1万1千人、アフガン軍2,600人、航空機200機、ヘリ190機を投入。マスード の捕捉に失敗。
4月30日 - 第682機動小銃連隊第1大隊の喪失 (ロシア語版 ) 。
8月31日 - ムジャーヒディーン、カブール空港を襲撃。
1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。
1985年
1985年の戦死者: 1,868人
1985年中、第8次、第9次パンジシール 作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。
1986年
1986年の戦死者: 1,333人
1987年
1987年の戦死者: 1,215人
1988年
1988年の戦死者: 759人
1989年
1989年の戦死者: 53人
ソビエト連邦軍はゲリラに対し決定的な勝利を得られないまま1989年 に全面撤退したが、戦争の当事国双方に大きな影響が残された。
ソビエト連邦
ソビエト連邦軍では1万5,000人が死亡し、7万5,000人が負傷して、多大な犠牲を被ったことから、ソ連の「ベトナム戦争 」とも呼ばれた。
アフガニスタンに駐留するソビエト兵の間で麻薬 が蔓延した結果、帰国後も元兵士が日常生活への適応に苦しみ、社会問題に発展した。
2013年においても、紛争当時に軍隊 から離脱した旧ソ連軍兵士がアフガニスタンで発見されている[36] 。
アフガニスタン
戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ9万人が死亡、9万人が負傷した。ソ連と比較した場合、10倍以上の損害を負ったことになる。市民の死傷者を含めると、総人口の10%、男性人口の13.5%が死亡し、全体では150万人が死亡したと推定されている。これにより戦後は一時的に国民の半分が14歳以下(つまり大部分の大人が死亡した)になるほどであった[37] 。
少なくとも400万人以上の難民 が発生し、周辺諸国に逃れた[38] 。
アフガニスタンは国の価値の約1/3から1/2にあたるおよそ500億ドルの損害を被った。
1万5千ある村落のうち、5千の村落は完全に破壊されるか、または農地や井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されることで経済的に立ち行かなくなった。
全国民の半数の14歳以上の者が死んだために、識字率 は36.3%という低い数字にまでなり、このことは現在でもアフガニスタンの経済成長を阻害している。
農業生産量は50%にまで減少し、家畜 の50%が失われた。
舗装された道路 の70%は破壊された。
ソ連軍はアフガニスタンに大量の自動小銃 をはじめとした各種兵器を遺棄し、加えてソ連とアメリカの両国はそれぞれアフガニスタン政府軍とムジャーヒディーンに相当量の兵器を供与したため、以降のアフガニスタン紛争(内戦、1989年-2001年) に使われて大きな被害をもたらした。
ソビエト連邦軍は撤退したが、その後も政府軍やムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、アフガニスタンの紛争はなおも継続した。
以降の経緯はアフガニスタン紛争 (1989年-2001年) を参照。
映画
『007 リビング・デイライツ 』(1987年、イギリス・米国)
『アフガン/ネクサス奪還作戦 』(1988年、米国)
『レッド・アフガン 』(1988年、米国)
『ランボー3/怒りのアフガン 』(1988年、米国)
『アフガン・ボーダーを越えろ! 』(1990年、フランス)
『レッド・ストーム/アフガン侵攻 』(1991年、ソ連・イタリア)
『エスケープ・フロム・アフガン 』(2002年、米国)
『アフガン 』(2005年、ロシア)
『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー 』(2007年、米国)
『君のためなら千回でも 』(2007年、米国)
『アフガン・ハンター 極秘兵器・スティンガー発射 』(2010年、ロシア)
『リービング・アフガニスタン 』(2018年、ロシア)
マンガ
ゲーム
Richard Cohen (April 22, 1988). "The Soviets' Vietnam". Washington Post.
"Afghanistan was Soviets' Vietnam". Boca Raton News. April 24, 1988.
S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2 . Retrieved May 22, 2012.
小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法」120頁。
斎藤吉史「アフガニスタン危機の構図」(『世界』412号、1980年3月)57頁。
「〈アフガニスタン〉民主共和国政府の革命的任務の基本路線」『世界政治資料』第532号、日本共産党中央委員会、1978年9月10日、61 - 64頁、NDLJP :1409642/33 。
小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法]」117-118頁。
平井友義「ソ連戦略の誤算」(『世界』412号、1980年3月)49頁。
小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法」118-119頁。
Steele, Jonathan (2010). "Afghan Ghosts: American Myths". World affairs journal. Retrieved July 16, 2015.
Interview with Dr. Zbigniew Brzezinski - (June 13, 1997). Part 2. Episode 17. Good Guys, Bad Guys. June 13, 1997.
Crile, George (2003). Charlie Wilson's War: The Extraordinary Story of the Largest Covert Operation in History. Atlantic Monthly Press. ISBN 0-87113-854-9 .