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19世紀初頭から現在に至るまで、アメリカ合衆国大統領に対する暗殺、暗殺未遂および企図は数多く発生している。この記事では現職大統領、元大統領、当選した次期大統領に対する暗殺や暗殺未遂事件を列挙しており、大統領に選出されていない人物に対する事件については記載しない。
1835年1月30日、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは暗殺を企図された最初の大統領となった。ジャクソンが下院議事堂で行われた葬儀から出てきたところを、リチャード・ローレンスが2回銃撃しようとした。拳銃は2回とも不発で、暗殺は失敗した[1]。
現職大統領としては、第16代エイブラハム・リンカーン、第20代ジェームズ・ガーフィールド、第25代ウィリアム・マッキンリー、第35代ジョン・F・ケネディの4人が殺害された。第40代ロナルド・レーガンは攻撃によって負傷し、生き残った唯一の例である。元大統領を含めると第26代セオドア・ルーズベルト、第45代ドナルド・トランプの2人も攻撃を受け負傷している[2]。
大統領が死亡・負傷したこれらすべての事件において、攻撃手段は銃器が使われた。実行犯が女性だった暗殺未遂事件は2件のみで、いずれも第38代大統領ジェラルド・フォードを狙ったものであった。
多くの暗殺計画は、成功したか如何にかかわらずアメリカ政府の政策を変えたいという個人的な願望をもつ男性によって行われた[3]。しかし、すべてに政治的な理由があるわけではなく、精神的に懸念が残り、法的に刑事責任を負えないと判断された暗殺者も数多くいる。歴史家のジェームズ・W・クラークは、ほとんどの暗殺未遂者は理性的であり、政治的な動機を持っていると示唆するが[3]、司法省は大多数が正気ではないと主張している[4]。一部の暗殺者、特に精神障害のある暗殺者は単独で行動したが、政治的な論議を追求し、矛盾を主張する者は共謀者の支援とともに計画を企て、実行している。彼らのほとんどは刑務所または精神病院において処刑または長期拘留され、処罰された。
暗殺された大統領の後継者となる副大統領は大統領の政党に所属しているため、大統領の死が大きな政策変更を余儀なくされることはほとんどなく、党派の対立があるときでも政治団体が連携して攻撃することは通常ない[5]。大統領に対する暴力による脅迫は、深刻な意図なしに社会的な動向を操作したり、襲撃することで注目を得たりするために行われることが多いが[6]、1917年以来連邦政府の重罪となっている[7]。
第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、1865年4月14日の聖金曜日午後10時15分頃、ワシントンD.C.のフォード劇場で銃によって暗殺された。暗殺者のジョン・ウィルクス・ブースは有名な俳優で、メリーランド州出身の南部同盟シンパであった。南部同盟軍には入隊しなかったものの、南部同盟のシークレットサービスに協力者がいたとされる[8]。1864年、ブースは南軍の捕虜解放と引き換えにリンカーンを誘拐する計画[注釈 1]を立てた後、1865年4月11日、リンカーンが黒人の投票権を推進する演説に出席した後、ブースは代わりに大統領を暗殺することを決意[10]。大統領がフォード劇場に出席することを知ったブースは、共犯者たちと劇場でリンカーンを、副大統領アンドリュー・ジョンソンと国務長官ウィリアム・H・スワードを自宅で暗殺する計画を練った。リンカーンはフォード劇場で上演された「Our American Cousin[注釈 2]」を鑑賞[11]。大統領がバルコニーの特別観覧席に座り、妻のメアリー、ゲストのヘンリー・ラスボーン少佐とその婚約者クララ・ハリスの2人とともに劇を観ていると、ブースが背後から侵入。ブースは44口径のデリンジャー・ピストルをリンカーンの後頭部に向けて発砲し、リンカーンは致命傷を負った。ラスボーンは一瞬ブースと格闘したが、ブースはラスボーンを刺して逃走した。意識不明のリンカーンは医師の診察を受け、向かいのピーターセン邸に運ばれた。8時間の昏睡状態の後、4月15日午前7時22分、リンカーンは息を引き取った[12]。
死の間際、リンカーンの呼吸が少なくなるにつれ、表情は穏やかになっていった[13]。翌朝、リンカーンは微笑むように亡くなったという記録が残っている[14][15][16][17][18]。歴史家で作家のリー・デービスは、死後の穏やかな表情を「この4年間で彼が初めて見せた穏やかな顔だ」と記した[19][14]。財務次官マウンセル・フィールドはニューヨーク・タイムズに宛てた手紙の中で、「苦しむ様子はなく、けいれんもせず、喉も鳴らさず、ただ呼吸が止まっているだけでした。こんなに穏やかで幸せそうな大統領の顔は見たことがありません」と述べている[20][16]。また、大統領秘書のジョン・ヘイは「息絶えた大統領の表情は、言葉で言い表せないほど安らかなものだった」と残している[21]。
ブースの大統領暗殺は成功したものの、スワード国務長官への襲撃は負傷させただけで終わり、ジョンソン副大統領への襲撃は実行されなかった。12日間の逃亡の末、ブースはワシントンから約70マイル (110 km)南のバージニア州の農場で北軍兵士に発見された。ブースは投降を拒否したため、北軍騎兵ボストン・コーベットによって射殺された。その後、4人の共犯者が暗殺に関与したとして絞首刑に処された。
第20代大統領ジェームズ・ガーフィールドは、就任から4か月も経たない1881年7月2日土曜日午前9時20分、ワシントンD.C.のボルチモア・アンド・ポトマック鉄道駅で襲撃された。ガーフィールドが駅に着くと、作家で弁護士のチャールズ・J・ギトーが.442ウェブリー弾を装填した回転式拳銃(ブリティッシュ・ブルドッグ・リボルバー)でガーフィールドを2発撃ち、1発は肩をかすめ、もう1発は背中に命中した[22]。ガーフィールドは銃撃の痛みと苦しみに耐え続けたが、9月19日午後10時35分に死亡した。銃弾がガーフィールドの体内に残っており、医師らが消毒していない指や器具で傷口を探っていたため、医原性感染症による合併症が死因となった。
ギトーはただちに逮捕された。同年11月14日から翌年1月25日まで続いた裁判は大々的に報道され、ギトーは死刑を宣告された。ギトーの上訴は棄却され、銃撃からほぼ1年後となる1882年6月30日にワシントンで絞首刑に処された。裁判や検死において、ギトーは精神異常か神経梅毒の影響を受けていたと診断された[23]。ギトーは、自身がフランス大使に任命されなかったことに失望してガーフィールドを撃ったと主張した。1880年の大統領選でギトーは共和党の応援演説を執筆しており、ガーフィールドの当選は自身の手柄だと思い込んでいた[24]。
第25代大統領ウィリアム・マッキンリーは、1901年9月6日金曜日午後4時7分、ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで銃撃を受けた。パンアメリカン博覧会に出席していたマッキンリーは、無政府主義者レオン・チョルゴッシュがハンカチの下に隠していた回転式拳銃(.32口径アイバージョンソンセーフティオートマチック)から発射された2発の銃弾を腹部に至近距離で受けた。1発目の弾丸はマッキンリーの上着のボタンか勲章で跳ね返って袖に突き刺さり、2発目は胃を貫通した。治療を受けたマッキンリーは回復していると思われたが、傷口の周囲に壊疽が起こって容態が悪化。9月14日午前2時15分に死亡した。
ジェームズ・ベンジャミン・パーカーをはじめとした群衆はチョルゴッシュの身柄を確保した。続いて第4旅団、州兵通信隊、警察なども加勢しチョルゴッシュに激しく暴行を加えた。このためチョルゴッシュは裁判まで生存できないのではと思われていた。9月24日、2日間にわたる裁判で自己弁護を拒否したチョルゴッシュは有罪となり、死刑が言い渡された。10月29日、オーバーン刑務所で電気椅子による死刑が執行された。チョルゴッシュの動機は政治的な理由であったが、犯行がどのような結果をもたらすと考えていたかは不明である。
マッキンリーの死後、連邦議会はシークレットサービスの任務に大統領の警護を追加した。
第35代大統領ジョン・F・ケネディの暗殺は、1963年11月22日金曜日午後0時30分、テキサス州ダラスのディーリー・プラザで行われたパレードの最中に起きた[25]。ケネディは妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリー、コナリーの妻ネリーとともに車に乗っていた。これを狙った元米海兵隊員でソ連への亡命歴がある[26]リー・ハーヴェイ・オズワルドは、テキサス教科書倉庫の6階からライフル銃(6.5×52mm弾カルカノM1938)を使用してケネディを射殺した。ケネディは背後から2発狙撃されて、1発目は喉を貫通、2発目は頭部に受けた[27]。また、乗り合わせたコナリーも重傷となったほか、現場に居合わせたジェームズ・ターグは銃弾が当たって砕けた縁石の小片で顔に軽傷を負った。車はそのままパークランド記念病院へ急行したが、ケネディは午後1時に死亡が確認された。オズワルドはダラス警察に逮捕され、ケネディ大統領暗殺とダラス警察J・D・ティピット巡査殺害の容疑で訴追された。ティピット巡査はケネディ暗殺事件の約1時間後にオーク・クリフ地区の住宅街でオズワルドに射殺されていた。11月24日日曜日、身柄が郡刑務所へ移送される途中のオズワルドは、ダラス警察本部の地下でナイトクラブオーナーのジャック・ルビーに射殺された。ルビーはオズワルドに対する殺人の罪で有罪判決を受けたが、 再審を待っていた1967年に獄死した。
1964年9月、ウォーレン委員会はケネディとティピットの両名がオズワルドによって殺害されたこと、オズワルドは2件の殺人事件で単独犯であったこと、ルビーはオズワルド殺人事件の単独犯であったことを結論づけた。しかしながら1966年から2004年にかけて実施された世論調査では、調査対象となったアメリカ人のうち最大で80%の人々が、ケネディ大統領暗殺には陰謀や隠蔽工作があったと疑っており、陰謀論は今日まで続いている[28][29]。
1981年3月30日、第40代大統領ロナルド・レーガンがワシントン・ヒルトンでの演説を終えて大統領専用車に乗りこもうとしたとき、テキサス工科大学生ジョン・ヒンクリーが回転式拳銃(レームRG14 .22LR、いわゆるサタデーナイトスペシャル)を用いて6発の銃弾を発射した。この襲撃でレーガンのほか、ホワイトハウス報道官のジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティム・マッカーシー、警察官のトーマス・デラハンティの計4人が負傷した。レーガンは専用車の側面で跳ね返った弾丸を左脇腹に受け、肋骨を骨折して肺に穴が開き、重度の内出血を負った。ジョージ・ワシントン大学病院へ搬送された時点で瀕死の状態だったが、容態が安定し緊急手術を受けた[30]。レーガンは無事回復し、4月11日に退院した[31]。ほかの3名も生還したが、ブレイディは脳の損傷により障害が残った[32]。
ヒンクリーはその場で逮捕された。取り調べでヒンクリーは、女優のジョディ・フォスターへの偏執的な愛情から、自分の存在をフォスターに気づいてもらおうと大統領暗殺を企てたと語った。ヒンクリーは精神異常で無罪となり、施設に収容された。暗殺未遂事件から35年後、レーガンが死去して12年後の2016年9月10日、ヒンクリーは精神病院から退院した[33][34]。
セオドア・ルーズベルト元大統領は、大統領を退任した3年後に進歩党から1912年の大統領選挙に出馬した。1912年10月14日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでの選挙活動中、数週間にわたってルーズベルトを追跡していたニューヨーク出身の酒場経営者ジョン・シュランクが、38口径のコルト・ポリス・ポジティブ・スペシャルでルーズベルトの胸を1発撃った。ルーズベルトの胸ポケットには50ページの演説原稿[注釈 3]が収められており、これに加えて金属製のメガネケースが弾丸の衝撃を吸収し、九死に一生を得た。シュランクの身柄はただちに確保された。ルーズベルトは群衆に自身の無事をアピールし、警察にはシュランクの身柄を保全するよう命じた[35][36]。
ルーズベルトは解剖学やハンターの知識から、血を吐いていないため弾丸が肺に達していないと判断し、ただちに病院へ行くよう勧められたが断り、シャツに血が滲んだまま予定通り84分間の演説を行った[37][38]。演説の冒頭では「お集まりの皆様、私が今撃たれたことにお気づきかどうか分かりませんが、ブル・ムース[注釈 4]を倒すにはそれ以上の力が必要なのです」と語った[39][40][41]。その後検査を受け、弾丸は胸筋で止まっていることが分かったが、医師は摘出するよりもそのままにしておく方が危険が少ないと判断した。このため、この弾丸は生涯にわたってルーズベルトの体内に残ったままであった[42]。2週間の療養ののち選挙活動に復帰したルーズベルトであったが、最終的に民主党のウッドロウ・ウィルソンに敗れた[43]。
シュランクは裁判にかけられ、「ウィリアム・マッキンリーが夢の中に現れ、ルーズベルトを殺すよう告げた」と主張した。シュランクは精神異常と判断され、1943年に死亡するまで施設に収容された[44]。
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銃撃直後の流血したトランプ元大統領が拳を振り上げる様子 この画像はフォトジャーナリストのエヴァン・ヴッチが事件発生直後に撮影した写真のうちの一枚であり、報道やSNSなどで拡散された[45][46]。 |
2024年7月13日、ペンシルベニア州バトラー近郊で行われた選挙集会で、2024年大統領選挙における共和党の有力候補者であるドナルド・トランプ元大統領が演説中に右耳を撃たれて負傷した[47]。トランプが演説を始めた直後、20歳のトーマス・マシュー・クルックスは演台から約400フィート (120 m)離れた屋上から、自動小銃AR-15を用いて8発の銃弾を発射した[48][49]。この銃撃で集会に参加していた聴衆1名が死亡し、2名が重傷を負った[48]。クルックスはその場でシークレットサービスの対襲撃部隊によって射殺された[50]。
一部始終を撮影していた映像には、トランプが右耳を手で押さえながらその場にしゃがみ込み、シークレットサービスのエージェントがトランプを直ちに取り囲む様子が記録されていた。エージェントに助け起こされたトランプは耳や顔に血を流しながら立ち上がり、拳を振り上げて「Fight(戦え)!」と叫んだように見えた[51][52][53]。AP通信のフォトジャーナリストであるエヴァン・ヴッチは、血まみれのトランプがアメリカ国旗を背景に拳を振り上げている写真を撮影した。この写真はソーシャルメディアで拡散され、事件を象徴する歴史的に重要な場面として広く賞賛された。トランプは病院で手当てを受け、その日のうちに退院した[54]。
1975年9月に立て続けに発生した2つの暗殺未遂事件は、実行犯がいずれも女性だった。アメリカ合衆国大統領暗殺を企てた既知の事案のうち、女性の実行犯はこの2件のみである。
1850年7月9日、第12代大統領ザカリー・テイラーはコレラと考えられる病気で死亡した。7月4日の独立記念日の祝賀会でサクランボと牛乳を食した後に発症したとされている[136][137]。テイラーの死後すぐに、これは奴隷制支持派の南部人による毒殺だという話が広まり、21世紀になっても噂されている[138]。1991年にテイラーの遺体から採取されたサンプルに中性子放射化分析が実施され、ヒ素濃度が低いことから毒殺説は否定された[139]。政治学者マイケル・パレンティは、テイラーの死に関する従来の説明に疑問を投げかけている。パレンティは法医学者へのインタビューや報告書に基づき、この分析手法には根本的な誤りがあったと主張している[140][141]。
1923年6月、第29代大統領ウォレン・ハーディングは、「理解の航海」と称する全国遊説へ出発した。この旅程でハーディングはアラスカを訪問した最初の大統領となった[142]。この頃ワシントンD.C.ではハーディング政権の腐敗の噂が広まり、内閣による違法行為の詳細が記されたメッセージを受け取ったハーディングは深い衝撃を受けた。7月末、アラスカからカナダ・ブリティッシュコロンビアを南下中のハーディングは、重度の食中毒と思われる症状に陥った。ワシントン州シアトルにあるワシントン大学スタジアム[注釈 5]で大勢の観衆を前にスピーチをしたのが、生涯最後の演説となった。オレゴン州ポートランドで予定されていた演説はキャンセルされ、列車は南のサンフランシスコへ向かった。パレスホテルに到着するとハーディングは肺炎を発症し、8月2日午後7時35分、ホテルの部屋で心筋梗塞か脳卒中により死亡した。当日、ニューヨーク・タイムズに掲載された公式発表では、「死因は脳卒中」とされた。ハーディングが体調を崩してからちょうど一週間の出来事だった[143]。
海軍医らはハーディングが心筋梗塞を起こしたと推測した一方、ハーディング夫妻の主治医でホメオパスの軍医チャールズ・ソーヤーは賛同しなかった。ハーディングの妻フローレンスは検死に拒否したため、ハーディングの不貞行為を理由としたフローレンスによる陰謀ではないかという憶測が広まった。アマチュア歴史家で口上手のガストン・ミーンズは自身の著書で、ハーディングの死を取り巻く状況から毒殺されたのではないかという疑惑が生じたと記している。個人的にも政治的にもハーディングと関係のあった多くの人々は、ミーンズの「ハーディングは弾劾間近だ」という主張によって面目を潰され、その死を歓迎しただろう。
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