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萩原 延壽(はぎはら のぶとし、1926年(大正15年)3月7日 - 2001年(平成13年)10月24日)は、日本の歴史家・作家。1976年から1990年まで、休載を挟みつつ1,947回にわたり朝日新聞に連載した『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)の著者で知られる。姓の萩原は「はぎはら」と読むのが正しい[1]が、間違って「はぎわら」と読まれることがある[2]。名の「延壽」は「延寿」と表記されることがある。
萩原 延壽 (はぎはら のぶとし) | |
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1983年9月、毎日新聞社 | |
ペンネーム |
萩原 延寿 (はぎわら のぶとし) |
誕生 |
1926年3月7日 日本・東京市台東区浅草 |
死没 |
2001年10月24日(75歳没) 日本・栃木県宇都宮市 |
墓地 | 小平霊園 |
職業 | 歴史家、作家 |
国籍 | 日本国 |
教育 |
旧制三高 (現・京都大学総合人間学部) 東京大学大学院修了 |
最終学歴 | ペンシルベニア大学・オックスフォード大学 |
活動期間 | 1963年 - 2001年 |
ジャンル | 日本史、日本近代史 |
主題 | 馬場辰猪、東郷茂徳、陸奥宗光、アーネスト・サトウ |
代表作 | 『遠い崖』(1980年、1998年-2001年) |
主な受賞歴 |
吉野作造賞(1967年) 吉田茂賞(1985年) 大佛次郎賞(2001年) |
東京・台東区浅草(現在の隅田公園周辺)出身[3]。父宮治、母タケヨ(旧姓茂木)は共に群馬県群馬郡の人、父は8年間の兵役を退き、母は小学校教員の勤務を終え、1925年に結婚。1927年に東京府豊多摩郡淀橋町柏木(現在の新宿区西新宿成子坂周辺)に転居。
1932年、豊玉尋常小学校入学。34年、野方西尋常小学校に転校し38年に卒業。1944年4月、第三高等学校理科甲類(現・京都大学総合人間学部)入学[3]。
1945年春、大阪桜島の住友伸銅所に勤労動員され、7月下旬の大阪大空襲で工場は被弾壊滅したが、退避により三高生は全員無事であった。京都に戻り8月15日の終戦を迎える(「要するに助かったという気持ちです。しかし、解放感と呼べるようなこみ上げるよろこび、ふるい立つ感情、そういうものはなかった。ホッとしたと同時に途方に暮れたというのが、正直なところです」「始まりあれば終りあり」)。
同年、文科乙類に転科し[3]、旧制三高(廃止後は京都大学教養学部)卒業後、東京都練馬区立開進第一中学校教員を務める。1948年に東京大学法学部政治学科入学[3]。中学校正教員兼大学生という立場は、翌年3月の教員退職によって終わるが[3]、その後も断続的に同校の専任講師をつとめた。大学時代の三年間と、それにつづく大学院時代の大半は、練馬の新制中学の専任教師として勤務したことから、毎週一日の所謂「研究日」をのぞき、大学のある本郷に出てくる余裕はなく、講義にはほとんど出ず、ゼミにも参加したことがなかった[4]。
卒業後は大学院に進学し[3]、岡義武に師事[3]。陸奥宗光を研究対象に選び、国立国会図書館憲政資料室、東京大学法学部附属「明治新聞雑誌文庫」で資料に当る。大学院修了後は国立国会図書館調査立法考査局政治部外務課に勤務した[3]。
1957年、フルブライト奨学金を得てペンシルベニア大学に留学し[3]、翌年も新たな奨学金を得てオックスフォード大学に留学[3]。京極純一が留学同窓であった。英国留学中に丸山眞男の知遇を得る。1959年夏、サトウ文書に出会う[3]。その時のことについて「或る日、パブリック・レコード・オフィスの係りのひとが、サトウ文書をというおもしろい資料があるが、のぞいてみないか、まだあまり使われていないようだが、といって、その目録を渡してくれた」(サトウ雑感、2001年)と遺している。
1962年に帰国すると[3]、1966年『中央公論』を皮切りに論壇で活躍[3]。各大学からの教員職を断り、在野の歴史家として著述活動に専念する生涯を通した。史料を調べるため、関西方面にも度々出向いた。連載執筆時は大半は時間が限られており、いつも旅程に余裕がなく、時には東京・京都間の夜行高速バスを利用することもあった。京都祇園の小さな店が静かで良いと、しばしば足を向けた。
度々の英国滞在時に、国立公文書館に保管されている英国外交官アーネスト・サトウの1861年から1926年までの45冊の日記帳を調べ上げ[5]、サトウの幕末期から明治初期までの活動を描いた大作『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)を、1976年10月12日から朝日新聞に休載をはさみつつ約14年間連載[3]。2001年(平成13年)10月4日に『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』最終巻が刊行された[3]。同年10月24日に逝去、享年75歳。息をひきとる数日前にノートの裏表紙に「あきらめず」とサインペンで書いた。なお、同年夏に執筆生活を支え続けた夫人に先立たれており、後を追うように生涯を終えた。墓所は小平霊園にある。
関連資料と洋書は、遺族により横浜開港資料館に寄贈され、「萩原文庫」として公開されている[3]。
「歴史の面白さは、そのプロセス(過程・経緯)にある」と捉え、そのプロセスをいかに正確にわかり易く伝えるかに心をくだき、史料の扱いに対し厳しい考え方をもっていた。いたずらに想像を加えて歴史を創作することは、歴史家としての自負が許さなかった。膨大なアーカイヴズの森に分け入って、こつこつとそれを読み解くことにより、おのずからうかびあがる歴史の真情と人物の実像をひたすら探求した。史料を超え想像力が翔んでゆく小説作家とは、一線を画す歴史家の本領があった。
自身も著書『書書周游』で、石川淳の文学方法論に関連して、歴史ということばと、小説ということばの間に吹く隙間風について述べている。またありきたりともいえる史料をもとに作者の恣意な解釈をまじえる、いわゆる歴史小説が陥りやすい著述を警告すると共に、史料の中に没頭して精神を見失うことのないよう自らを戒めている。こうしたストイックともいえる執筆態度と、節度を保ちつつ歴史と人物を活写する文章が高い評価を受けている[4]。
同じ誕生日でもある作家石川淳を師に、安部公房を兄として敬愛していた。数学者森毅とは三高時代の同級生で親交が深かった。年下の友人高坂正堯と、晩年の吉田茂にインタビューを行っており、その時の編集担当が粕谷一希であった。また親交があった司馬遼太郎とも度々対談を行っている。
森毅は弔辞で、萩原の友人として「ぼくが三高に入ったときは理一甲六で萩原は甲四。2年の工場動員は同じ部屋ではあったが、所属がぼくは研究班で彼は企画班。東大でも、ぼくは理学部で彼は法学部。同じ家で暮したというより、一軒おいて隣りにいて、ときたま遊んだ男の子、といった間あい。戦後については、寮祭のデコレーションで部屋を茶室に改造して、萩原を客に茶の湯の会をした記憶がある。それから20年あまりは、活字で見かけることはあっても直接に会ったことはなかったが、雑誌で山口和男と対談したのを読んだ萩原から、「寮でおしゃべりしている気分」といった手紙をもらったように思う。以来、新刊を交換するようになって、ときたま会うようになった。アーネスト・サトウについて、『遠い崖』を連載していたのだが、新聞で読むのは気が入らぬ。最初の一巻だけ本になって、まとめて読むとなかなかなので、「早く本にしろ」と言ったが、彼の場合は原稿を書くより本にまとめるほうに時間がかかる。十年ほど前には、ぼくは朝日新聞の書評委員をしていて、鶴見俊輔さんといっしょに、山の上ホテルに泊まることにしていた。萩原も東京で仕事のあるときは、ここが定宿らしく、たしか二度か三度、泊りあわせたおりは三人でロビーで深夜までおしゃべりをした。最後にゆっくり話したのは、京都駅前のホテルだっただろうか。その後はホテル・オークラのティー・ルームで見かけたが、先方は仕事の打ちあわせらしくて、ゆっくり話せなかった。あとで考えると、たぶん『遠い崖』の出版の打ち合わせだったのだろう。やがて、『遠い崖』が送られてくるのを待つようになった。遠い時代の遠い人、サトウは萩原とずいぶん違うのに、そこがかえって面白い。やっとそれがまとまって、そうした感想を彼に話そうと思っていたら訃報。まるで『遠い崖』の完成が彼の死で締めくくられたみたい。」と振り返った[4]。
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