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藤原 乙叡(ふじわら の たかとし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家、右大臣・藤原継縄の次男。官位は従三位・中納言。
内舎人・兵部少丞を経て、延暦3年(784年)従五位下・侍従に叙任される。延暦4年(785年)権少納言に任ぜられると、延暦5年(786年)正五位下・少納言に叙任されるなど、藤原南家の嫡流であったことに加え、母・百済王明信が桓武天皇の寵姫となったために、延暦年間前半は桓武天皇の身近に仕え急速に昇進する。
のち、中衛少将・兵部大輔・右兵衛督といった武官を歴任し、延暦10年(791年)従四位下に叙せられる。延暦12年(793年)左京大夫に遷り、翌延暦13年(794年)平安京への遷都が行われると34歳にして参議に任ぜられ、父・継縄と共に親子で公卿に列した。またこの頃、桓武天皇が乙叡の邸宅に行幸を行っている[1]。
桓武朝後半も、右衛士督・中衛大将・兵部卿など主に武官を兼帯する一方、延暦16年(797年)従四位上、延暦18年(799年)正四位下、延暦19年(800年)従三位と昇叙を重ねる。延暦22年(803年)権中納言に任ぜられた。
延暦25年(806年)平城天皇の践祚後まもなく中納言に昇進する。しかし、翌大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して解官された。これは、天皇が皇太子であった頃の宴席で、乙叡は近くに座り酒を吐くという無礼を働いたことがあり、天皇がこれを恨んでいたことが原因とされる。乙叡は赦されて自邸に戻ったのち自らの罪がないことを知り、これを憂いたまま没したという[2]。大同3年(808年)6月3日薨去。享年48。最終官位は散位従三位。
性格は頑なで驕り高ぶるところがあった。また妾を好み、山水の妙地に多数の別荘を建て、女性を伴って連夜宿泊することもあったという[2]。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
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