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平安時代後期の廷臣、能書家。藤原定実の長男。世尊寺家5代。従四位下、宮内権大輔。子に藤原定行(伊成)、信覚(延暦寺)、増意(興福寺、已講) ウィキペディアから
藤原 定信(ふじわら の さだのぶ)は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。
元永2年(1119年)32歳の時、父定実が出家すると、能書として様々な書役を務めた。天治元年(1124年)摂政の上表文を、大治4年(1129年)に法勝寺千僧御読経の願文や、太政大臣の上表を書いた。康治元年(1142年)には大嘗会屏風の筆者となるなど、多くの墨跡を今日に伝えている。
大治4年から仁平元年(1151年)の23年間をかけて、一切経全5048巻を独力で書写した[2]。書写を終えた後、春日大社でこれを供養し、多武峰で出家、法名を生光とした。この一筆一切経の偉業を成し遂げたのは、日本の歴史上定信と宗像大社の色定法師の二人だけである。『本朝世紀』によると、院宮諸家がその偉業を讃え、たくさんの贈り物をしたという[3]。翌年、定信が左大臣藤原頼長の家を訪ねた際、頼長は手を洗い、口をすすぎ、衣装を整え、まず定信に礼拝してから談話したという。しかし、奉納した春日大社で起きた火災で全て焼失してしまい、現存しない。
鑑識にも長じており、保延6年(1140年)10月22日、小野道風書の『屏風土代』(三の丸尚蔵館蔵)と藤原行成書の『白楽天詩巻(高松宮家本)』(東京国立博物館蔵)を入手し、『屏風土代』は延長6年(928年)11月、道風35歳の書であること、『白楽天詩巻』は寛仁2年8月21日、行成47歳の書であることを鑑定し、それぞれの奥書きに記している。今日、道風や行成の書風が分かるのは、この定信の鑑定によるところが大きい。
書風は祖父・藤原伊房の影響が強いことが、当時から『今鏡』で指摘されており[4]、代表作の「金沢本万葉集」も伊房筆「藍紙本万葉集」の書風に似ている。しかし、定信の方が一筆一切経の経験からか、運筆が早く軽快で緩急抑揚の変化が大きい。強い右肩上がりの書風で、「定信様」と呼ばれた。定信は西行と和歌の贈答をしたことが『山家集』に見えはするものの、歌人ではなかった。そのため、定信は当時一流の能書家でありながら、古筆の筆者としては尊重されず、多くは藤原公任の書跡とされて伝来している。
など。
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