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音楽評論家 (1913-2012) ウィキペディアから
吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年(大正2年)9月23日 - 2012年(平成24年)5月22日)は、日本の音楽評論家、随筆家。位階は従三位。
吉田 秀和 (よしだ ひでかず) | |
---|---|
誕生 |
1913年9月23日 東京市日本橋区 (現在の東京都中央区) |
死没 |
2012年5月22日(98歳没) 神奈川県鎌倉市 |
職業 |
音楽評論家 随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部仏文科卒業 |
活動期間 | 1946年 - 2012年 |
ジャンル |
音楽評論 文芸評論 美術評論 随筆 翻訳 |
主題 | 西洋音楽 |
代表作 | 『マネの肖像』(1993年) |
主な受賞歴 |
大佛次郎賞(1975年) 紫綬褒章(1982年) 勲三等瑞宝章(1988年) NHK放送文化賞(1988年) 朝日賞(1990年) 神奈川文化賞(1990年) 読売文学賞(1993年) 文化勲章(2006年) |
配偶者 | バルバラ・クラフト(後妻) |
ウィキポータル 文学 |
クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現し、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けた。大の相撲好きでもあった。
朝日新聞夕刊に『音楽展望』を寄稿した。毎月の寄稿は約2年の長期中断を経て[注 1]、2006年11月の復帰以降は年4回のペースで掲載した。連載執筆や、NHK-FM放送で1971年から約40年にわたって続いた『名曲のたのしみ』の番組構成・司会を継続して行なうなど、2012年に98歳で亡くなるまで精力的に活動を続けた。独、仏、英語に通じ、特にドイツ語とフランス語の訳書は数多い(#訳書節を参照)。
いわゆるヴィルトゥオーゾには批判的で、ジョルジュ・シフラの1964年の来日演奏や、マルカンドレ・アムランのショパンのエチュードによる練習曲を酷評した。
東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町)で生まれる。
父の秀は和歌山県出身で、外科の開業医だった。母の雪は東京・深川の小間物屋の娘で、青山女学院(現在の青山学院)第1期生だった。4 - 5歳で日本橋区蛎殻町に転居し、母の影響で西洋古典音楽に親しんで育つ。
1922年暮に大森へ移住し、関東大震災の被害を危うく免れる。父親が北海道小樽の病院の院長に就任したため、小学校6年の秋に、一家で小樽に転居した。旧制中学校の小樽市立中学校(現在の小樽市立長橋中学校)で2年生まで伊藤整に英文法と英作文を教わる。このころ、ヴィオラを弾く小林多喜二が吉田家を一、二度来訪し、秀和の母と合奏したことがある[1]。
1930年春、小樽市立中学校を4年で修了する。旧制成城高等学校文科甲類(英語クラス)(現在の成城大学)に入学し寮生活を送るも、同年秋に文科乙類(ドイツ語クラス)に転じ、ドイツ語の師である阿部六郎(阿部次郎の弟)の成城の自宅に同居する(翌1931年1月まで)。このころ中原中也にフランス語の個人教授を受け、それがきっかけで吉田と同居していた高森文夫が中也と親しくなる。
小林秀雄や大岡昇平とも交遊した。小林は後年に到って吉田をライバル視した。同じ鎌倉市に住まいがあったことから吉田が小林宅を訪れた際、出たばかりの自著『本居宣長』[2]を放り投げ「君、出たよ」と吐き捨てるように言ったこともある[3]。吉田自身も威勢の良すぎる断定調の小林の批評には批判的になっていった。
東京帝国大学(現在の東京大学文学部)フランス文学科を1936年に卒業すると、1937年から1938年ごろ、中島健蔵の紹介で帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)に勤務し、半年足らずフランス語を教えた[4]。同職をやめると自由が丘の姉の家に居候してピアノを弾いたり本を読んだり吉田一穂の家へ遊びに行ったりしていたが、戦局の悪化に伴い遊食生活が困難になり、吉田の紹介で内務省地方局庶務係に勤務し、英独仏語の翻訳に従事する[4]。このとき、大っぴらに職務外の本を広げて私的な仕事[注 2]をしたこともある[4]。戦時中は井口基成の勧めで内閣情報局所管の日本音楽文化協会に出向し、嘱託待遇でピアノの原料の鋼鉄や鉄筋を音楽産業のために確保することや、音楽家の軍事徴用を止めるよう説得することが職務内容であった[5]。当時、職場で上司に厭戦的な発言をして叱責され、人前で泣いたこともあるという[4]。
戦後は文部省の所属に移されたが、敗戦後の混乱期に「自分の本当にやりたいことをやって死にたい」という思いが募って勤めを辞し、女性雑誌の別冊付録『世界の名曲』に寄稿したことが契機となって音楽評論の道に入る。本格的な評論活動は、『音楽芸術』誌(音楽之友社)の連載『モーツァルト』が始まる1946年以降である。
後進の育成に目を向けると、1948年に斎藤秀雄、井口基成、伊藤武雄、柴田南雄、鈴木乃婦子らと「子供のための音楽教室」を開設[6]し、初代室長に就任した[注 3]。この私塾は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった[注 4]。柴田南雄らを誘い、1957年、自らは所長となって「二十世紀音楽研究所」を設ける。
西ベルリンの芸術家や文化人の招聘プロジェクトに選ばれ、1967年より同市に1年余り滞在する。招聘期間に市内に住むことだけを条件に、一定の報酬と住居をあてがわれた。この間に多くのコンサートやオペラ、演劇に通い、また東西ドイツのテレビ、ラジオによる音楽番組に接する。
ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツが、初来日した際(1983年)は、その演奏を「なるほど、この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は──最も控えめにいっても──ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」[7]と評して大きな話題となったが、再来日時(1986年)の演奏は「この人は今も比類のない鍵盤上の魔術師であると共に、この概念そのものがどんなに深く十九世紀的なものかということと、当時の名手大家の何たるかを伝える貴重な存在といわねばならない」と称賛した[8]。
1988年、当時の茨城県水戸市長・佐川一信に乞われて水戸芸術館館長に就任する[9]と、同館の開館(1990年12月)とともに専属楽団として水戸室内管弦楽団を創設する。音楽顧問に招かれた小澤征爾は楽団員を集めた[9]。専属劇団を決めた吉田は、のちに森英恵に同財団理事長を委嘱する。
同じ1990年に「吉田秀和賞」を設立し、音楽・演劇・美術などの各分野で優れた芸術評論を発表した人の顕彰が始まる。
2004年に約30年かけ『吉田秀和全集』は全24巻で完結した。
2012年5月22日、鎌倉市内の自宅で急性心不全のため死去した。98歳没[10][11]。「お別れ会」を7月5日に水戸芸術館で、7月9日にサントリーホールで行われた。NHK-FMは2012年7月14日放送の『名曲の楽しみ』[注 5]に生前の録音「ラフマニノフのその音楽と生涯」第27回を用いた。この同シリーズ最終回をもって、事実上、吉田自らの声による放送は最後となった。
妻:バルバラ・吉田=クラフト(Barbara Krafft)とは桐朋学園でドイツ語を教えていたことから出会い、1964年に京都で結婚した。妻は日本文化・文学の研究を続けてドイツ語で執筆しており[注 6]、2003年に死別した。吉田が主に編集し、日本文学評論[注 7]を没後出版した。
主な執筆者、編者の50音順。
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