栄山寺
奈良県五條市にある寺院 ウィキペディアから
奈良県五條市にある寺院 ウィキペディアから
栄山寺(えいさんじ、旧字体:榮山寺[1])は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。
現代の五條市にあたる地域は、古代では阿陀郷と呼ばれていた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
当寺は、藤原不比等の長男である武智麻呂によって、養老3年(719年)に創建されたと伝わっている。当初は寺名を前山寺(さきやまでら)としていたという[2]。
現存する八角堂は、武智麻呂の没後に子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝えられている。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる[3]。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
その後、寺名を栄山寺とし、また興福寺の末寺となり、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた[2]。南北朝時代には南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の行在所が置かれていたこともあり、栄山寺行宮跡として国の史跡に指定されている[2]。
当寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが、戦国時代末期には八角堂を除く堂坊が焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
当寺は江戸時代初期に一時無住寺となるが、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となった。次いで護国寺(東京都文京区)の末寺となっている。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。
下記3件の古文書(各重要文化財)は、太平洋戦争後に文化庁買上げとなり、現在は国立歴史民俗博物館の所蔵となっている。いずれも寺の歴史を知る上で重要な史料である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.