大内晴持
周防の戦国大名 ウィキペディアから
周防の戦国大名 ウィキペディアから
大内 晴持(おおうち はるもち)は周防山口(山口県)の戦国大名。多々良姓大内氏当主・大内義隆の養嗣子。実父は土佐中村、土佐一条氏の一条房冬。記述によっては一条房家の四男で[1][2][3][4]、房冬の弟と記すものもある。母は房冬の側室であった大内義隆の姉[注釈 1]。没後、養父の幕府への働きかけで将軍家から一字が追贈され、
幼名は太郎。元服して一条
天文9年1月、父義隆が防府口経由で安芸に出陣するが晴持も同行する[3]。 天文10年(1541年)3月に安芸に到着し、5月5日には厳島で流鏑馬を観覧する[3]。
天文10年11月、出雲の尼子経久が没すると、天文11年(1542年)1月に晴持は義隆とともに出雲に出陣し、天文12年(1543年)3月に尼子晴久が籠城する月山富田城を包囲したが、三刀屋久扶、本城常光らの寝返りで大内軍は総崩れとなった(第一次月山富田城の戦い)。その結果、5月7日に晴持は義隆とともに出雲意宇郡出雲浦[注釈 2]へと落ち延びる。ここで晴持と義隆は別々のルートで周防に退却することになった。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死、その間に晴持は乗船した。しかし、水中から船に乗り込もうとした兵を船上の人が棹で払い落とそうとしたため、船はバランスを崩して転覆、晴持は溺死した[1][2][6][3][5][4]。享年20歳だった[注釈 3]。
晴持の死後、義隆は幕府に働きかけて将軍家の通字である「義」の字を賜り、義房として弔った。このため、後世の系図には義房とも記されている。また、その死を哀れんだ人が晴持を社に祀り、島根県松江市東出雲町揖屋に大内権現(大内神社)として残っている[7]。
※日付=旧暦
※参考:系図纂要
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.