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日本の漫才師(1951-) ウィキペディアから
西川 のりお(にしかわ のりお、1951年〈昭和26年〉5月12日[1] - )は、日本の漫才師である。本名は北村 紀夫(きたむら のりお)。吉本興業所属。茨城県坂東市のねぎ大使でもある。愛称は「のりやん」「笑いの暴走機関車」。奈良県吉野郡川上村生まれ、大阪府大阪市都島区育ち。血液型はA型。
大阪市立桜宮中学校、大阪工業大学高等学校(現在の常翔学園高等学校)機械工学科卒業。高校時代は応援団員として活動し、大きな独特のダミ声はその時から磨いていた。
高校卒業前に西川きよしに入門した。入門の契機はきよしと喋ってもらえるという理由であった。ある日同級生と株主優待券を使って花月劇場に横山やすし・西川きよしを見に行った際に面白半分で野次を飛ばしたところ、きよしから「なんや君!後で楽屋に来い」と言われ、扱われたと思っていい気になっていた。舞台の後に出待ちで待っていた際に、のりおに気づいたきよしは本気で野次を飛ばすなと怒りながら注意しているのに対し、のりお本人は自分を意識していると勘違いして意気揚々になっていた。これがきよしとの出会いとなる。その後もきよしの楽屋をしばしば訪れ、きよしに呆れられながらも顔を覚えられた。このアマチュア時代のきよしとのりおの関係は、どちらかといえば半ば友達か腐れ縁の様な付き合いで、きよしに何度も反逆して手のかかる弟子だったと、のりおは回顧している。一方、本格的に弟子入りした後は、非常に厳しい内弟子修行を行っている(後述)。
こうしたアマチュア時代から毎日放送ラジオ「ヤングタウン」のオーディションを受け、頭角を現していた。
きよしの内弟子となり、同級生と「淀公一(のりお)・公二」という名の漫才コンビを結成し、ケーエープロダクション所属の漫才コンビとして梅田トップホットシアターでデビューした。その後相方の脱退で1970年11月、「横中バック・ケース」を結成し、横中バックとして売れない下積み時代を過ごす(名前の由来は横山エンタツ・花菱アチャコの<横>、中田ダイマル・ラケットの<中>を足して屋号にした)。その後、再度淀公一として北京二とコンビを結成した。また礼儀作法に厳しい師匠のきよしに嫌気が差し、「もうやめさせてもらいますわ。」と言ってしまう。きよしからは「ほな帰れ!!」と言われ、「帰りますわ!」と反抗し、実家に逃げ込んだことがある。のりおは自身の両親に、弟子修行を辞めた事に対して休暇を与えてくれたと言って嘘をついていた。1年ほどきよしのもとを離れていたある日、きよしから自宅に電話がかかり、のりおの両親が挨拶と同時になんば花月で出番だったきよしに土下座をして謝罪しに行ったという事で、のりお自身は許されていなかったが、後に許されるようになり、弟子として再び戻ることになった。この事は自身の両親が亡くなってから判明したとの事。その後も何度も破門になりながらも弟子修行を続け、程なくして「西川」という屋号を与えられた。
横中バック・ケース時代の破天荒な高座は伝説となっており、初代B&Bの団順一(放送作家の萩原芳樹)や太平サブロー・シローらは、「それは凄い芸やった」と回想している。出だしに自作のアカペラソング「漫才は楽しいな」を披露した。本筋では相方のケースを舞台から放り投げたり、緞帳にぶら下がってはそれを引きずり下ろす。また、センターマイクにかじり付いてフードを噛み破り、「そんなことしたら感電するで」とたしなめる相方に対して「俺はもうしびれてるんじゃ!」と叫びやり返す。クイズネタでは無茶苦茶な質問を相方にふっかけた後、困惑した相方が「なんの関係があるんや」と返答すると、「その答えを待ってたんや!」と相方の両頬に往復ビンタをぶちかますなどして、新開地にあった神戸松竹座や、新世界の新花月の劇場関係者を困らせていた。しかも、観客の受けは悪く、舞台袖から観ている芸人仲間達の方が楽しんでいた。
1975年1月、元B&Bの上方よしお(当時の芸名は上方真一)と「西川のりお・上方よしお」を結成。やす・きよ、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介らとともに1980年代前半の漫才ブームの地位を築いた。松本竜介(晩年は竜助)の「竜介」という芸名は自分(のりお)が考えたと2006年4月2日の竜助の通夜の席で話している。
その後『オレたちひょうきん族』にレギュラー出演し、ぼんちおさむと共に独特の暴走キャラでひょうきん族になくてはならない存在となる。主に「ツッタカ坊や」「つくつくほーし」「西川のりおとフラワーダンシングチーム(コント赤信号とヒップアップのメンバーと共に。後に彼らによるオリジナルソングまで作られた(フラワールームより愛を込めて))」「オバQ(テレビゲームのりおとにらめっこ)」、「天下御免の向う傷、ポンっ!(旗本退屈男)」などが代表的なギャグ。ひょうきんベストテン(ザ・ベストテンのパロディ)では沢田研二役を演じることが多かった。
2004年6月27日に全国有数のねぎの産地でもある茨城県岩井市(現在の坂東市)からねぎ大使に任命される。
2005年1月24日、吉本の後輩で新聞詠み(しんもんよみ)河内音頭家元の河内家菊水丸と共に、東京・渋谷のNHK放送センター前の路上でゲリラライブを行い、海老沢勝二NHK会長(当時)を痛烈に批判する『怒りの河内音頭』を披露した。
2015年5月16日、税金の無駄遣いを解消する大阪都構想に対して「今、大阪府で5.3兆円、大阪市で2.9兆円、計8兆円以上の借金を抱えています。普通の会社だったらとっくに倒産してますよ。その原因である“二重行政”をなくせば、税金の無駄遣いが減るのは明らか。変えなければ今のまま。借金は増えつづけ、府民税、市民税がさらに上がる。そんなんいいわけないでしょ?」「橋下さんが主張しているように、大阪府と大阪市の二重行政がこのまま続けば、大阪は間違いなく衰退していきます」と主張した。また、大阪維新の会の橋下徹に対して「都構想が決まれば、大阪市解体まで市長をやり、その後“大阪都知事”を3期ぐらいはやらんとダメ。」という希望を述べた[2]。
若い頃は場の空気をうまく読めずに自滅してしまうことが多く、芸人仲間やファンを泣かせた。横山やすしがそうであったように、芸人としてのキャラクターがそのまま本人の性格と誤解されがちだが、ラジオレギュラー番組『MBSヤングタウン』の相談コーナー(「のりおの人生大船任せなさい!」)などではテレビとは異なる人柄を見せ、ある日リスナーから死にたいという電話に心配し、親切にそのリスナーの自宅まで訪問し、自殺を思いとどまるように説得し慰めていた。
『オレたちひょうきん族』では彼のキレ芸がエスカレートし過ぎて、収録中にしばしば股間を出していたが、番組放送当時の『フライデー』にその写真が掲載されて、以降はそのような行為を控えるようになった。『EXテレビ大阪』の企画『弟子志願公開審査』でも、いつもののりおと違い非常に厳しい眼で志願者に辛口のコメントを贈っている(「僕に就いたところでね、教えられることはそないあらへんで」)ことにも、説得力はあるとされる。弟子に厳しいのりおもまた、西川きよしの厳しい修行を乗り越えて一人前になった人物である。
きよしの参議院議員引退の際、「政治を勉強した上で、ゆくゆくは後継者になりたい」と参院選出馬への意欲をスポーツ新聞[要文献特定詳細情報]で語ったことがある。雑誌「アサヒ芸能」で政治コラム「西川のりおの橋下維新ウォッチング」を連載したこともある。
アニメ『じゃりン子チエ』では、一貫して主人公の一人である竹本テツ役を演じている。のりおはテツ役を、自身のライフワークであり、監督の高畑勲が死去した際には『人生ナンバーワンの当たり役」としている[3]他、同作品が終了した1997年には「大阪の寅さんのような作品だった」と述べている。アフレコでは高畑からの度重なるダメ出しでリテイクを出すことが多かった[4]ためにチエ役の中山千夏から『なんでこんな簡単なんができひんねん!』とつっこまれるなど、まるでリアルなテツとチエのやりとりもあったという[5]。
2人とも付き人として修業をし、芸を磨いた。
映画
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