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平安時代中期の皇族。醍醐天皇の六男。三品・中務卿 ウィキペディアから
式明親王(のりあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。醍醐天皇の第六皇子。官位は三品・中務卿。
醍醐朝の延喜11年(911年)同母弟・有明らとともに親王宣下を受ける。延喜21年(921年)兄の重明・常明や弟の有明とともに清涼殿において元服する。
のち、朱雀朝で上総太守を、村上朝で大宰帥・中務卿を歴任し、天徳3年(959年)には帯剣を許されている。
応和元年(961年)次男の親繁王が前武蔵権守・源満仲の邸宅に強盗に押し入る。満仲の訴えを受けた検非違使から事の次第を伝えられ親繁の引き渡しを求められるが、式明親王は「親繁は邸内にいるが重い痢病を患って起居に堪えない。回復すれば引き渡す」旨を上申する。しかし、宣旨により官人が派遣されて式明親王は家宅捜査を受けたが、親繁を始め一味は逃亡済であった。捜索の手は他の皇族にまで及び、成子内親王の邸宅にて一味の一人である紀近輔がようやく捕らえられたが、親繁王の行方は知れなかった。結局、式明親王は親繁王を引き渡さず、悪事をいい加減に取り扱ったとして罰せられた[1]。
注記のないものは『日本紀略』による。
注記のないものは『本朝皇胤紹運録』による。
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