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日本の野球選手 (1980-) ウィキペディアから
喜多 隆志(きた たかし、1980年2月6日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手(外野手)。2019年現在は興国高等学校で硬式野球部監督を務める。
智辯和歌山高校時代は中堅手として活躍、甲子園に3回出場している。1996年、2年生の時、同期の高塚信幸、中谷仁のバッテリーを擁し、春の選抜に出場[1]。決勝に進むが鹿児島実の下窪陽介に抑えられ準優勝にとどまる[1]。同年夏の選手権では1回戦で水戸短大付に敗退。この時の控え投手に宮崎充登がいた。翌1997年夏の選手権にも出場[1]。決勝では平安高の川口知哉を打ち崩し優勝[1]。
卒業後は慶應義塾大学総合政策学部(SFC)へ進学。1年春から東京六大学野球リーグに出場[1]し、2000年、2001年と2度の秋季リーグ戦の優勝に貢献した。2000年の明治神宮野球大会では中村泰広、山本省吾ら投手陣の好投もあり、決勝で東海大を延長10回の末に降し優勝。2001年秋季リーグではシーズン最高打率.535を記録[1]。その記録は2023年時点でも破られていない[2]。リーグ通算92試合出場、355打数114安打(打率.321)、6本塁打、59打点。ベストナイン(外野手)4回選出。大学同期に三塁手の三木仁がいた。2001年のドラフト1巡目指名で千葉ロッテマリーンズに入団[1]。
左足踝骨折のため開幕には間に合わなかったが、2002年5月1日、右翼手、一番打者として初先発出場[1]。一軍公式戦初安打をサヨナラ安打で飾る[1]。2日後の5月3日の試合でもサヨナラ安打を放ち、パ・リーグ史上8人目の2試合連続サヨナラ打を記録[1]。新人としてはリーグ史上初の快挙であった。同年は11試合に先発出場を果たし、フレッシュオールスターゲームや第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、「ロッテを変える男」として期待された。翌2003年も12試合に先発。しかし2004年以降は、外国人選手や有望新人選手の入団、ライバル選手の打撃開眼などに押され、一軍での出番が無くなってしまった。2006年10月2日に戦力外通告を受け、現役引退。
なお、マリーンズ時代に使用されていたOi-SKALL MATESの「NISHIOGI TOKYO」を原曲とする応援歌は、ファンはおろか他の選手の間でも評判がよかった。応援歌が流れると外野を守っていたタフィ・ローズ(当時、近鉄)は、投球の合間に応援席を見ながら、センターを守っていた大村直之に「すごいな」という意のジェスチャーをしていた。
2006年11月14日、本人のブログにて、野球をやめることを発表。スポーツ用品店に勤務する傍ら教員免許を取得し、アマチュア野球の指導者を目指した[3]。2009年3月より朝日大学助教となり、朝日大学硬式野球部でコーチを務めていたが[3]、2011年4月に母校・智弁和歌山高校に教師として赴任した[3]。2011年5月1日、日本学生野球協会により、学生野球資格回復による規則第3条による適性認定者となる。これは、大学専任教員経験者としては、初めてのことである[要出典]。
その後野球部副部長に就任。2015年夏には高嶋仁の退任が報道され、後任として名前が挙がったものの最終的に高嶋の続投が決定。2017年3月限りで智弁和歌山高校を退任し、同年4月から興国高等学校へ赴任し[3]、2018年8月7日に同校の野球部監督に就任した[3]。
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