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小堺一機

日本のお笑いタレント (1956-) ウィキペディアから

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小堺 一機(こさかい かずき、1956年昭和31年)1月3日[1][2] - )は、日本お笑いタレントコメディアン司会者俳優。愛称は、ムックン。

概要 小堺(こさかい) 一機(かずき), 本名 ...

千葉県市川市出身[1]浅井企画所属。

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略歴

要約
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文京区立関口台町小学校[3]新宿区立牛込第二中学校[4]東京都立市ヶ谷商業高等学校、一浪して[5]研数学館を経て、専修大学に合格した[6]。小学校時代の同級生にギタリスト土方隆行がいる。

芸能界入り

専修大学在学中の1977年(昭和52年)、テレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の「素人コメディアン道場」で第17代チャンピオンとなり、芸能界入りした[7]。大学卒業後、勝新太郎が主宰する「勝アカデミー」に第1期生として入校し、翌年卒業した[7]。勝アカデミーでは岸田森らに師事し、同期生にはルー大柴がいた。以後は講師陣から演技指導を受けながら、『紅白歌のベストテン』(日本テレビ系)の前説や1979年の『見知らぬ恋人』(朝日放送)に端役としてドラマ初出演するなどした[注釈 1]

芸能界でなかなか芽が出なかったが、父との約束である3年になる前に何とか浅井企画と契約し、本格的な芸能活動を始めた[5]。また、『ぎんざNOW!』初代チャンピオンであり、浅井企画の先輩で長年の親友でもある関根勤(旧:ラビット関根)とコンビ「コサキン」(当初は『コサラビ』)を組み、下北沢のライブハウスの舞台に立ちコント修行を積んだ。その一方、『ザ・トップテン』(日本テレビ)の中継リポーター[注釈 2]として出演したのに続き、萩本欽一の看板番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日)で関根と組んだ「クロ子とグレ子」で人気を獲得[5]。1981年、関根と共にTBSラジオ夜はともだち コサラビ絶好調!』のパーソナリティを務めた[7]。その後この『コサキン』シリーズは、放送時間や番組名を変えながらも継続され、深夜番組としては驚異的ともいえる2009年3月まで27年半続いた長寿番組となった。

「お昼の顔」

上記の活躍が認められ、28歳の若さで1984年(昭和59年)10月1日にフジテレビのテレビ番組『ライオンのいただきます』(1989年10月からは『ライオンのいただきますII』として放送)の司会に抜擢。その後、後継番組として1991年(平成3年)1月7日から『ライオンのごきげんよう』が開始、以来お昼の顔となっていた[7]。1984年の『いただきます』から『ごきげんよう』(2016年3月31日放送終了)まで、計32年間に渡って放送された[5]

1980年代から90年代にかけては、俳優としてもテレビドラマ出演を多くこなした。『いただきます』『ごきげんよう』で司会者のイメージを確立しているが、原点となるものまね芸も続けており、『コサキン』シリーズで新ネタを卸し続けたほか、2010年代以降も『とんねるずのみなさんのおかげでした』で若手芸人に混じってものまねを披露することもあった。

1985年(昭和60年)には、自らが主演を務める舞台『小堺クンのおすましでSHOW』を開始。2017年(平成29年)に終了するまで30年以上続く公演となり、コメディアンとしての才能も磨かれた[7]

がん手術・休業

2004年(平成16年)7月、首の腫瘤の摘出手術のためにレギュラー番組を一時降板した。摘出の結果一部に癌化した細胞が検出され、後に自身がに罹患していることを公表した[8]。テレビ番組には同年8月30日の『ごきげんよう』の生放送で復帰したが、その際には、髪を白く染めるという意表をついた登場で注目を集めた。それ以後は金色の頭髪がトレードマークとなっていたが、現在は白髪であると本人が語っている。なお、従前より「髪の毛の後退」は小堺自身のネタであった。癌になったことをきっかけに禁煙した。

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来歴

要約
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生い立ち

父・秀男と母・淑子の間に生まれ[9]、幼少時代を市川市真間で過ごした。その後、寿司職人であった父の職場移動に伴い、小学2年生の時に東京浅草に移り、そこで少年時代を過ごす[10][7]。両親からは「悪いことは悪い」と徹底して叩き込むという教育方針で、愛情を持って厳しく育てられた[注釈 3]。落ち着きがない子供だったが、親に連れられて映画館に行く時は大人しくなって夢中で映画を鑑賞した[5]。寿司職人だった父は浅草でおにぎり屋を営み、放課後は父の商売の邪魔にならないよう近くの映画館に入り浸るようになった[5]。ここで映画への興味を深め、またストリップ劇場など大人の世界にも触れた。

小学4年生の時に文京区目白台豊島区目白とする説もある[5])、小学5年生の時に新宿区早稲田鶴巻町に転居[6]。それまでの映画鑑賞で観察力が養われたことからモノマネが得意となり、転校先の教師や同級生の真似で周りを笑わせてクラスの人気者となった[5]。学校の映画鑑賞の授業で、ウィーン少年合唱団を舞台にした映画『青きドナウ』を見たことがきっかけで、NHK児童合唱団に入団[5]

小学6年生の時に東京放送児童合唱団(現・NHK東京児童合唱団。14期とされる)から選抜され、NHK総合の新番組『歌はともだち』にレギュラー出演[5]塩屋浩三、長谷川よしみ(長谷川コッペ)、山尾百合子、山田隆夫らとグループを組んでの出演だった。華やかな世界への興味を抱くようになったが、約1年経った頃に[5]番組の企画変更に伴いグループは解散。しかし数週間後に小堺一機が番組を観ると、小堺以外のメンバーは全員出演していたため、自分だけが降板させられたことを知る[11][注釈 4]

学生時代

幼少の頃はデザイナーになることに憧れており、東京都立工芸高等学校への進学を志望していたが、小学校の健康診断で赤緑色弱と診断されたために断念せざるを得なかったという[12][注釈 5]

高校3年生の頃、当初無試験で入れる専門学校への進学を考えていたが、父の助言を受けて急遽大学に進路変更して遅まきながら受験勉強をすることになり、一浪して大学に進学[5]

その後大学3年生の時に再会した先述の山尾百合子からTBSテレビの『ぎんざNOW!』への挑戦を勧められる[5]。その場では固辞するが山尾が勝手に出場希望のハガキを出したため、オーディションに参加することとなった[13][10]。このオーディションに参加することを決めた大きなきっかけは、高校2年から大学2年まで5年間ずっと好きだった女性にフラれて大失恋したことだった[6]

そしてこれに3週勝ち抜いた時に、父から「お前はいつも中途半端で、物事を一所懸命やらない」「何でもチャランポランだからこうなんだ」と前述『歌はともだち』を降板させられた時に言われたことを思い出し、「これ(芸能界)は俺がすごく好きなことだと思った」として「そして今一所懸命やらないと、酒の席で酔った時に同じ話を繰り返す大人になるだけだ」と思い直したという[6]

『ぎんざNOW!』のオーディション出場後、芸能界に入ると父に打ち明けたところ「テレビなんてのはティッシュペーパーと一緒で捨てられるぞ」と言われた。しかし、「じゃあ、ハンカチになればいいでしょう、そしたら洗ってくれるから」と返し、芸能界は3年経ってもダメなら声もかからないだろうと思って「まず3年だけやらせて下さい」と願い出て、勝アカデミーに行くことになる[14]

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人物

幼少時代に、NHK専属の「東京放送児童合唱団」に所属し、同局の公開番組『歌はともだち』等にも出演。タレントになった後も、レコード・CDも数枚リリースするほか、ドラマ舞台ミュージカル・CM等、幅広く活動している。萩本欽一曰く、「小堺は『お笑い芸人』というより『エンターテイナー』」。タップダンスも得意である。また、デビューのきっかけとなったモノマネ芸(萩本欽一・田中邦衛田村正和など)でも知られている。

人物評は「人畜無害」「お昼の顔」「当たり障りの無い司会者」「サイコロの達人」。ただし、「人畜無害」「当たり障りの無い」というのは「テレビでの顔」であり、実は自身の舞台公演やコサキンでのラジオ番組では毒舌コメントや辛辣なコメントをしている。テレビではいわゆる・人畜無害キャラの小堺だが、それは本人曰く「氷山の一角に過ぎない」とのこと。テレビとは一転して毒舌な「ブラック・コサカイ」というキャラクターを見せることもある[15]

エネルギッシュな性格で、司会番組『ライオンのごきげんよう』や出演CMなどでも常にテンションが高い。自身の担当するラジオ番組『コサキンDEワァオ!』では「120%のパワー全開」とネタにされ、清水ミチコには「出たばっかりの若手芸人じゃないんだから」とたしなめられている。本人は「あれでも抑えているつもり」と発言している[16]

先述の通り若い頃に色覚異常が発覚して強いショックを受けたが、父から「いいなあ、お前は人と違う世界が見られて」と言われ、それが自分の「特性」であると気づいたという[17]

30代に入ると頭髪が徐々に薄くなり、当時、本人が「前頭部後退」として頻繁に自虐ネタにしていた。現在でも「『危機一髪』を後ろから読むと『一機ない』や『一機うし』となる」などとネタにしている。またこの薄い頭髪と丸顔は、しばしば共演者からもイジられる。『ごきげんよう』に2代目林家三平泰葉がゲストで来た時には、泰葉が「金髪豚野郎」と呼称した春風亭小朝に似ていると評された。明石家さんまからは「死にかけのマリモ」「草むらのテニスボール」とあだ名されたこともある。

家族

妻と長男・長女・次女の5人暮らし。長男の小堺翔太[5]はフリーアナウンサー(タイムリーオフィス所属)で、2006年(平成18年)からエフエム世田谷で大学生制作の番組のDJを務めていた。

父の小堺秀男は寿司職人であり、第9次と第15次の南極地域観測隊に同行する給仕係の面接を受けて合格した、民間人としては初の南極越冬隊員[5][注釈 6]。第9次の時に父は一躍時の人となり、その息子ということで小堺もNHKの特番のインタビューを受けており、これが自身初のテレビ出演となった[注釈 7]

その後1997年(平成9年)にはテレビ番組の企画で親子で南極を訪れている[18][5]。一機は父の縁で『南極観測の将来を考える会』の発起人を務めている。なお、会の代表である村山雅美[注釈 8]は、小堺の仲人である。父は以前「鮨一機(すし かずき)」という名の寿司店を経営していたが引退。弟子が店を引き継いでいるが店名は変更された。

5歳下の妹がいる[9][6]

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趣味・嗜好

子供の頃から映画好き[5]で、同じ事務所のお笑いコンビ「ずん」のやすによると、「2019年に映画『ジョーカー』が封切りになった頃、小堺さんは映画館で短期間で10回も見て、マネジャーから『いい加減にしてください』って止められたそうです。また、酒を飲みながら『ゴットファーザー』などの好きな映画作品を語る時はものすごい熱量で、冒頭からエンディングまでモノマネを交えて正確に再現されるんです」とのこと[5]

無類の服好き。特にブランドものの洋服や靴、映画のDVDなどには目がなく、気に入ったものはすぐに買ってしまう。TAKEOKIKUCHIでは、小堺が足繁く通うことを知った菊池武夫が、自らコーディネートをするようになった程の上得意である。このこと(同じ服を色違いで買うことも多い)を、かつてラジオ番組(のちの『コサキンDEワァオ!』)内で告白してしまったため、関根やリスナーに「服の中に家がある」などといつもネタにされている。買って殆ど着ないという服も多いらしく、ラジオ番組のリスナーや後輩芸人にあげたり、家に遊びに来たルー大柴に小堺が着ないからと勝手に持って行かれたりしている。しかも季節の変わり目になると、ルーから「小堺、服くれ」という催促のハガキが送られてくる。

関根勤が格闘技マニアでゴルフが得意であるのとは対照的に、スポーツに対する興味が薄い(ジムで体を鍛えることはしている)。ラジオ番組では、スポーツ選手の名前が読めないことがたびたびネタにされている。高望山を「たかのぞみやま」、川相昌弘を「かわそう」、野茂英雄を「のしげ」、現役時代の高木豊内野手を「たかぎとようち野手」と誤読した[19]ほか、沢村忠沢村栄治を混同したこともある。

キャロル時代からの矢沢永吉の大ファン。矢沢と対談した関根から、矢沢の飲み残しのミネラルウォーターをお土産として貰い、それを冷蔵庫で大切に保管していたことがある。

熱狂的なゴジラファンであり、自宅にはフィギュアを飾っている。年の瀬になると東宝の怪獣映画を無性に見返したくなるという。ゴジラのライバルで好きなのはキングコングモスララドン。モスラについては「政治家でいうと石破茂さんみたいなタイプ」、ラドンについては「『七人の侍』で宮口精二さんが演じた久蔵とイメージがダブる」と語っている[20]

お酒を飲む時は、映画『007』シリーズでジェームズ・ボンド愛飲の通称・ボンドマティーニを真似た、ウォッカベースのマティーニを好んで飲んでいる[5]

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エピソード

要約
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『いただきます』、『ごきげんよう』

『いただきます』の司会に抜擢された際、小堺は放送開始当日まで「ドッキリか何かだと思っていた」と語っている[注釈 9]。本人が聞いた話では、「ゲストであるおばさまタレントたちから可愛がられそうなキャラクターだから」との理由で司会に起用されたとのこと[5]

小堺を番組司会に大抜擢した横澤彪は、番組開始直後には「アルタへ遊びに来るような感覚で司会をしてください」と緊張をほぐすような発言をしていたが、2か月後には「いつになったら面白くなるんですか」とバッサリ斬り捨てるような発言をするようになり、小堺は肝を冷やしたという[21][注釈 10]。その後、関根勤を介して堺正章より「一人でしゃべってんじゃないよ」というアドバイスを受け、トークの技術を向上させた[7][注釈 11]

『ごきげんよう』が始まったばかりの頃には、前身番組『いただきます(IIを含む)』が生放送だったということもあってこちらも生放送だと勘違いされ、番組の放送時間に道を歩いていると通りすがりの人から「番組は?」と声を掛けられることが多く、タクシー運転手には小堺をスタジオへ送ろうと声を掛けられたことがある。その後も勘違いしている人がいるため、番組の放送中にはなるべく家を出ないようにしていた。

『ごきげんよう』での自分は聞き役に回ってゲスト出演者の話をうまく引き出し、引き立てる技術は知られるところである。盟友の関根勤は、小堺の代役で司会を務めた際に、改めて小堺の司会の上手さが分かったと語っている。しかし『ごきげんよう』に関根がゲスト出演した時には、ラジオ番組『コサキンDEワァオ!』出演時のテンションになり、他のゲスト出演者や観客を置き去りにして2人だけの世界でトークを繰り広げてしまった。

舞台『おすまし』

毎年、後輩芸人や舞台『おすまし』の出演者などを連れてニューヨークへ行き、ブロードウェイミュージカルや本場のショー・ビジネスを観ている[7]。小堺がいわゆる「お笑い芸人」ではなく、スマートに笑いを提供する「エンターテイナー」を志向していることを証明する一面であり、ナンセンスコントやマニアックな笑いを追求する盟友の関根とは対照的である。なお上記のように服好きであるため、ニューヨークに行っても服を買っている。このため、「ニューヨークに服を買いに行った」などと言われることもある。

『おすまし』では、歌、踊り、タップダンス、コント、トークなどアメリカンスタイルのショーを披露している[5][注釈 12]。以降『おすまし』に高いクオリティーを求めたため、舞台の本場であるニューヨークに毎年訪れては様々な舞台を鑑賞していた[5]

『おすまし』は好評で客席は毎年満員だったが、2017年に「僕にとっては居心地が良すぎる」と感じたことから、本舞台の終了を決めた[注釈 13]

その他仕事に関して

『ごきげんよう』が不動の人気を博した後にNHKから出演オファーがあり、その際NHK側から「どうですか? (売れたから)そろそろウチの局に出てみますか?」と高飛車に言われ、呆れると同時にNHKという組織に改めて強い怒りが湧いた体験があったという。

2015年4月4日から2020年3月28日までは、土曜午前8時から放送される毎日放送サタデープラス』のMCを務めていた。小堺が在阪局大阪本社制作のレギュラー番組を担当するのは、この番組が初めてである[注釈 14]生放送番組であることから、小堺は毎週土曜日には大阪で朝を迎えていた。

『ライオンのごきげんよう』終了後の2016年4月19日にはNHK総合『スタジオパークからこんにちは』に、同年9月5日にはテレビ朝日『徹子の部屋』にそれぞれ初出演を果たした[注釈 15]。2022年2月3日には、関根と共にコサキンとして同番組に出演した。

対人エピソード

以前、沢口靖子と共演したドラマにて、撮影当日になってから彼女とのキスシーンがあることを告げられ驚いてしまったことがある。しかも、自分はそのことで落ち着かない気持ちになったのに、沢口は平然と「じゃ、宜しくお願いします」と言ってきたため、小堺は「女優さんってすごいんだな」と改めて感心した。

三宅恵介を通じて明石家さんまとも意気投合。80年代よりさまざまな番組で共演している。さんまの「引き笑い」を「伝授」されるなど仲が良く、さんまが「あなた誰ですか?」と知らないふりをすると、小堺が(はげ上がった)額を手のひらで隠し、それでさんまが「小堺!」と気づくというギャグが定番になっている。

小堺は若手時代に萩本欽一から「やることなすことすべてを大将(萩本)に否定され、『お前なんか売れない』と言われ続けていた」などの仕打ちを受けたことがあり、当時の小堺は「週末はディスコで必ず踊りながら『萩本死ねーっ!』と言ってた」と回想している[7][21]。ただし、萩本が小堺に抱いた実際の第一印象は「売れる顔をしている」であり[注釈 16]、前述の仕打ちは「最初に俺が優しいと、お前らは『大丈夫だ、芸能界』と思ってしまう」と危惧した萩本が、小堺と関根にあえて厳しく接したものであった[22]。関根と同様に萩本には弟子入りをしていないため、萩本とは正式な師弟関係ではないが、現在は師弟に準ずる関係であることを認め合っている[注釈 16]

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出演

要約
視点

テレビ番組

太字は現在出演中の番組。

特番

テレビドラマ

映画

舞台

テレビアニメ

劇場アニメ

吹き替え

ラジオ

映像作品

  • コサキン仮面(2004年、興陽館
  • 小堺一機&柳沢慎吾LIVE ライブマン★コミック君!!テレビくん登場の巻(2004年、ポニーキャニオン
  • コサキンDEラ"ジオ"! クロ盤(2011年、ポニーキャニオン)
  • コサキンDEラ"ジオ"! グレ盤(2011年、ポニーキャニオン)

CM

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ものまねレパートリー

以下の6人に関しては、ラジオ『コサキン』の企画で本人の目の前でモノマネをし、本人から直々にモノマネをしていいという公認をしてもらった芸能人である。

他多数。

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ディスコグラフィ

要約
視点

すべてフォーライフ・レコードより発売。

シングル

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アルバム

さらに見る 発売日, タイトル ...

脚注

参考文献

外部リンク

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