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日本の和歌山県にある島 ウィキペディアから
紀伊大島(きいおおしま)は和歌山県東牟婁郡串本町の沖合い約1.8 kmの海上に浮かぶ島である。本項ではかつて紀伊大島を村域とした大島村(おおしまむら)についても記述する。
面積はおよそ9.68 km2であり[1]、周囲28km[1]、和歌山県下の島としては最大となる。元来より大島と通称されているほか、串本大島とも呼ばれる。
人口はおよそ1,000人で、和歌山県で唯一の離島振興対策実施地域ともなっていた。台風銀座でもあり、1890年(明治23年)には台風を原因とするエルトゥールル号遭難事件が当島の沖で発生した。
紀伊大島は潮岬と苗我島を隔てて東側に浮かんでおり、元来本州であったところからは最短でおよそ1.8 km、潮岬からは1kmほどしか離れていない。海岸線は島の西側の一部を除いて海食崖の発達が顕著に見られ、島の東端には樫野埼が大きく突き出しており、その附近には暗礁が散在している。海岸線は入り組んでおり、黒潮が潮岬にぶつかりその一部が本島にまで流れ込んでくることもあって魚が多く取れ、島内には農業への依存度の高い半農半漁の集落が点在している。島には耕地は100haほどあるが、そのうち60%ほどが畑である。
北部では地面の侵食が進んでいるが、南部には平坦な土地が残っており、樫野(かしの)・峰地(みねじ)・須江(すえ)の集落もある。面積は9.68 km2、周囲が28km、東西およそ8km、南北およそ2.5 kmである。
紀伊大島では古くから太地や串本からの漁師が入漁を行っていた。島の中心となる大島港は江戸時代から江戸から大坂にいたる航路における風待や避難のための港として廻船が多く寄港し、また漁港としても栄えていた。捕鯨も古くから行われており、捕鯨が盛んであった頃は、大島港に日本水産の捕鯨基地が置かれるような繁栄も見せていた。
1869年4月、リチャード・ブラントンの指揮、アーチバルド・ブランデルとコリン・アレクサンダー・マクヴェインの監督で樫野埼と半島側の潮岬で灯台建設が始まり、マクヴェインは簡単な滞在記を著している。また、同年10月にはイギリス海軍測量船『シルヴィア号』が帰港し、測量師ジェームス・バットが美しい水彩画を残している。
串本節にも歌われた、串本と大島を結ぶ巡航船は、潮岬から苗我島を経て紀伊大島に至るくしもと大橋が1999年(平成11年)9月8日に完成したことで、串本フェリーとともに廃止となり、現在は観光のための船となっている。
紀伊大島は同じ串本町内の潮岬や橋杭岩などあわせて吉野熊野国立公園の一部となっている。海産物が多く海も美しいのでつりやスキューバダイビングを目的に紀伊大島を訪れる観光客も多い。
くしもと大橋
蓮生寺(れんしょうじ)
水門神社(みなとじんじゃ)
樫野埼(かしのざき)
海金剛(うみこんごう)
その他
トルコ軍艦遭難者墓地 - 県指定史跡(1959年〈昭和34年〉1月8日指定)[5]
大島水門祭(みなとまつり) - 県指定無形民俗文化財(1972年〈昭和47年〉4月13 日指定)[6]
島には以下の学校がある。
本州とつながる潮岬からくしもと大橋が延びている。公共交通機関は、くしもと町立病院 - 串本駅 - 樫野灯台口間に串本町コミュニティバスが1日6往復運行されている。串本の駅前にはこの紀伊大島にある大島タクシーの車が待っていることが多い。
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