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アディ・ジョス
アメリカ合衆国の野球選手 (1880-1911) ウィキペディアから
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エイドリアン・"アディ"・ジョス(Adrian "Addie" Joss、1880年4月12日 - 1911年4月14日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ウッドランド出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。
メジャーリーグ史上2人しかいない、通算防御率1点台の投手の一人。
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経歴
メジャーリーグデビュー前はウィスコンシンのタウンリーグなどで投げていた。ほっそりした体形だったジョスには、「ヒューマン・ヘアピン」のあだ名がついていたそうである。他にもジョスの父がウィスコンシンのチーズメーカーだったことから、彼にはよくチーズにちなんだあだ名がつけられていたという。
ウィスコンシン大学マディソン校を卒業後、1902年にクリーブランド・ブロンコスと契約し、メジャーデビュー。1年目は17勝13敗ながら、5つの完封勝利をあげる。2年目以降、抜群の球威と制球力でクリーブランドのエースとして活躍した。実働9年間のうち、防御率が2.50を超えたのは最初の1年だけで、以後防御率1点台のシーズンが5度にもなる。1905年から1908年までは4年連続20勝以上、1906年から1909年の間は、4年連続での防御率1点台という成績を残した。
1908年10月2日、後に殿堂入りするエド・ウォルシュ[1]と投げ合ったジョスは完全試合を達成する。投球数はたったの74球だった。1910年シーズン中に肘を故障し、同年7月11日の試合が最後の登板となった。この年のシーズン後半は出場せず、翌1911年には結核による髄膜炎を発症し、オハイオ州トレドにて急死する。31歳。引退後にスポーツ記者になるつもりだったそうで、地元紙への寄稿も死ぬ前の何年間か行っていた。
1978年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。野球殿堂の選手選考の基準として、メジャーリーグで10年以上のキャリアを持つものとする規定があるが、ジョスは現在この規定の唯一の例外である。
投手としての球種はハードカーブ、スローボール (米書 「guide to pitchers」より)
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル・表彰・記録
通算打撃成績
- 通算:296試合、817打数118安打、本塁打1、打点51、打率.144
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脚注
関連項目
外部リンク
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