この項目では、日産自動車の車種について説明しています。かつて存在したスカイライン販売会社については「日産・プリンス店 」をご覧ください。
スカイライン (SKYLINE )は、日産自動車 (合併以前はプリンス自動車工業 )が1957年 (昭和32年)から製造・販売している中型乗用車(Dセグメント )である。
この項目では、スカイラインの基幹モデルについて説明しています。
2007年に発売されたGT-R (R35型)については「日産・GT-R 」をご覧ください。
本記事ではスカイラインの基幹モデルについて記述する。以下の派生車種は個別記事を参照。
1957年(昭和32年)に富士精密工業(後のプリンス自動車工業 )が主力車種として生産を開始し、1966年(昭和41年)にプリンスが日産自動車と合併した後も車名が引き継がれ、2021年(令和3年)現在、日産のラインナップでは唯一プリンス時代から継続して生産されている車種である。日本を代表する名車のひとつであり、国内外を問わず根強い愛好家がいる。
ボディラインナップは2021年現在4ドアセダン のみである。過去には2ドアクーペ 、5ドアハッチバック、ステーションワゴン 、ライトバン などが存在した時期もあったが、日産自動車の類似車種統一化政策等により、これらの派生車種は他の同クラス車と統合され、スカイラインとしての製造は廃止となっている。
3代目(C10型)から8代目(R32型)までは、型式毎にCMキャッチコピーや形状などに基づく愛称(通称 )を持つ。
主管設計は2代目(S5型)から7代目(R31型)の途中まで一貫して桜井眞一郎 が担当しており、桜井はカタログや広告にも登場した。車名の由来は桜井が登山した際、山と空が織りなす稜線「スカイライン 」に感動したためだという。
長野県 岡谷市 の鳥居平やまびこ公園 内には、自動車博物館 としては異例の単一車種の博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム 」がある。
概要 プリンス・スカイライン(初代) L型/20系, 概要 ...
プリンス・スカイライン(初代)L型/20系
ALSID-1
BLSID-3
BLRA-3 (スカイライン・スポーツ・クーペ)
概要 販売期間
1957年 - 1963年 ボディ 乗車定員
5名 ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動 パワートレイン エンジン
水冷直列4気筒OHVエンジン 変速機
3MT サスペンション 前
ダブルウィッシュボーン 後
ド・ディオンアクスル 車両寸法 ホイールベース
2,535mm[1] [2] 全長
4,280 mm (ALSID-1)[1] 4,280 mm (BLRA-3)[2] 全幅
1,675 mm (ALSID-1)[1] 1,695 mm (BLRA-3)[2] 全高
1,535 mm (ALSID-1)[1] 1,385 mm (BLRA-3)[2] 車両重量
1,310 kg (ALSID-1)[1] 1,350 kg (BLRA-3)[2] その他 総販売台数
3万3,759台 昭和38年末までの累計生産台数
4万3970台[3] 系譜 先代
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1957年(昭和32年)4月
富士精密工業(当時)より発売されたALSI-1型がスカイラインの初代となる。当時の日本における小型乗用車規格に合わせ、当初は1,484ccでの発売となった。グレードはスタンダード(ALSIS-1型)とデラックス(ALSID-1型)の2種類[1] 。ボディスタイルはプリンスの自社オリジナルで、アメリカ資本の欧州車を思わせるボリューム感のあるデザインだったが、ヨーロッパのモーターショーでは同時期発表の中型セダンであるシムカ・アリアーヌ からのデザイン盗用を疑われたこともある。
構造面は、やや旧弊化した在来プリンス車から完全に一新され、低床バックボーン・トレー式シャーシを持つセミ・モノコック構造となった。前輪は前年のプリンスで既に採用されていたダブルウィッシュボーン独立懸架、後輪は日本最初の半独立式であるド・ディオンアクスル と2段階のスピード調整が可能なワイパー を採用し、先進性をアピールした。搭載するエンジンは直列4気筒OHV・1,484ccのGA30型で、プジョー 系の設計の発展形であるプリンス在来型エンジンの改良であるが、60PS の出力は、競合するトヨタや日産の同クラス車を上回るものであった。カタログスペックでは当時の日本製1,500cc車最速の最高速度125km/hを記した[1] 。
1958年
マイナーチェンジ。
1958年10月
第5回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー )に、排気量拡大型の試作車「スカイライン1900」(BLSI-1型)を出品。この試作車は当時の皇太子 明仁親王 の愛車となり、明仁親王が自ら運転したことでも知られる。
1959年 2月
前年の全日本自動車ショウに出品した1,900ccモデルを「グロリア 」(BLSIP-1型)として発売。直列4気筒OHV1862cc GB30型エンジンを搭載する。
1959年7月
第1回日本アルペンラリーに出場し、優勝および総合3位を飾る。優勝ドライバーは自動車ジャーナリストの古我信生。
1959年10月
エンジン出力を70PSへ向上し、スタンダード(ALSIS-2型)、デラックス(ALSID-2型)となる。
1960年 2月
マイナーチェンジ。スタンダード(ALSIS-2改1型)、デラックス(ALSID-2改型)ともにテールランプを丸型2灯に変更、併せてデラックスのみ日本初の4灯式ヘッドランプ採用車となる[1] 。
1960年9月
スタンダード(ALSIS-2改2型)がマイナーチェンジにより4灯式ヘッドランプに変更。デラックスのフロントグリルがグロリア同様の格子型に変更。
1960年11月
第42回トリノショーにイタリアのカロッツェリア 「ジョヴァンニ・ミケロッティ 」にデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」(BLRA型。後にR21A/B型と改称)を出展[4] 。
1961年 5月
「1900デラックス」(BLSID-3型)追加。直列4気筒OHV 1,862cc GB4型を搭載する。
1961年10月
「1900スタンダード」(BLSIS-3型)追加。
1962年 4月
「スカイライン・スポーツ」(BLRA-3型/R21B型)を追加。日本初のスペシャルティカー といわれる。つり目4灯ヘッドライトの特徴的なスタイル、クーペとコンバーチブル の2タイプの設定等、注目を集めたが、ボディのほとんどがイタリアの職人の指導によるハンドメイド(ジョバンニ・ミケロッティとアレマーノ社の手により製作)で高コスト・高価であり、また市場も十分に育っていなかったため、製造台数は60台ほどであった[2] 。特徴であるつり目ヘッドライトは、板金型がハンドメイドゆえに誤差があり、左右で角度が若干違っている。搭載するエンジンはGB4型。同年の第4回日本アルペンラリーに出場し、7位完走を果たす。コンバーチブルはテレビドラマ「ウルトラQ 」の劇中で使用されていた。スポーツの生産台数は約60台[5] [2] 。
当時の価格はコンバーチブルが195万円、クーペが185万円[2] 。なおベースとなったグロリアは115万円だった。総生産台数はクーペ33台または35台、コンバーチブル25台とされている[6] 。コンバーチブルは現在3千万円を超える価格が付いている。
1962年9月
マイナーチェンジ。「スカイラインスーパー」(S21D型)、「スカイライン」(S21S型)発表。4灯式ヘッドランプをもつフラットデッキスタイルとなる。搭載するエンジンは直列4気筒OHV 1,862cc G2型(91PS/4,800rpm、15.0kgm/3,600rpm)。
スカイウェイ
プリンスにおける乗用車派生型の商用モデルは、1957年(昭和32年)にプリンス・セダン の設計をベースに開発された「プリンス・コマーシャル・バン/コマーシャル・ピックアップ」が最初であり、プリンス・セダンがスカイラインにモデルチェンジした後も暫く継続生産されていたが、1959年にはスカイラインの派生モデルである「スカイウェイ 」にモデルチェンジした[7] 。ライトバンとピックアップ が設定されたが、ライトバンには前席のみ2ドア仕様の他、1960年に車体左側のみに後席ドアを追加した3ドア型が追加された。1961年にはスカイライン同様に1,900ccモデルも追加されている[8] 。。
概要 プリンス・スカイライン日産・プリンス・スカイライン(2代目) S5型, 概要 ...
プリンス・スカイライン 日産・プリンス・スカイライン(2代目)S5型
1500デラックス
2000GT-B
概要 販売期間
1963年 - 1968年 ボディ 乗車定員
5名 ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動 パワートレイン エンジン
G1型 1,484cc 直列4気筒 OHV G15型 1,483cc 直列4気筒 SOHC G7型 1,988cc 直列6気筒 SOHC 変速機
5MT/4MT/3MT サスペンション 前
ダブルウィッシュボーン 後
半楕円リーフリジッド 車両寸法 ホイールベース
2,390 - 2,590mm 全長
3,990 - 4,255mm 全幅
1,495mm 全高
1,410mm 車両重量
920 - 935 kg その他 総販売台数
11万4,238台 生産台数
約13万台(輸出車を含む)[9] テンプレートを表示
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1963年 9月
S50D-1型発売。高級車路線はグロリアに譲り、1,500ccクラスの量販車市場を拡充するために、G1型直列4気筒OHV1,484ccエンジンを搭載する、小型ファミリーセダンとして開発・投入された。
モノコック構造を採用したボディのバリエーションは4ドアセダンとステーションワゴン(W50A-1型)の2種類。バン(V51A-1型)は旧来のスカイウェイ の名を継承した。
当時の欧米自動車業界で本格化しつつあったメンテナンスフリー化を積極的に進め、4万kmまたは2年間保障の封印エンジン[注 1] や、1年間3万km無給油シャシーなどが話題を呼んだ。
1963年10月
第10回全日本自動車ショー に、S50型をベースとした2ドアクーペ「スカイライン1900スプリント」を参考出品。フランコ・スカリオーネのデザインを元にプリンス自動車のデザイナー・井上猛がまとめたもので、ファストバック 形状のボディなど、セダンとは大きく異なる意匠を持っていた。
1964年 4月
スタンダード(S50S-1型)追加。
1964年5月
スカイラインGT(S54A-1型)発売。スカG の愛称で親しまれた。第2回日本グランプリ GTクラス出場に向けて、グロリア スーパー6用のG7エンジン(直列6気筒1,988cc)を搭載したもので、ホモロゲーション用に100台を生産(試験車3台、レース出場車5台、一般販売92台)した。
4気筒のスカイラインに長大な6気筒をそのまま載せることは不可能であるため、フロント部を約200mm延長して搭載した。急ごしらえのためメーターがS50のままの横長だったり(スケールは200㎞/hに書き換えられていた)、そのためタコメーターが収まらず、ダッシュボードの上に独立して装備されていた。シフトレバーは長く、ダッシュボード奥下の床から出ていた。またバンパーのオーバーライダーもS50同様に付いていた。標準はシングルキャブレターだがレース用オプションに3ウェーバーキャブレターが選べた。フェンダーサイドの「GT」のエンブレムは青色。
1965年2月
スカイライン2000GT(S54B-2)追加。プリンスではスカイラインGTの量産計画はなかったが、要望を受けて量産化が決定したもので、それまで手作業による鈑金で延ばしていたエンジンルームをプレス製造とした。
最初から日本グランプリ出場車と同じ3連ウェーバーキャブ、フロントディスクブレーキを装着。タコメーターは丸くなったスピードメーターと並んでインパネに装着され、リモートコントールでシフトレバーも手前にされていた。フロントフェンダーの「GT」エンブレムは赤く塗られた。グリルは当初は亜鉛合金(太い桟の間に細い桟が11本)から「レースで勝つための軽量化」のため10本のアルミ製となる。燃料タンク容量は99ℓ。
開発に携わった伊藤は後年、同車について『無茶だもの、日産自動車 ならあんな車は作らない。試験もしないで売ったのだから』といい、渡邉も『当時ラリーでS54Bが参戦していると、フロントが肉眼で見えるほど捻れていた』と証言している[10] 。
1965年9月
スカイライン2000GT-A(S54A-2型)追加。ウェーバーキャブの不足や「もっとマイルドなGTが欲しい」という要望に応えて登場したモデルで、シングルキャブ (105PS)、燃料タンク容量50ℓ。GTエンブレムは青。
2000GT-Aの追加により、従来の2000GTは「2000GT-B」となった。
1966年 8月9日
プリンス自動車 が日産自動車と合併したため、車名をニッサン・プリンス・スカイライン に変更。この合併によって、クラス内における車種が増加したため、価格を改訂した[11] 。
1966年10月
マイナーチェンジ[12] 。ラインナップは2000GT-B(S54B-3型)、2000GT-A(S54A-3型)、1500デラックス(S50D-2型)、1500スタンダード(S50S-2型)の4種類。外観上の変更は全車グリルが横桟のデザイン化、Cピラーにエアアウトレット設置となる。2000GT-Bはリアブリスターフェンダー化。スタンダード、デラックスはテールライトの形状が丸型から大型コンビネーションタイプへ変更され、リアフィニッシャーが新設。スカイウェイ (V51A-1型)はスカイラインバンに名称変更。
1967年 8月
G1型に代わり、G15型直列4気筒OHC1,483ccエンジン(88PS)を搭載する1500デラックス(S57D-1型)が登場。安全性を向上させ、グリルの変更、サイドエンブレムの着色、車体色の変更などもおこなわれた[13] 。6万km無給油シャシーとなった(ただし、スタンダードS50S型やバンV51A/B型、エステートW50A型は引き続きG1型エンジンを使用)。
概要 日産・スカイライン(3代目) C10型, 概要 ...
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通称:ハコスカ(箱スカ)
1968年 8月
フルモデルチェンジ。
日産自動車との合併後、初めて新規発売されたモデルである。4ドアセダン(C10型)、エステート(WC10型)、バン(VC10型)が発表された。
エンジンはプリンス製の直列4気筒 OHC 1,483 cc G15型を搭載する。
足回りはフロントがマクファーソンストラット とコイルスプリングの組み合わせに変更された。リアはリーフリジッド である。
グレード展開は、スタンダードとデラックスのみであったが、デラックスにはシート形状とトランスミッション により、ファミリーデラックス(3速コラムシフト 、フロントベンチシート )、ツーリングデラックス(3速コラムシフト、フロントセパレートシート)、スポーティデラックス(4速フロアシフト、フロントセパレートシート)の3種のほか、女性仕様 の「Lパック」がメーカーオプションとして用意され、バリエーションを確保した。通称「44(ヨンヨン)[14] [15] 」。
1968年10月
直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)を追加。S5型同様、ホイールベース とフロントノーズを延長しているが、肉眼で見えるほどフロントが捻れていたというS54型と異なり、開発当初から直6エンジンの搭載を考慮した設計構造となった。
S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒 OHC 1,998 ccのL20型 (シングルキャブレター)を搭載する。発売当初はかまぼこ型ヘッドカバー と呼ばれる(カムカバーはヘッド側から伸びたスタッドボルトにナットで締める)、後年主流となるL系エンジンとは形状が異なる物が搭載された。最高出力は105馬力。1969年10月以降L20型エンジンを搭載するセドリック/グロリアとスカイラインで新設計のエンジンに順次切り替わり、120馬力(ハイオクガソリン 仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)したが、旧エンジンの淘汰にともない、後年は新型もL20と呼称するようになった。サスペンションは、フロントは4気筒同様のマクファーソンストラットであるが、リアはセミトレーリングアーム式サスペンション とコイルスプリング へ変更され、4輪独立懸架 となる。
同月、第15回東京モーターショーに、「スカイラインGTレーシング仕様 」が出品される。翌年発売されるGT-Rのコンセプトカー である。これはリアのホイールアーチがサーフィンラインを無視して拡大され、フロント及びリアの「2000GT」のエンブレムの地が赤く塗られていた。搭載されたS20エンジンのヘッドカバーは市販車のそれとは異なるデザインであった。通称「45(ヨンゴー)[14] [15] 」。
1969年 2月
プリンス系列の技術陣によって開発された直列6気筒4バルブ DOHC 1,989 ccのS20型エンジン を搭載したGT-R(PGC10型)追加
GT-Rについては日産・スカイラインGT-R の項参照。
1969年 8月
1800シリーズとしてローレル に先行搭載されていたプリンス系の直列4気筒 OHC 1,815 cc G18型を搭載した1800スポーティデラックスとスポーティS(PC10型)を追加。
1969年10月
GTをマイナーチェンジ。従来の3分割式のフロントグリルをワンピースグリルに変更、テールランプの意匠変更、細部ではラジオアンテナが左フェンダーから右のピラーに位置変更されるなど、主に外観の変更が施された。
1970年 10月
マイナーチェンジ、および、ホイールベースを短縮した2ドアハードトップ モデルの追加発売。
新意匠のダッシュパネルなど室内の大幅変更が施されたほか、フロントグリル、テールランプや前後のバンパーなど外観の変更。実質的な後期型。
各排気量車に2ドアハードトップ モデルを追加、1500(KC10型)1800(KPC10型)の4気筒シリーズと2000GTシリーズ(KGC10型)。GT-Rはセダンが廃止されハードトップ(KPGC10型)に移行した。ハードトップはセダンに対し70 mmホイールベースを短縮したことにより、運動性能が向上した。ハードトップ1800はスポーティGLの単一グレードだった。GT-Rの当時価格は150万円。
1971年 9月
マイナーチェンジ。
フロントグリル、リアガーニッシュがハニカム調のデザインに変更されたほか、シート縫製基調など細部の変更が施された。
2ドアHTにGT-Xを追加発売。エンジンはセドリック/グロリア2000GXやフェアレディZなどに採用されていたSU ツインキャブレター仕様のL20が搭載された。最高出力は125馬力(ハイオクガソリン仕様は130馬力)、その他のGTとの相違点は部分ファブリックのシートやパワーウィンドウ 、間欠ワイパーなど。エンブレムはGTが青色、GT-Rは赤色なのに対し「金色」。
1972年 3月
セダンGT-Xを追加発売。セダンGT-Xにはパワーウィンドウが装備されない。キャッチコピーは「精悍4ドア」。
モデル末期頃に日産車統一仕様の一環として5MT車の左テールランプ下部に「5speed」のエンブレムが追加されたが、次代C110型へのフルモデルチェンジ間際であったため、取り付けられた車輌は極めて少ない。
3代目の生産台数は30万8502台[16]
尚、海外にはL24(2,393 cc)を搭載して「ニッサン2400GT」として輸出された。他にL20を搭載したニッサン2000GTもある。
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4気筒モデル
K P C10
ボディ形状 搭載エンジン 基本型式
無記号 4ドアセダン K 2ドアHT V バン W エステート
C10
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6気筒モデル
K H G L C10
ボディ形状 搭載エンジン ホイールベース ハンドル位置 基本型式
G ロング C10
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概要 日産・スカイライン(4代目) C110型, 概要 ...
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通称:ケンメリ、ヨンメリ (セダンモデルのみの愛称)
1972年9月
C110型にモデルチェンジ。ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ 、およびワゴン/バンを有し、先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系の設定がある。プラットフォームは日産・ローレル (C130型)と基本的に共通。
サーフィンラインのプレスライン は、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴とし、ワゴン/バンはクオーターウインドウを廃し、スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーにデカール 式のピンストライプが設定されている。これは当時の日産自動車の社長命令によるものといわれる。
搭載するエンジンはG15型をボアアップした直列4気筒OHC1,600ccのG16型、タクシー や教習車 用のG16LPG 仕様(販売は1975年頃まで)、先代より継続されたOHC1,800ccのG18型、およびL20型の4機種。足回りはフロントがマクファーソンストラット 、リアは4気筒モデルがリーフリジッド 、6気筒モデルがセミトレーリングアームとコイルスプリングの組合せである。
GT-Xはセダンにもパワーウインドウが装備される。
4ドアセダンのGT系、および2ドアハードトップの全グレードのテールライト が丸型4灯式となった。これは、以後スカイラインのアイデンティティの一つとして、10代目のR34まで受け継がれていくことになる。
この代から警察庁 へパトロールカー (無線警ら自動車)として導入された。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は嘔吐物や血液 汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されている。
C110型から右ハンドル圏の日本国外へも輸出されるようになった。車名は4気筒車は「ダットサン ・160K 180K」6気筒車は「ダットサン ・240K」。4気筒車は国内と同じエンジンだが、6気筒車はその名の通りエンジンが2,400ccに拡大されている。
通称は、広告キャンペーン「ケンとメリーのスカイライン 」から。これは、先代のC10型の時代に展開された「愛のスカイライン 」キャンペーンを継承、発展させたもので、「愛のスカイライン」のキャッチコピーも引き続き使用された。内容としては、若い男女のカップルがスカイラインに乗り、日本各地を旅するというシリーズもののCMで、この二人の名がケンとメリーである。性能の高さや、レースでの栄光といった旧来のスカイラインの硬派なイメージとは異なるソフトなイメージのCMシリーズであったが、当時の世相ともマッチし、一般的には、このCM自体が人気を博し、やがては社会現象と呼べるまでになった。また、車そのものの販売成績はもとより、それにちなんで多数作られたグッズもヒットし、例えばTシャツの販売枚数は30万枚を超えたという。
4ドアセダンはヨンメリ と呼ばれることもあるが、これは、「4(ヨン )枚(ドア)のケンメリ 」の略である。
1972年10月
第19回東京モーターショーに「ハードトップ2000GT-Rレーシング仕様」を出品。
1973年 1月
「ハードトップ2000GT-R」(KPGC110型)を追加。先代同様S20型エンジン(1,989cc 160PS/7,000rpm、18.0kgm/5,600rpm)を搭載し、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラー 等を装備する他、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている。排出ガス規制 の影響もあり、わずか197台が生産され、うち195台(000051 - 000245)が市販されたのみで終了している。残りの2台は赤いボディの試作車とレース仕様のコンセプトモデルである。レースに出場することはなかったが、旧車 趣味界においても希少なGT-Rとして知られている。この後、R32型までGT-Rは設定されていない。製造台数が197台となった理由には、S20エンジンの在庫が197基だったとも、三国工業 から購入したS20エンジン用ソレックス キャブレター が、197台分だけ残っていたからとも言われている。ただし、生産台数には諸説あり、試作車も含めて少なくとも200台以上が生産されたと思われる節が見受けられる。
1975年 5月
マイナーチェンジ。4気筒モデルのエンジンはプリンスが開発したG16型、G18型から、日産が開発したL16型、L18型に変更された。
1975年9月
昭和50年排出ガス規制(A-)対応の、電子制御燃料噴射 (ニッサンEGI)を採用するL20E型を搭載する「セダン/ハードトップ2000GTX-E」を追加。この車種は10月のマイナーチェンジに先行して外装のデザインを変更したものであった
GT-R譲りの4輪ディスクブレーキやアルミ地のインパネを装備した「セダン/ハードトップ2000GTX-E(Sタイプ)」を追加。GTエンブレムの色はグリーン。
オプションでパワーステアリング を設定。
1975年10月
セダン/ハードトップの1600・1800・2000(L20S型搭載車)系およびバンをNAPS により昭和50年排出ガス規制(A-またはH-)に適合。同時にマイナーチェンジ、フロント/リアのデザインが変更される。最下位グレードがセダン1600DXとなりLPG営業車とワゴンが廃止される。
1976年 2月-3月
GT系のL20E搭載車が、昭和51年排出ガス規制(C-)に適合。翌月には1600も昭和51年排出ガス規制(B-)に適合
1976年6月
GT系のL20S搭載車、1800系が昭和51年排出ガス規制に適合。
1980年代、手頃な価格とあいまって若者を中心に人気があったこのモデルは、姉妹車 のローレルとともに暴走族 の改造車(族車)の定番になり、テールライトの中心寄り2つをパテ埋めする「ワンテール仕様」や、ウインカーやグリルをローレルのものに交換する、テールライトをチェリー のものに交換するなどといった、当時の日産車同士のパーツの互換性を活かした多彩な改造が流行した。また、ハードトップのGT系を中心に、希少車だったGT-Rのエンブレム・フロントグリル・リアスポイラー・オーバーフェンダーなどを装着する改造も見られた。なお、1976年9月には、CM第15作「地図のない旅」編に北海道 美瑛町 大久保協生の一本立ちのポプラ の木が登場し、現在でも『ケンとメリーの木 』として、観光名所になっている[18] 。
概要 日産・スカイライン(5代目) C210型, 概要 ...
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通称:ジャパン
1977年 8月8日
C210型発売。通称は、自ら「日本の風土が生んだ名車」であると名乗った広告キャンペーンのキャッチコピー「SKYLINE JAPAN 」から。プラットフォームは日産・ローレル (C230型)と基本的に共通。ボディバリエーションはC110型と同様、4ドアセダン、2ドアハードトップおよびバンの3系列を設定し、セダンおよびハードトップには直列6気筒エンジン搭載車と直列4気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,615 mm, 2,515 mmとされた。バンは直列4気筒エンジンのみの設定であった。
搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1,595 cc)、L18S型(1,770 cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCがL20S型(1,998 cc 115 PS/5,600 rpm、16.5 kgm/3,600 rpm)、およびL20E型(130 PS/6,000 rpm、17.0 kgm/4,400 rpm)の2機種。
発売当初は自動車排出ガス規制 の影響を受け、DOHCもターボ も設定されなかった。
グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとでは従来同様、搭載する気筒数の関係でノーズの長さが違い、ラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。ヘッドランプは、初期型はGT系、TI系とも丸形4灯式で、後期型ではGT系のみ異型角形2灯式となった。テールランプは、GT系が丸形4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角形4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式、リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT-E・Sが赤バッジとされた。GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。
1978年 3月
2ドアハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70 %偏平率ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。
1978年8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジン に変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排出ガス規制に適合し、車両型式がC211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。
1979年 7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。GTシリーズは異型角形2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。GT-E・Xにはパワーステアリングを標準装備化した。翌8月、厳しくなる排出ガス規制の中でDOHCエンジン搭載車をラインナップし続けていたトヨタ・セリカ (A40/50型)がマイナーチェンジし、「名ばかりのGT達は、道を開ける。 」のキャッチコピーで挑発を受ける こととなる[20] 。
1979年8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応および一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。
1979年11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティ マグネシウムホイール (クロモドラ 製)、ハードトップはカンパニョーロ ホイールを装備した。
1980年 3月
2000GT-E・Sおよび2000GT-E・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュラン タイヤを装備した。
1980年4月
L20ET型ターボエンジンを搭載したモデルを追加。パワー&トルクは145 PS/5,600 rpm、21.0 kgm/3,200 rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。日産としてはセドリック /グロリア 、ブルーバード に次ぐ3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組み合わせた車種となった。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。キャッチコピーに「今、スカイラインを追うものは誰か 」を掲げ、当時ターボモデルが存在しなかったトヨタ・セリカを逆に挑発し返す形となった[20] [注 2] 。
1980年6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」(BC211S型)、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはこの当時の国産ディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。また、2000TIのスポーティグレード「ES」はリアサスペンションがセミトレーリングアーム式独立懸架となり、4輪ディスクブレーキを装備するなど4気筒エンジンながらGT系に匹敵する高度なメカニズムを持つ。動力性能は6気筒NAとほとんど変わらず、重量(特に前輪荷重)が軽いこのモデルはC210型中の「ベストハンドリングカー」との声もある。
1980年代 、先代モデルのケンメリと同じく暴走族 の改造車としても人気を得ていた。ケンメリ同様、ワンテール化やライト、グリルの移植が流行していた。
宮城県 登米市 にある警察資料館 には実際に宮城県警察 が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。
2000GT-EL(後期型フロント)
2000GT-EL(後期型リア)
テレビドラマ「
西部警察 」に登場した
マシンX 。2ドア2000GT-Eがベースになっている。
概要 日産・スカイライン(6代目) DR30/HR30/FJR30/ER30/VPJR30/VSJR30, 概要 ...
日産・スカイライン(6代目)DR30/HR30/FJR30/ER30/VPJR30/VSJR30
初期型(1981年-1983年) 2ドアハードトップ2000ターボGT-ES
後期型(1983年-1985年) 4ドアセダン2000ターボRS-X 概要 販売期間
1981年 - 1990年 ボディ 乗車定員
5名 ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動 パワートレイン エンジン
FJ20ET/E L20ET/E LD28 CA18E/S Z18S/E Z20S/E 変速機
3AT/4AT/5MT/4MT サスペンション 前
ストラット 後
セミトレーリングアーム/リーフスプリング 車両寸法 ホイールベース
2,615mm 全長
4,620mm 全幅
1,675mm 全高
1,385mm その他 総販売台数
40万6,432台[21] テンプレートを表示
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バンを除き1981年 - 1985年
通称:ニューマンスカイライン、鉄仮面 (後期型RSの通称)、New愛のスカイライン (初期)
1981年 8月18日
R30型発売。
アメリカ の俳優ポール・ニューマン が広告キャラクターであったため、「ニューマン・スカイライン 」と呼ばれた[22] 。グレード体系はC210型同様のL20型直列6気筒エンジン を搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、4ドアセダン ・2ドアハードトップ ・5ドアハッチバック [22] ・後に追加されるライトバン (エステート)の4種。
ハッチバック はスカイライン史上初である。現在は常識となっているテンパータイヤは、このR30型ハッチバックが日本初採用であり[22] 、スペアタイヤに空気圧減圧警告灯なども装備されていた。搭載エンジンは、Z18S型(エステート・TI)、Z18E型/Z20S型/Z20E型(TI)、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の7機種。
サイズを抑えることによりさわやかなイメージを出した[22] 。
1981年10月
直列4気筒4バルブDOHC FJ20E 型エンジン(150PS/6,000rpm、18.5kgm/4,800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加。GT-Rの再来と期待されたが、FJ20E型が直列4気筒であるがためにGT-Rを名乗らなかったともいわれている。「4バルブなくしてDOHCは語れない 」というキャッチコピーが用いられる。同時にZ18S型を搭載する「エステート」が追加。
1982年10月
一部変更。「TIシリーズ」の1,800cc Z18型エンジンを直列4気筒OHC CA18型/CA18E型エンジンへ変更(FJR30型)。「TI Lエクストラ」および「GT Xエクストラ」を追加し、「2000RS」に60%偏平率タイヤを装着。
1983年 2月
FJ20E型にターボチャージャーを追加した、FJ20ET 型(190PS/6,400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン 」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてハコスカ以来となるワークス としてレース に復帰。
1983年8月
マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面 」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。
ポール・ニューマンバージョンのサイン デカール
1983年10月
日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。
1983年11月
日産50周年記念限定車 「50アニバーサリー バージョン」を発売。これは2ドアハードトップ2000ターボRS-Xをベースに、メッキドアミラー 、専用エンブレム、「ハイタッチモケット」と呼ばれる専用の内装(後にオプション設定)を備え、白のほかにガンメタ/赤茶ツートンの専用ボディカラーも用意された。同時に特別仕様車「TI ハイ サルーン」も発売。
1984年 1月
「2000GT-E・Xパサージュ」(HR30GAE型)を追加。特別仕様車「TI ハイ サルーンII」発売。
1984年2月
一部改良。2000ターボRS/RS-Xをインタークーラー 付きに変更。このモデルは「ターボC」と呼ばれる。外観上の違いはフロント左下のエプロンにインタークーラーの冷却用開口部が設けられた。なお、ターボRS-Xでは、前述のハイタッチモケット仕様の内装が選択可能となった。インタークーラー付きFJ20ET型エンジンはグロス表示ながら最高出力205PS/6,400rpm、最高トルク25.0kgm/4,400rpmを発生させ、いまだに根強いファンを持つ。キャッチコピーは「クールに乗れ」。
1984年5月
GT生誕20年記念特別仕様車「2000ターボGT-Eサラブレッド」を発売。
1984年8月
エンジンの点火系を変更した「プラズマスパークシリーズ」を発売。高パフォーマンスのエンジンでのイージードライブを可能とした「2000ターボ RS-X」(DR30XAS型)、および「2000ターボGT-E・IIサラブレッドX」(HR30HFT型)を追加。
RS-XのATは4「パワー・エコノミー自動切換式電子制御OD付きフルロックアップ・オートマチック・トランスミッション」であった。またASCD(オートスピードコントロール)を装備し、60km/h - 100km/hの範囲でセットできた。[23]
前述のターボGT-Eサラブレッドとの違いは、GT-Eサラブレッドは5速マニュアルのみの設定のに対して、GT-E・IIサラブレッドXはパワーウインドー、RS-X用バケットシート、ブロンズガラスが追加されて、4速オートマチックが設定された。
1984年10月
新塗色「ダークブルー」(111)・「シルバー」(210)・「レッドメタリック」(329)・「ブルー/グレー ツートン」(434)追加。同時に特別仕様車セダン2000GT-E・Lスーパーサルーンを発売。
1985年8月
R31型への移行により、エステートを除いて販売終了。
1990年2月
エステートが販売終了。スカイラインのバンタイプはこのモデルを最後に廃止となった。後継はブルーバードバン との統合でアベニールカーゴ になる。
DR30型スカイラインで短期間で立て続けにパワーアップさせたことに対して、伊藤修令 と渡邉衡三 は後年『販売会社 やユーザーからの評判は最悪だった。主管時代、スカイラインではR30の反省もあって短期間でのエンジンのパワーアップはしなかった。』と明かしている。[10]
前期型2ドアRSターボ(フロント)
後期型2ドアRSターボ(リア)
後期型2ドアRSターボ(フロント)
後期型2ドアRSインタークーラーターボ(リア)
ハッチバック(フロント)
ハッチバック(リア)
エステート
テレビドラマ「
西部警察 」に登場したマシンRS-1。2000ターボRSをベースとしており、赤灯などを除いたエアロパーツ類は当時一部ディーラーオプションとして設定されていた。
マシンRS-2
マシンRS-3
概要 日産・スカイライン(7代目) HR31/FJR31/SR31/WHJR31/WFJR31, 概要 ...
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通称:7th (セブンス )、都市工学スカイライン
ボディバリエーションは、4ドアセダン・4ドアハードトップ・2ドアクーペ・ワゴンの4種。
1985年 8月31日
R31型発売。プラットフォームはC32型ローレル やF31型レパード と共通。発売当初は歴代スカイライン唯一の4ドアピラーレスハードトップと4ドアセダンのみの設定。グレードは大別してシンプル志向の「エクセル」、豪華装備の「パサージュ」が用意されていた。KPGC110型GT-R以来となる直列6気筒4バルブDOHCエンジンが復活し、上級グレードには4輪独立操舵システムであるHICAS が搭載される。
搭載されるエンジンは、直列6気筒がDOHCターボ RB20DET型、DOHC RB20DE型、SOHCターボ RB20ET型、SOHC RB20E型、SOHCディーゼル RD28型。直列4気筒がSOHC CA18S型の計6機種。サスペンションはフロントがストラット式、リアがセミトレーリングアーム式。ただし4ドアセダン・4ドアハードトップの各1800シリーズおよびワゴン全車はリアが5リンク式リジッド。
当初は、当時大流行していたハイソカー を意識した路線を打ち出していた。センターコンソールを使った「5連装カセットチェンジャー」といった豪華装備のほか、「カードエントリーシステム」が本車種で初めて採用された。これは、専用の「エントリーカード」を身につけ、ドアハンドルやトランクリッドのリクエストスイッチを押して施錠・解錠を行うシステムであり、後に普及する「インテリジェントキーシステム 」からエンジンの始動・停止に関する機能を省略したものと言える。本車種のエントリーカードは「SKYLINE」のロゴが入った専用品であったが、後に他車種へ展開されたときには「NISSAN」ロゴのみが入った汎用品となった。
また、この時期はフェンダーミラー 車からの乗り換えが多かったこともあり、視覚違和感を軽減するため運転席側にドアミラー、助手席側にフェンダーミラーを装備した「アンシンメトリーミラー」がオプションで設定されていた。
しかし、従来のスポーツ路線とは大きく異なる高級志向は不評の結果となり[注 3] 、登場から1年もたたないうちに2ドアクーペやワゴンの導入というテコ入れが図られることになる。
1986年 1月
ワゴン追加。テールライトは直列4気筒モデルと同じく丸型ではない。ワゴンのGTパサージュターボはスバル・レガシィ ツーリングワゴンが登場するまでの間、国産スポーティワゴンの雄であった。
1986年2月
特別仕様車4ドアハードトップ「GTリミテッドS」発売。「GTエクセルツインカム24V」のエンジンをRB20DETとしたもので、実質的にエクセルシリーズのツインカムターボ版と言えるものであった。
1986年5月
2ドアクーペのGTSシリーズを追加。R30型までの2ドアハードトップと異なり、車体剛性確保のためBピラー付きのモデルとなったことからボディ名称にはクーペが用いられた。ターボ・チャージャーのタービン素材に軽量なセラミックを採用しターボラグの低減を図った「セラミック・ターボ」を採用している点が特筆される。また、車速が70km/hを超えるとフロントエアダムから自動でせり下がる「GTオートスポイラー」や4WAS(現在のABS )もオプション設定された。発売初期のCMキャラクターは岩城滉一 。このGTSシリーズ追加を機に、CMも含めてスポーツ路線への回帰を図る。一部車種にCDデッキをオプション設定。キャッチコピーは「そのとき、精悍。」。
1986年8月28日
「4ドアセダン1800エクストラG」を追加。
1986年9月24日
一部改良。2ドアスポーツクーペに引続き、4ドアハードトップにもGTエクセルのツインカム系を発展させる形でGTSシリーズを追加。アンシンメトリーミラーのオプション設定を廃止。
1987年 2月
「2ドアスポーツクーペGTSツインカム24VターボNISMO」を限定1,000台にて設定。イタルボランテステアリングホイール、バケットシート等を装備する。
1987年5月28日
「4ドアセダン1800エクストラGリミテッド」および「4ドアセダン1800Gリミテッド」を追加。
1987年8月21日
マイナーチェンジ。外観とエンジン(NICSをモノポートブランチ化するなど若干のパワーアップで、RB20DETが190PS)に手が入る。4ドアセダン・ハードトップのフロント周りの造形が2ドアスポーツクーペと共通するデザインへ変更され、量産車で世界初のプロジェクターヘッドランプ(ただしロービームのみ)が採用される。このマイナーチェンジに伴い4ドアセダンに限り「2000GTパサージュツインカム24V」および「2000GTパサージュターボ」がそれぞれ廃止され、ガソリンエンジン・ディーゼルエンジンを問わず全車SOHCの自然吸気エンジンに統一された。キャッチコピーは「性能はスポーツチューンド」「We,Motor Sports」。
マイナーチェンジと同時に、当時のグループAのホモロゲーションモデルとして「2ドアスポーツクーペGTS-R」を800台限定で設定。フロントオートスポイラーを固定化し、大型スポイラーを装備、さらに大型ターボチャージャー・専用インタークーラー・等長ステンレス製エキマニ等のチューニングを施し210PS(ネット値レギュラー仕様)を発生させる。1987年11月のインターTECにてデビューし、全日本ツーリングカー選手権をはじめ国内レースを席巻した。
1988年 1月
特別仕様車「GTS-X ツインカム24V リミテッド」発売。同時に一部改良し1800Gにブロンズガラス追加。
1988年5月
5月24日、特別仕様車「GTサルーン」「エクセルサルーン」を共に全国限定2000台で発売。
1988年8月
8月22日、日産の子会社であるオーテックジャパン が独自にエンジンや足回りをチューニング し、GTS-Rと同じく210PS(ネット値)を発揮する限定車「GTSオーテックバージョン」が登場(限定200台)。申込者多数となり8月22日から9月25日までの受付期間により抽選販売がされた。また、当車が日産車として初めてRAYS 製ホイールを採用した。
1988年9月
「Vシリーズ」追加。
1988年10月
AT車にシフトロック追加。
1988年11月21日
特別仕様車「1800リミテッド」発売。
なお、カタログモデルでタクシー 仕様車が設定されたのはR31型が最後となった(エンジンはCA18P型-LPG 仕様。小型タクシーの全長の規定によりマイナーチェンジ後もフロントおよびリヤバンパー の変更は無かった)。
オーストラリア では4気筒モデルがピンターラ (Pintara ) という名称で現地生産された(6気筒モデルは日本と同じく「スカイライン」を名乗った)。2代目ピンターラはU12型ブルーバードの現地生産車となって4気筒モデルのみとなり(6気筒モデルはA31型セフィーロに代替)、日本ではブルーバードオーズィ として輸入 販売された。
また、コンプリートカーメーカーのトミーカイラ がオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000cc SOHCのRB30E型エンジンのシリンダーブロックを流用しRB20DEのヘッドを組み合わせた3,000cc DOHCエンジンを搭載し、コンプリートカー「M30 」として市販した。これは、日本初の公認チューニングカー としてトミーカイラが世に出した最初のモデルでもある。このM30は2007年2月時点での日本での現存が8台(R31HOUSE 調べ)という稀少車種となっている。
オーテックジャパン は、1994年 にオーテック・ザガートステルビオ の販売不振で余剰となったVG30DET 改+4速ATというパワートレインをHR31型に搭載した「S&Sドリフトパッケージ」を発売している。生産台数はわずか5台で、2021年時点での実働車は2 - 3台とされる[26] 。
その他、同じくコンプリートカーとしてM20も存在した。こちらも生産台数30数台という稀少車種である。
7代目の途中から開発主管を引き継いだ伊藤修令 は、7代目でも2ドアクーペに「GT-R」のバッジを付ける予定があったことを明らかにしている。伊藤によれば、1985年6月に「2ドアクーペの試作車ができた」と聞いて現場を見に行ったところ、試作車には「GT-R」のバッジがついていたという。しかし、その直前の4月に行われた4ドアのジャーナリスト向けの試乗会においてRB20DETが酷評されており、試作車も同じエンジンを搭載していたため「散々『走らない』と言われたエンジンを積んでおいてGT-Rだなんて言ったら、また酷評されるのは明白」として、その場で「GT-R」のバッジを外させた[27] 。また、トルクスプリットタイプのフルタイム4WD の投入も予定されていたが、重量増やパフォーマンスとの兼ね合い、操縦安定性や制動力などの熟成不足で時期尚早とされ、見送られることとなった。
一方で、伊藤と渡邉衡三 は後年スポーツ路線に戻したR31の後期型と2ドアクーペに関しては評判は良かったと発言している。[10]
上述の通り、R31の初期型はジャーナリストやユーザーから酷評を受けたが、後に伊藤は「正直なところ、R31があれほど悪く言われるとは思っていませんでした」「主管が櫻井さんからわたしに代わったことで、ジャーナリストの方々も本音が言いやすくなったのではないか」と語っており、櫻井のカリスマ性などで抑えられていた不満が本モデルで噴出したことが背景にあると分析している[27] 。
概要 日産・スカイライン(8代目) BNR32/HCR32/HNR32/HR32/ECR32/ER32/FR32/HNR32改, 概要 ...
日産・スカイライン(8代目)BNR32/HCR32/HNR32/HR32/ ECR32/ER32/FR32/HNR32改
初期型4ドアGTS-t
2ドアGTS-t タイプM
概要 販売期間
1989年 5月 - 1994年 10月 ボディ 乗車定員
4名(GT-R)/5名(GT-R以外) ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動 / 四輪駆動 パワートレイン エンジン
CA18i RB20E/DE/DET RB25DE RB26DETT RB26DE 変速機
5AT(RE5R01A) 4AT(RE4R01A) 5MT(FS5R30A) 5MT(FS5W71C/B) サスペンション 前
マルチリンク 後
マルチリンク(FR32のみマルチリンク、ブレーキはドラムブレーキ) 車両寸法 ホイールベース
2,615mm 全長
4,530 - 4,580mm 全幅
1,695 - 1,755mm 全高
1,325 - 1,340mm その他 総販売台数
29万6,087台(GT-Rの4万3,661台を含む)※販売終了前月までの新車登録台数の累計は30万3147台[28] 共通のプラットフォームを使用する車
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GT-Rを除き1989年 - 1993年
通称:超感覚スカイライン。 4ドアセダン7グレード、2ドアクーペ5グレードで登場。GT-R以外の系列は最後の5ナンバースカイラインとなる。ボディタイプはR31型まで存在した4ドアセダン、およびステーションワゴンが姿を消し[注 4] 、ピラードハードトップ構造の4ドアスポーツセダンと2ドアクーペの2本立てとなった。なお、歴代スカイラインにおいて4ドアピラードハードトップはR32型が唯一である(R31型はピラーレスハードトップ)。プラットフォームはこれまで通りローレル、新たに登場したセフィーロ と共通だが、当時日産が推し進めていた901運動 の最重要車種としての位置づけにより大幅な設計変更がなされ、フロントサスペンションがマクファーソンストラットからマルチリンクに変更された。
標準モデルの搭載エンジンは直列6気筒が215PSまでパワーアップされたRB20DET型(GTS-t)を筆頭にRB20DE型(GTS)、SOHCのRB20E型(GTE)と直列4気筒SOHCのCA18i型(GXi)もあったが、R31型まで設定されたディーゼルエンジンの設定はなくなった。中でもR32型のGTS-4にはRB20DET型エンジンにGT-Rと同じアテーサE-TSを組み合わせているので高性能も味わえた。後にマイナーチェンジで2,500ccのRB25DE型を搭載し、5速ATを組合わせたGTS25も追加され、GT-R以外の3ナンバーモデルも発売されたが、A31型セフィーロ の様に全車3ナンバー化はされなかった。キャッチコピーは初期型が「とんでもないが、とんでもいい 」、後期型が「あたたかな魂。 」「I Love You, SKYLINE. 」。
この代では、同クラスのライバル車であるマークII ・チェイサー ・クレスタ に対抗すべく、姉妹車のローレル・セフィーロと共に「シンフォニーL作戦」という販売戦略が取られた。セフィーロは「カジュアル」、ローレルは「エレガント」、スカイラインは「スポーティ」の個性で差別化してラインナップ全体で販売台数を獲得する狙いから、スカイラインは「当時の6気筒エンジン搭載車クラスで最も狭い居室&トランクと、セドリック並みの大きくて力強いエンジンルーム」というパッケージングでスポーティに振り切り、居室&トランク容量のゆとりを求めるファミリーユースはローレルに任せるという位置づけとした[29] 。
当時の基準としてはボディがやや肥大化しすぎた感があったR31型をダウンサイジングしてスリム化したスタイリングは、自動車評論家やレーサーからは最もバランスの取れたモデルとして歴代のスカイラインの中でもきわめて評価が高い。しかし、4ドアセダンは先代と比べてかなり狭くなった車内空間(特に後部座席)でファミリーユースが減少、新たな兄弟車種であるセフィーロや格下のクラスでありながらスポーティーなハンドリングを売りとした、FF レイアウトを用いたファミリーセダンであるプリメーラ の存在、そして車の流行がRV (後代でのミニバン 、SUV )に変わっていった時期とも重なり、販売台数は落ち込んでしまう。また、開発段階の実車を見た水野和敏 も『こんな後ろ狭くて大丈夫か?』と発言していたという。
なお、初期・後期共に教習車 仕様が存在していた。パトカー 仕様はこの代が最後となる(E-YHR32型車が1991年8月まで製造)[注 5] 。なお先代R31型までは中東やオセアニア向けなどの輸出仕様が存在したが、このR32型は日本国内専用モデルであった。
1989年8月
16年ぶりに「GT-R 」グレードが復活。「GTS-4」も同時に販売開始。
1990年9月
特別仕様車「4ドアセダン GTSアーバンロード」発売。
1991年1月
90年全日本ツーリングカー選手権シリーズチャンピオン獲得記念限定車「GTSVセレクション」発売。
1991年8月
マイナーチェンジ。フロントバンパー、フロントグリル、ヘッドライト、バッジ類などを小変更。内装はクロスの素材や色、メーターパネルなどを変更。またサイドドアビームや運転席エアバックをオプション設定するなどの衝突安全対策を充実。4ドアセダンにTypeXシリーズや2,500ccのRB25DE搭載モデルを追加。キャッチコピーは「I Love You,SKYLINE 」。CM出演者は羽田美智子 、田中広子 。
1992年1月
91年全日本ツーリングカー選手権シリーズチャンピオン獲得記念限定車「GTSVセレクションII」発売。
1992年4月
オーテックジャパン より、4ドアスポーツセダンGTS-4をベースに、GT-R用RB26DETT型をNA化し、鍛造ピストンや高回転カムシャフトを採用するRB26DE型(220PS/6,800rpm、25.0kgm/5,200rpm)と4速ATを組合わせた「オーテックバージョン」[30] が発売された。
1992年5月
乗用車生産4000万台突破記念限定車「2ドアスポーツクーペ GTS SV」、「4ドアスポーツセダン GTS25 SV」、「GTE SV」発売。
1992年6月
GT-Rを除く全車にフッ素樹脂塗装をオプション設定。
1992年10月
スカイライン35周年記念として「4ドアスポーツセダン GTE タイプX・V」追加。CM出演者は田中広子 に変更。
1993年1月
日産創立60周年記念特別バージョンを設定。2ドアクーペ2Lターボ搭載「GTS-tタイプM」をベースにプロジェクターヘッドランプ、バンパー組込みフォグランプ、CDプレーヤー、リヤスポイラー、記念キー、エクセーヌシートなどを装備。同じく2ドアクーペ2L DOHC搭載「GTSタイプJ」にも同様の装備を追加、本革巻きステアリングや15インチアルミホイールを特別装備する。
1993年5月
日産創立60周年記念特別モデル「Vセレクション 60thアニバーサリー」を設定。2ドアクーペ2L DOHC搭載「GTSタイプJ」/4ドアセダン2L OHC搭載「GTEタイプX」をベースに、上級タイヤ&アルミを装着、ゴールドGTバッジなど特別装備を持つ。同時にカタログモデルの整理も行われ、セダン「GTS25タイプX・G」「GTSタイプX」とクーペ「GTS-tタイプM」の計3車種のみとなる[31] 。
1993年7月[32]
生産終了。在庫対応分のみの販売となる。
1993年8月
R33型と入れ替わる形で標準モデルの販売が終了(GT-Rは1994年10月まで継続生産)。
その他、コンプリートカーメーカーのトミーカイラ がオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000ccSOHCのRB30E型エンジンをRB26DETT型のパーツを流用しDOHC化。NAながら280PSを発揮させるRB30DE型を独自開発し、オーテックと同じくGT-Rではなく2ドアスポーツクーペGTS-tの車体に搭載しコンプリートカーとして市販した。
社内での開発コードはRXだった。当初、メーカーの広報車 の一部には、「RX」のロゴとストライプを組み合わせたデカールが貼られていた。また、そのストライプデカールはディーラーオプション品として設定されていた。
概要 日産・スカイライン(9代目) BCNR33/ECR33/ECR33(NA)/ER33/ENR33/HR33, 概要 ...
日産・スカイライン(9代目)BCNR33/ECR33/ECR33(NA)/ER33/ENR33/HR33
セダン 1993年初期型 GTS25t タイプM
セダン 1996年1月改良型 GTS25 タイプS/S
概要 販売期間
1993年 - 1998年 ボディ 乗車定員
4名/5名 ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動/四輪駆動 パワートレイン エンジン
RB26DETT RB25DET RB25DE RB20E 変速機
5AT(RE5R01A) 4AT(RE4R01A) 5MT(FS5R30A) 5MT(FS5W71C/B) サスペンション 前
マルチリンク 後
マルチリンク
ホイールマッチング
ハブ径
ホイール穴数
ターボ車とGTS25typeS/Sは5穴114.3
NA車と四輪駆動は4穴114.3
車両寸法 ホイールベース
2,720mm 全長
4,640 - 4,720mm 全幅
1,720mm 全高
1,340 - 1,360mm その他 総販売台数
217,133台(GT-Rの16,435台を含む)※販売終了前月までの新車登録台数の新車登録台数の累計は21万6275台[33] 共通のプラットフォームを採用する車
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1993年 8月
ボディをふたたび大型化し全車3ナンバーで登場。排気量も2.5Lを主力とした。
キャッチコピーは「走りの向こうにロマンがある」本流グランドツーリングカー 。CM出演者はジャン=マルク・バール と田村翔子 。CM曲は山下達郎 のジャングル・スウィング 、悲しみのJODY、SOUTHBOUND No.9が使用された。
ボディタイプは2ドアクーペと4ドアセダンの2本立て。セダンのドアがサッシュレスからプレスドアに変更(クーペはサッシュレスドアのまま)。大型ボディによりR32に比べて居住性は大幅に上がったが、同時に車両重量も増加。開発当初はクーペをショートホイールベースにする予定だったが、終盤でセダンとのシャシー共用によるコストカットを求められた。そのためかクーペの外観は間延びしたものとなっており、ドアもかなりの大きさを持つ。発売初期の頃はR31型やR30型程ではないが評価・評判共にあまり芳しくなく、R33型が発表されたとたんに在庫のR32に注文が殺到したというエピソードもある。
エンジンは2.5L RB25DET型とRB25DE型、および2.0L RB20E型(R33型唯一のSOHCエンジン)の3タイプであった。トランスミッションは5速MT、5速AT、4速AT(5速ATはのちのマイナーチェンジにて4速ATに変更される)であった。ターボ搭載のRB25DET型エンジンは『リニアチャージコンセプト』により過給圧を抑えレスポンスの向上を図っていたが、市場からの評価はターボらしくない、実験段階でも主管に就任する前の渡邉衡三 からも『出力の盛り上がり方がターボらしくない』という評価を貰う芳しいものではなかった。
サスペンション形式はR32と同じくマルチリンク だが、前アッパーアームをI型からA型に変更、後ダンパーのストローク増、などの改良が図られている。
HICASはR32型の油圧式から電動式に変更されている。
バッテリーをトランク奥に設置するハイトラクションレイアウトを採用している。バッテリーから発生する水素ガスを車外に放出するために専用バッテリーが採用され、ホースで車外へと排出されるようになっている。
1993年 11月
フルタイム4WDの「GTS-4」を追加。
1994年 1月
特別仕様車「GTSタイプG リミテッド」を設定。4ドアセダン+2L OHCエンジン搭載の「GTSタイプG」をベースに、上級タイヤ&アルミ、リモコンキーなど充実装備とした。
1994年 6月
4ドアセダンに特別仕様車「GTS25tタイプG リミテッド」を設定。2.5L DOHC(RB25DE)エンジン搭載の「GTS25タイプG」をベースにターボを搭載、上級タイヤ&アルミ、ビスカスLSD、ブースト計など走りの装備を加えた。
1995年 1月
GTS系一部変更。運転席SRSエアバッグ、およびテールパイプフィニッシャーを標準装備としたほか、外装を一部変更。セダンのラジエータグリル、ヘッドランプ周りをスモークシルバーに変更し、GTSタイプG系にアルミホイールを標準装備化。クーペのラジエータグリルをボディカラー化し、「エアロパッケージ」を設定。「セダンGTS25タイプG・SE」および「セダンGTS-4タイプG」を追加。
GT-R登場。BNR32型が継続販売されていた「GT-R」がフルモデルチェンジしBCNR33型となる。R33型GTS系のデビュー直後、東京モーターショーでGT-Rのプロトタイプが発表されていたが、一般車にしては前代未聞の東京オートサロン にてデビュー。市販モデルではフロント周りを見直されている。桟の無いラジエータグリルにGT-Rのエンブレムを配し、角度変更可能なリアウイングを採用した。GT-R専用のRB26DETT型エンジンの出力は280PS/6,800rpm、37.5kgm/4,400rpmとなる。グレードは標準車のほか「GT-R Vスペック」、「GT-R VスペックN1仕様」の3種類。N耐参戦ベース車である「Vスペック N1仕様」は、カーボンセンターリヤスポイラー(角度調整機構付)、カーボン製アンダーカバー、メタルタービン、空冷式エンジンオイルクーラーなどの専用装備を持ち、軽量化として助手席エアバッグ、エアコン、オーディオ、集中ドアロック、リヤワイパーなどが省かれている。なおボディカラーの設定はホワイトのみであった。
型式については前回のBNR32ではB=RB26DETT、N=アテーサ+HICAS、R=スカイラインの意味を持たされていた。R33ではB=RB26DETT、N=アテーサ、C=HICAS、R=スカイラインの意味なのだが、このモデルにだけ"C"がつくのは、R32型・R34型共にアテーサ装着車にはHICASが自動的に装着されていたのに対し、R33型GT-R以外のモデルではアテーサ装着車でもHICASが装着されていないモデルも存在したことにより、差別化のためCが表記されている。しかし、Option ではR34でまたC=HICASが社内記号での判断となり消滅したことと合わせ、「C=C34ローレル とのシャーシ共用を意味してるのではないか?」と書かれていたが、共用はシャーシではなくトランスミッションであった。発売後、NISMOからは400Rと呼ばれるコンプリートカーが限定車として44台販売された(限定台数は99台であったが、その前に販売が終了)。当時の販売価格は1200万円である。この400Rの名前の由来は搭載されたエンジン、ニスモが「RB-X GT2」と呼ぶ2.8L排気量アップ版の最大出力400PSに由来する。
1995年 7月
R33スカイラインのNISMO(ニスモ)バージョン、「GTS25t TypeM ニスモ」を設定。直列6気筒DOHC24バルブターボ(RB25DET)の250馬力ユニット搭載車をベースに、外観をスポーティに仕上げた特別仕様モデル。一方、「GTS25タイプG エアロ」/「GTSタイプG エアロ」を設定。こちらは4ドアセダン+2L OHCエンジン搭載の「GTSタイプG」、2.5L DOHC「GTS25タイプG」をベースとしたエアロスポーツモデル。navanのパーツを装備する特別仕様車。
1996年 1月
ビッグマイナーチェンジ。外装が大幅に変更された。助手席にもSRSエアバッグを標準装備とした。CM出演者は牧瀬里穂 、キャッチコピーは当初「男だったら、乗ってみな。 」だったが、その後、諸般の事情により「キメたかったら、乗ってみな。」を経て「好きだったら、乗ってみな。」に変更となった。CM曲はBorn to be wildのアレンジ版。
1996年 6月
特別仕様車4ドアセダン「GTSタイプXリミテッド」、「GTS25タイプXリミテッド」を設定。2.0L SOHC(RB20E)搭載GTSタイプX、2.5L DOHC(RB25DE)搭載GTS25タイプXをベースとする装備充実モデル。
1997年 2月
一部変更。ABSを標準装備とした。
1997年 10月
第32回東京モーターショーに「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を出展。スカイライン生誕40周年を記念した限定車。BCNR33型GT-Rをベースに4ドアのボディを載せた、PCG10型GT-R以来の4ドアGT-Rである。2ドアGT-Rのブリスターフェンダーを再現するために、リアドアとリアフェンダーのプレス型を作り直すほどであった。
同じく、1997年10月には基準車に対しても、スカイライン生誕40周年記念車を設定する。車種は3種、2ドア「GTS25t TypeM 40thANNIVERSARY」、4ドアには「GTS TypeXG 40thANNIVERSARY」に加え、電子制御トルクスプリット4WDシステム ATTESA E-TS搭載車両の「GTS-4 TypeXG 40thANNIVERSARY」を設定し販売する[34] 。
エンジンは3機種となり、2ドア「GTS25t TypeM 40thANNIVERSARY」にはRB25DETエンジンを、4ドア2車種については「GTS TypeXG 40thANNIVERSARY」がRB20Eエンジン、そして「GTS-4 TypeXG 40thANNIVERSARY」にはRB25DEエンジンを、それぞれ搭載した。
また外板塗装色についても、GT-R系に設定された「ミッドナイトパープル」を2ドアのみ、専用車体色として設けた。
装備の具体的内容としては、ベースとなる基準車にプラスして2ドアが、「リヤストラットタワーバー」・「リヤ間欠ワイパー」・「40周年記念エンブレム&シートマスコット」となり併せて、C.S.Rハロゲンヘッドライト&フロントバンパー組み込みハロゲンフォグランプ、大型リヤスポイラー(LED式ハイマウントリヤスポイラー)を装備。4ドアには、「スカイラインサウンドシステム」・「スーパーファインハードコート」・「40周年記念エンブレム&シートマスコット」のほか併せて、15×6JJアルミロードホイール、リモートコントロールエントリーシステムを設定して、販売となった。
1998年 1月
「GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー」を発売[35] 。型式は「BCNR33改」となる。村山工場で組み立てされた後、座間事業所にて仕上げを施され、出荷された。標準車の4ドアセダンと違ってリアシートの中央が突出しており、乗車定員が4人となっている。神奈川県警が白黒、埼玉県警が覆面パトカーとして2台ずつ導入している。
同じく、98年1月には標準準車に対しては97年10月より、設定のあったスカイライン生誕40周年記念車について、新たに2ドアのみ「GTS25t TypeM-R 40thANNIVERSARY」を設定し販売した。外板色は限定され、40周年記念車種似設定のあったもののうち、「ミッドナイトパープル」・「ソニックシルバー」・「ブラック」・「ホワイト」の4色となった。
この「TypeM-R」については、現存数はきわめて少なく、主な追加装備として既設の40周年記念車種に併せ「専用エアロフォルムバンパー(フロント)」・「サイドシルプロテクター」・「リヤアンダープロテクター」・またGT-Rタイプの「大型タイプリヤスポイラー(LED式ハイマウントストップランプ付)」となった。
1998年 4月[36]
生産終了。在庫対応分のみの販売となる。
1998年 5月
10代目と入れ替わって販売終了。
GT-Rのみ100台限定でイギリスへ輸出されている(下記「#GT-R 」参照)。
4ドアGTS(フロント)
4ドアGTS(リア)
4ドアGTS25t(フロント)
4ドアGTS25t(リア)
4ドアGTS25t タイプM(フロント)
4ドアGTS25t タイプM(リア)
2ドアGTS25t タイプM(フロント)
2ドアGTS25t タイプM(リア)
2ドアGTS25tタイプM-R
トミーカイラ・M25
インテリア(2ドアGTS25t タイプM)
GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー(フロント)
GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー(リア)
GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー(パトカー仕様、フロント)
GT-R オーテックバージョン 40thアニバーサリー(パトカー仕様、リア)
概要 日産・スカイライン(10代目) BNR34/ER34/ENR34/HR34, 概要 ...
日産・スカイライン(10代目)BNR34/ER34/ENR34/HR34
前期型(1999年式)4ドア 25GT-FOUR
後期型4ドア 25GTターボ
概要 販売期間
1998年 5月 - 2002年 12月 ボディ 乗車定員
4名/5名 ボディタイプ
駆動方式
後輪駆動/四輪駆動 パワートレイン エンジン
RB26DETT RB25DET RB25DE RB20DE 変速機
4AT 4AT(マニュアルモード付き) 6MT 5MT(FS5R30A) 5MT(FS5W71C) 6MT (FS6R93A) サスペンション 前
マルチリンク 後
マルチリンク 車両寸法 ホイールベース
2,665mm 全長
4,580 - 4,705mm 全幅
1,720 - 1,725mm 全高
1,340 - 1,375mm その他 総販売台数
6万4,623台(GT-Rの1万1,344台を含む)※販売終了前月までの新車登録台数の累計は4万8772台[37] 共通のプラットフォームを採用する車
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1998年5月
R34型発売。キャッチコピーは「ドライビングボディ 」、および「ボディは力だ。 」。GT志向でスポーツイメージを薄めた先代の反省からホイールベースを短縮し、ボディ剛性 を徹底して向上。社内測定値ではメルセデスやBMWを凌駕するボディ剛性を達成。同時に受動安全性も向上した。搭載エンジンは全てRBシリーズの直列6気筒DOHC。2.0Lリーンバーン のRB20DE型、2.5LのRB25DE型、および2.5LターボRB25DET型の3種類。マニュアルモード付ATを2.5L 2WDモデルに設定した。MTはクーペの全仕様、セダンのターボモデル、四輪駆動 および2.0Lモデルに設定された。スタイリングは先々代を踏襲した先代から一変し、R31回帰ともとれる直線基調・ハイデッキのウェッジシェイプだが、R32で認知を得た若年ファン層の反響は渋かった。クーペはS14型末期およびS15型シルビア と「走り重視の硬派スポーツ」というキャラクターが重複し、身内で人気を食い合うかたちとなった。
標準車系での最強グレードでRB25DET型を搭載する「25GT-TURBO」はカタログ値280PSを発揮するに至ったが、「どっかん」と山なりに立ち上がるターボ感を排し、スムーズな吹け上がりやリニアリティを優先したパワーフィールなど、6気筒らしい上質感ある躾がなされていた。
また、
スカイラインはグレードごとに次のような型式とエンジンが割り振られている[38] 。
GT - HR34・RB20DE
25GT・25GT-X - ER34・RB25DE
25GT-FOUR - ENR34(「N」はATTESA E-TS を搭載している証)・RB25DE
25GT-t・25GT-X-t - ER34・RB25DET
1999年1月9日
R34型(BNR34型)GT-R発売。キャッチコピーは「人に翼を 」。前回同様に東京オートサロンデビューとなったが、有名なショップには事前に納車され、若干チューニングが施された車が展示され、NISMO からはコンプリートカー状態になったものが展示されていた。
このR34型は第2世代最後のRだけに歴代GT-Rの中でも究極のGT-Rといえる進化を遂げた。特にVスペックは量産車初のオートクレーブ 製法で形成されたカーボンディフューザーやフロントバンパー下部の追加エアダム、可変2段リアウイングスポイラーから構成されたアドバンスドエアロシステムを採用し、日本車初のマイナスリフト(最大値約10kg)を達成した。
純正品としては異例の、ぜい肉を極限まで削ぎ落とした鍛造6スポーク18インチホイールを装備。トランスミッションは独ゲトラグ 社と共同開発した6速MT、ブレーキはイタリアの名門ブレンボ 製のほぼBNR32グループA 並の容量を標準装備とした。エンジンは第2世代最後となるRB26DETT型を搭載。自主規制枠一杯の最大出力280PSはそのままではあるが、R390GT1で培われた技術を活用し、最大トルク40.0kgmを達成する等、究極のドライビングプレジャーを体現する存在となった。その結果、当時COOとして日産に赴任していたカルロス・ゴーン をして、「日産で最も好きな車」と言わしめた。車内では、インパネ中央上部にマルチファクションディスプレイモニターが搭載され、水温、ブースト圧などの各種車両情報を表示させることができる。Vスペックとノーマルでは多少表示項目が異なる。なお、インパネのセンター面がドライバー寄りに8°捻られており、2.5ターボの3連メーターはその面に合わせて取り付けられていたが、本モニターは視認性を高める狙いでさらに捻りを4°強めて設置されたため、機能優先とはいえやや見た目の統一感には欠けていた。
基準車も発売を機にプリンス店のみでの取り扱い車種からサニー店 との併売に変更[39]
1999年2月
4ドアセダンに電動SUPER HICAS、リヤビスカスLSD 等、ターボ車同様の足回りを持つ「25GT-V」(ENR34型)を追加。R34型登場時には設定のなかった2WDセダンのNA 2.5LとMTの組み合わせとなる[38] 。
3月末までの期間限定モデルとして売り出されたが、4月以降も生産され翌年発売された2ドアと共に、後期型ではカタログモデルとなった。
1999年9月
2ドアスポーツクーペ・4ドアセダンともにリヤビスカスLSDをヘリカルLSD に変更。また細かいところでは、エンジンカバーに書かれた「Turbo」「NEO STRAIGHT 6」の文字に施された赤い塗装が廃止されたことがカタログから読み取れる。
2000年1月
2ドアスポーツクーペに「25GT-V」を追加。GT-Rに第33回東京モーターショーに参考出品された特別塗装色ミッドナイトパープルIIIを3か月期間限定で設定。
2000年8月28日
マイナーチェンジ。フロント周りを中心に内外装を一部変更したほか、RB25DET型の5速MT車にて、エンジンのトルクアップとコンロッドをRB26DETT と共通品に変更する改良を施した。
2000年10月
GT-Rがマイナーチェンジ。内外装の一部変更、およびVスペックに替わりVスペックIIをラインナップ。量産車としては初のNACAダクト 付きカーボンファイバー製ボンネットフードを採用。その他色の変更、アルミペダル化、ターンシグナルランプのクリア化が行われた。なお、この代のGT-Rはイギリスでも100台限定ながら輸出販売され、基準車も香港 へGTターボとGTが、ブルネイ はGTが、ニュージーランド へも正規輸出されている。
後期型へのマイナーチェンジ直後、村山工場 閉鎖のため2000年9月29日(GT-Rは8月5日)をもって同工場での生産を終了し、「工場5」のモデルプレートを持つ車両は絶版となった。以降は栃木工場 が生産拠点となる。なお、GT-Rの村山工場最終生産車両は同車開発主管の渡邉衡三 が保有する。
2001年5月[40]
GT-R以外の全グレードの生産終了。在庫対応分のみの販売となる。「GT-R M・spec」追加。リップルコントロールショックアブソーバーを採用したほか、専用の本革シートを装備し、専用色を設定した。
2002年1月
平成12年排出ガス規制の非適合車種に設定された生産猶予期限が切れることを受け、同年8月をもってGT-Rの生産終了を発表。同時に最終特別限定車「M・spec Nür」および「V・spec II Nür」を設定。前者が630万円、後者が610万円である。「Nür」はGT-Rがテスト走行で使用したドイツ のニュルブルクリンク から命名された。この「Nür」にはヘッドカバーを金色塗装されたN1仕様エンジン、N1タービン、シャフト、ピストンなどの特別部品を使用し、300km/hスケールのスピードメーターを装備。通常ならばステッカーの後部グレード標記が立体エンブレムになり、コーションプレートもゴールドになっている。さらに専用色である「ミレニアムジェイド」も設定(「V・spec II Nür」はシリカブレス、「M・spec Nür」はベイサイドブルーがラインナップにはない)。「M・spec・Nür」および「V・spec II Nür」はそれぞれ300台の生産予定だったが、後に各500台までの増産が発表され、さらに反響に応えるかたちで最終的に両グレード各1000台の生産が決定し、1月24日に発表・即日予約完売(発売日は2月26日)という、第二世代GT-Rの締めくくりを飾った。
2002年8月
平成12年排出ガス規制非適合のためGT-R生産終了。
2002年12月
GT-Rの全在庫分が販売終了。
2005年
NISMOよりコンプリートカー「NISMO R34GT-R Z-tune 」が20台限定で発売。型式認定を受けない改造車のため、書類上持ち込み登録の販売となる[41] 。車両価格は1,774万5,000円(ユーザー所有のR34GT-Rを工場に持ち込みチューンする「パーツコンバージョン」は1,312万5,000円。ただしボディカラーはベース車両のままでハードコートも施工できない。また、ミッドナイトパープル色は受付不可とされていたが、ユーザーの強い要望により1台のみ制作されている)。エンジンはRB26DETTの排気量を2.8Lまでアップし、最高出力500PSを発生する。ホイールなどはZ-チューン仕様のLMGT4を使用している(このLMGT4は後に限定で市販されている)。
2007年3月
ベース車の入手・確保が困難(チューニングに耐えうる中古車の流通が減った)となり、「NISMO R34GT-R Z-tune」の持ち込み登録を終了。総架装台数は試作車 1台、保存車1台、日本国内13台、日本国外4台の計19台であった。
なお、2ドアクーペは交通取締り用のパトカーとして数台採用された。4ドアセダンのGTターボは交通取締り用の覆面パトカー として初期型50台が導入され、その後に後期型も少数ながら、埼玉や和歌山などの高速隊で導入されている。その後捜査用車両としてNAエンジンの4ドアセダンが127台導入された、最近では交通取り締まり用はクラウン の覆面パトカーにその座を譲ることが多くなった。GT-Rのパトカーは現在埼玉県警察 のみ所属しており、白黒車4台とシルバーの覆面車1台体制で東北自動車道 で現在でも使用されている[注 6] 。
後期型 GT(フロント)
後期型 GT(リア)
25GT(フロント)
25GT(リア)
25GT-FOUR
25GT-t(フロント)
25GT-t(リア)
クーペ 25GT-t(フロント)
クーペ 25GT-t(リア)
25GT-V(フロント)
25GT-V(リア)
GT、25GT、25GT-FOURに装着されているバッジ
[38]
セダン中期型
セダンは2001年6月18日に、クーペは2003年1月16日に発売。デザインの元になっているのは第33回東京モーターショー に出品されたコンセプトカー 、「XVL」である。この車両はスカイラインとは別のモデルとして発表され、日産の新しいスポーツセダンとして開発が始められていた。M35型ステージア 、Z33型フェアレディZ 、およびフーガ はV35型のFMプラットフォーム から派生したモデルである。
10代目の項の通り、R34型登場から3年後にV35型が登場したが、先代までのフルモデルチェンジのサイクルと比較して短い。この型から、従来の特徴の一つであった直列6気筒エンジンに替わり、V型6気筒 直噴ガソリンエンジンを搭載し、スカイラインのエンブレムは日産のブランドロゴに変更になった。
国外では、日産の上級ブランドであるインフィニティ の販売網によりインフィニティ・G35 として販売された[注 7] 。
V36型の発表・発売によりセダンは2006年11月に、クーペは2007年10月に販売が終了した。
セダン前期型250GTタイプS
SHIFT ワード :SHIFT_passion ときめきをシフトする。(廃止)
セダンは2006年11月20日に、クーペは2007年10月2日に発売された。また、スカイライン史上初のクロスオーバーSUV モデルとなる「スカイラインクロスオーバー」が2009年4月16日に発表され、7月13日に発売された。
型式について、セダンとクーペはV36型、クロスオーバーはJ50型となっている。インフィニティでの販売名にも違いが現れており、セダンおよびクーペはGシリーズ、クロスオーバーは「EX」(のちに「QX50」へ改名)となっていた。
日産のプレスリリース[42] によると、V36型系の発売から約1か月間の年齢層別受注内訳は、中高年層が大半で、29歳以下の購入者は3%程度となっている。
V37型発表後もV36型は2.5L車3グレード(「250GT」・「250GT Type S」・「250GT FOUR」)に集約し、装備の追加や価格改定による車両本体価格の値下げを行った上で販売が継続された[43] 。併せて、日産ホームページのWebカタログにV36型スカイラインセダンのページが新設され、元々あるスカイラインセダンのWebカタログとは区別される。その後、V37型2.0Lターボ車の登場に伴い2014年度にて生産終了となった。
2019年9月改良型 400R
2013年 9月に、北米で新型インフィニティ・Q50 が発表された。日本では同年11月11日に13代目V37型スカイラインとして発表され、翌2014年 2月26日に発売。スカイラインでは初となるハイブリッドモデルが新たに追加された[44] 。また、「インフィニティ」の開発によって培われた高い技術力やデザインの知見によるモデルのため、その証としてインフィニティのバッジが装着されている。
2014年5月には提携先のダイムラー より供給される直列4気筒2.0L・DOHC16バルブ・インタークーラーターボ・エンジンを搭載 する200GT-tを追加発表し、翌月に販売を開始した。なお、4気筒エンジン搭載のスカイラインは8代目・R32型「GXi」以来となる。
2019年 7月にビッグマイナーチェンジが行われ、日産・インテリジェントモビリティ の思想に基づき5年8か月ぶりにインフィニティブランドのCIを模ったエンブレムから日産ブランドのCIを模ったエンブレムに回帰した。
国産車で初めて高速道路のルート走行で同一車線内ハンズオフ『手放し運転』が可能なナビ連動ルート走行を実現したプロパイロット2.0 (ProPILOT2.0 )[45] を搭載した。
GT-R (ジーティーアール)は、サーキット での使用を主眼にして開発されたスカイラインの高性能 グレードで、3代目(C10型)と4代目(C110型)、および8代目(R32型)から10代目(R34型)まで設定されていた。
乗用車ベースでありながらレースで勝つことを使命とし、スカイラインの他のグレードとは明確に異なる装備や高性能エンジンを搭載していた。それゆえに熱狂的なファンが多く、エンジニアにも特別のこだわりがあり、そのためにGT-Rの名を冠することが許されなかったモデル(R30型2000RS、R31型GTS-Rなど)も存在するほどである。
R34型を最後にスカイラインとしてのGT-Rは廃止されるが、2001年の東京モーターショーにはスカイラインの名を冠さない「GT-Rコンセプト」が出展され、2007年に日産・GT-R として市販化された。
スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦しているが、本格的に参戦したのはS54型による第二回日本グランプリが最初。ホモロゲーション モデルであるGT、そしてGTのレーシング・バージョンの量産モデル2000GT(改称後は2000GT-B)から「スカG」 の歴史が始まった。
3代目PGC10型/KPGC10型GT-Rは国内レースで、マツダ のロータリー 勢に苦しめられながらもクラス50勝を達成したほか、数々の伝説を残す。5代目(C210型)については排ガス規制の対策に追われたためモータースポーツ活動はないが、6代目(R30型)のシルエット・フォーミュラ、7代目(R31型)GTS-RでのグループA 全日本ツーリングカー選手権 参戦を経て、グループAの頂点を目指すべく、8代目(R32型)でGT-Rが復活。デビューからレース終焉まで29連勝の新たな伝説を築いた。
初代 (L型/20系)
1959年 7月第1回「日本アルペンラリー」にスカイラインが参戦。
1963年 5月 第1回日本グランプリ B-IIクラスに「スカイライン・スポーツ」、C-IVクラスに「スカイライン」がそれぞれ参戦。「スカイライン・スポーツ」は7位、10位。「スカイライン」は8位。
2代目(50系/S5型)
スカイラインGT(S54A-1型)
1964年5月、第2回日本グランプリ GT-IIクラスにスカイラインGT(S54A-1型)出場。T-Vクラスにスカイライン1500(S50D-1型)出場。GT-IIクラスでは2 - 6位を独占[46] し、ツーリングカーT-Vクラスでは1 - 8位を独占した[47] 。
決勝では生沢徹 のスカイラインGTが、優勝候補と目されていた式場壮吉 のポルシェ・904 を1周だけ抜いて首位に躍り出るという一幕があり、「スカイラインがポルシェ を抜いた」という事実は後年まで語り継がれていくことになる。
3代目(C10型)
1969年JAFグランプリレース大会 優勝車のレプリカ
1969年5月「JAF公認700キロ ノンストップラリー」にて「スポーティデラックス」が優勝を飾る。
日本ではGT-Rが各地のレースで猛威を振るっていたが、海外に於いても1972年、スパ・フランコルシャン24時間レースに地元ベルギーのディーラーによる支援を受けたシャルル・バン・ストールが4ドア2000GT(GC10)の輸出仕様「ニッサン2000GT」を3台ディビジョン2に出場させ、ガスケットトラブルによりリタイヤした61号車以外の2台が完走、60号車が総合20位、62号車が同じく28位に入るという健闘を見せた。なお、GT-Rは生産台数が少なく、国際公認はツーリングカー(連続12月間内に1,000台製造)の取得はできず、GTカー(連続12月間内に500台製造)の取得も困難であり、取得できるとすればスポーツカー (連続12月間内に25台)しかなかった。よって、国際公認は取得しておらず、国際レースに使うことができない機材であった。当時国内では公認に必要な製造台数を国際基準から大幅に緩和していたため、GT-Rも国内公認は取得できた。なお、同じレースの同クラスにはマツダスイスレーシングの手により2台のサバンナRX-3も出場しており、予選ではサバンナのほうが速かったものの決勝では65号車の25位という結果に終わった。
4代目(C110型)
1973年北海道周回ノンストップラリー優勝車のレプリカ
ケンメリとなったGT-Rは大きく重くなり、ロータリーに勝てる見込みがなくなりサーキットから去った。
しかし4気筒登載車はノーズも短く頭も軽く回頭性がよく、ラリーで活躍した。
1973年6月 「JAF公認・JMC主催 第10回北海道周回ノンストップラリー」にて、「セダン1800(PC110型)ラリーバージョン」が総合優勝を飾る。
1975年6月 「北海道周回ラリー」にて「セダン1800」が総合優勝を飾る。
1975年7月 「第3回JMCオーバーナイトラリー」にて「セダン1800」が優勝を飾る。
1976年 11月 「JMC中部ラリー」にて「セダン1800GL」が優勝を飾る。
この年、「オーストラリア トタル エコノミーラン」にオーストラリア向けスカイライン「ダットサン 240K」が出場。優勝を飾っている。
6代目(R30型)
1982年 5月 当時のグループ5 規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」が登場。「ハードトップ2000RS(KDR30型)」をベースに車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング 製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト 製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーが特徴。ドライバーはかつてPGC10型GT-Rを操った長谷見昌弘。エンジンはサファリラリー等で使用された「バイオレット 」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型に、エアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570PS/7,600rpm、55kgm/6,400rpmというパワーを誇った。トミー がメインスポンサーを務め、トミカ のバリエーションとして玩具化もされたが、日本各地の日産プリンス販売会社からのカンパに大きく支えられた面もある。
1983年 シーズンではR30型のマイナーチェンジに伴い、フロントマスクおよびテールランプが変更され、1984年度まで国内外のレースに参戦した。また、スプリント用とは別に1982年8月に耐久用マシンも追浜ワークス で製作され、南アフリカでのキャラミ9時間レース に参加した。翌年グループC 規定にあわせたマシンに改造され(日産・スカイラインターボC )、富士ロングディスタンスシリーズ 、および全日本耐久選手権 に参戦した。
JTCなどの戦績
1982年5月 「RRC筑波チャンピオンレース」 リタイヤ
1982年8月 「RRC富士チャンピオンレース」優勝
1982年10月 「富士マスターズ250kmレース」優勝
1982年11月 「南アフリカ共和国 キャラミ 9時間レース」 リタイヤ
1983年 5月 「RRC筑波チャンピオンレース」優勝
1983年5月 「レース・ド・ニッポン筑波」優勝
1983年8月 「RRC富士F2チャンピオンレース」優勝
1983年9月 「菅生チャレンジカップレース第4戦」優勝
1984年 9月 「菅生チャレンジカップレース第3戦」優勝
1984年10月 「スーパーカップレース」優勝
1984年12月 「筑波チャレンジカップレース最終戦」優勝
1985年 全日本ツーリングカー選手権 (JTC)にグループA仕様「RSターボC」がニスモ よりワークス参戦。主な戦績は以下の通り。
6月 第1戦 「菅生グループA」総合5位、6位完走
8月 第3戦「ビッグサマー全日本ツーリングカーレース」 2位
1986年 引き続きJTCに「RSターボC」が参戦。主な戦績は以下の通り。
3月 第1戦「西日本300kmレース」 総合優勝
11月 最終戦「鈴鹿300kmレース」 総合優勝Template:B-list
1987年 引き続きJTCに「RSターボC」が参戦。主な戦績は以下の通り。
12月 最終戦「スーパーファイナルIN鈴鹿」 2位
7代目(R31型)
1989年の全日本ツーリングカー選手権Gr.Aシリーズチャンピオンマシン
1987年インターTEC にGTS-Rがデビュー。
1988年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。
1月 第1戦「新春NRC鈴鹿300km自動車レース」 優勝
3月 第3戦 「西日本300kmレース」優勝
1989年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。
5月 「89ハイランドグループA300kmレース」 優勝
8月 「89レース・ド・ニッポン」 優勝
9月 「SUGOグループA 300kmレース」 優勝
9月 「グレード20ドライバーズレース」 優勝(※長谷見昌弘がドライバーズ・タイトル獲得)
8代目(R32型)以降
1999年 ペンズオイル ニスモ 1号車
主に「スカイラインGT-R」での参戦が多くなった。
9代目(R33型)に関しては、1994年より始まったJTCCにも4ドアセダンが近藤レーシングガレージ により参戦していた。当初はR32型での参戦を予定していたが、日産がホモロゲーション申請をしていたのがBNR32型GT-Rのみであり、何とかR32で出場したいとの願いから関係各所を回ってみたものの「旧型車にはホモロゲーションを与えられない」との一点張りで渋々諦めたところ、日産がR33セダンのホモロゲーション申請を行い、車両を提供されて参戦を果たした。なお、R32型で参戦を予定していたレーシングカーは後輪駆動と四輪駆動の2台製作され、ほぼ完成状態まで来ていたが、先述のホモロゲーション問題により参戦が不可能となった時点で解体され、産業廃棄物として処理されたという。
「山並みと青空を区切る稜線 」に由来する[48] 。
一説によるとこの名前を決定したのは、1957年当時の富士精密工業の会長であり、ブリヂストン の創業者としても知られる石橋正二郎 だと伝えられている。彼は同社製品のゴルフボール「ブルースカイ」、「スカイウェイ」などと共通性のある「空」に因んだ言葉を指向していた。その中で社内に存在した命名案の中から、清冽なイメージを持つ「スカイライン」という名前を自動車に与えたことが、プリンス・スカイラインの始まりということである[48] 。
2007年 3月21日 、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県 草津町 の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、誕生50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置された。
2020年 12月2日 、一般社団法人日本ネーミング協会が主催する「日本ネーミング大賞2020」において、優秀賞を受賞した。当時の執行役副社長である星野朝子は次のように語った[48] 。
第一回目となる日本ネーミング大賞において、優秀賞を受賞できたことを大変嬉しく思います。60年以上をも受け継がれる『スカイライン』のネーミングが、今も魅力を放っている、と認めていただいたことは、『スカイライン』を愛し、育ててくださった日本のお客さま、そして、このモデルに情熱を注いできた仲間たちの熱い想いの賜物です。 — 星野朝子(日産自動車執行役副社長)
注釈
1960年代初頭までの自動車は、ほこりや砂などでエンジン内が磨耗を起こしがちであったため、ライナーを打ち込んで内部を研削し磨耗代を復元するためのヘッド開閉は頻繁で、これを長期不要としたのは画期的であった。長く用いられた在来エンジンの設計を踏襲してはいるが、「封印エンジン」が実現したのは、材質の改良や、内部の表面加工改良のたまものである。
セリカのターボモデル追加は、A60型にモデルチェンジされた1年2か月後の1982年9月である。
開発主管の伊藤修令 は、自身の初見での印象が芳しくなかったことと、周囲の反応から、発表前の時点で危機感を抱いていたことを証言している[25] 。
1991年にはV6エンジン(VG20E)を搭載するグロリア が採用されたが、その後同じRB20Eを積むクルー を投入。
神奈川県警察 もR32、R33と導入しているが、R34型は導入していない。
車種体系上は「インフィニティG20」(日本名プリメーラ)の後継車にあたる。
出典
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第30号3ページより。
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第86号1ページ。
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第99号11ページより。
渡邉衡三『我が人生GTRと共に下巻』交通タイムス社。
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第4号7ページより。
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第11号3ページより。
デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第13号7ページより。
デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第4号9ページより。
『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p87
『NISSANスカイラインRSのすべて』三栄書房、2017年3月1日。
デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第56号7ページより。
「R31の父、語る。」『R30&R31 Magazine オレたちのスカイライン』三栄書房 〈サンエイムック Domestic Tuning & Racing Car Series〉、2018年、140頁。ISBN 978-4-7796-3476-5 。
デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第71号5ページより。
デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第87号3ページより。
デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第31号7ページより。