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エイドリアン・カンポス
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エイドリアン・カンポス・スニェル(Adrián Campos Suñer, 1960年6月17日 - 2021年1月28日)は、スペイン・バレンシア県アルジラ出身の元レーシングドライバー。正式なスペイン語発音に近いアドリアン・カンポスと表記されることもある。
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ドライバー時代
初期の経歴
ラジコンカーのスペインチャンピオンになった後にサーキットレースに転じる。1983年から1985年にはドイツF3などで走り、1985年にはドイツF3選手権の年間ランキング3位に入賞し、1986年に国際F3000選手権にステップアップした。同年にはティレルのF1マシンをテストした。
フォーミュラ1
1987年

1987年にスペインのジーンズメーカー「ロイス (Lois)」のスポンサーマネーを持ち込み、ミナルディのF1シートを獲得する。同年のミナルディのマシン「ミナルディ・M186[1]」に搭載されるモトーリ・モデルニエンジンの信頼性が極めて低く、カンポスの完走は年16戦でわずか1回(地元のスペインGP)にとどまった。チームメイトのアレッサンドロ・ナニーニも同様の理由から3回の完走しか果たせなかったが、予選・決勝ともにカンポスはナニーニに対して遅れを取った。
F1デビュー戦のブラジルGPでは、フォーメーションラップのスタート時に出遅れて他車に追い抜かれた後、スタート時に自身の16番手グリッドにそのまま付けたためにこれが問題視され、3周目に黒旗を提示されて失格処分を受けた。
1988年
ミナルディで2年目を迎え、チームメイトは同じスペイン人ドライバーで前年のF3000でステファノ・モデナとチャンピオン争いをした新人ルイス・ペレス=サラが加入、イタリアンチームながらスペイン人コンビで挑むシーズン開幕となった。カンポスは予選でペレス=サラに対して開幕戦から5戦全敗した上[2]、第3戦モナコGP、第4戦メキシコGP、第5戦カナダGPの3戦連続で予選落ちすると、ジャンカルロ・ミナルディはシーズンの途中でカンポスをピエルルイジ・マルティニと交代させることを決断する。ミナルディチームからの公式発表では「カンポスはレーサーを引退して母国スペインでの後進の育成に携わることとなった」と発表された[3]。後任となったマルティニはその初戦デトロイトGPで6位に入賞し、ミナルディにF1初ポイントをもたらすという快挙を達成、カンポスにとって皮肉な結果となった。
スポーツカーレース
以後は散発的にツーリングカーおよびスポーツカーレースへ参戦したが、1994年にはスペイン・ツーリングカーレースで成功し、シリーズチャンピオンとなった[4]。1997年にフェラーリ・333SPでル・マン24時間レースに参戦し、これを最後にレーサーから完全に引退する。
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チーム運営
ドライバーから引退後は自身のレーシングチーム「カンポス・レーシング」を設立し、ニッサン・オープン・フォーチュナ選手権(後に「ワールドシリーズ・バイ・ニッサン」と改称)に参戦を始めた。1998年にこのチームの最初のドライバーとなったマルク・ジェネは、同選手権においてタイトルを獲得。そして翌1999年にはF1へとステップアップし、カンポス自身にとっても古巣であるミナルディからF1デビューした。
1999年には、後にF1史上最年少のワールドチャンピオンとなるフェルナンド・アロンソ(当時18歳)を同シリーズにおいてデビューさせた[5]。アロンソもチャンピオンとなり、国際F3000へとステップアップしていき、後にやはりミナルディからF1にデビューした。
その後、カンポス・レーシングは同選手権が改組されたワールドシリーズ・バイ・ルノーには行かずにGP2へと参戦カテゴリーを鞍替えし、「カンポス・グランプリ」「バルワ・インターナショナル・カンポス・チーム」へとチーム名を変えて参戦していたが、2008年にGP2からは撤退。2009年にF1の参戦権を得て、『カンポス・グランプリ』として2010年のF1世界選手権から参戦予定であった。しかし、スポンサー獲得などによる運営資金調達に難航し、シャシー製造を依頼していたダラーラへ支払う資金や参戦費用などが滞ったため、経営責任を問われ代表を辞任。チーム経営権も筆頭株主であるホセ・ラモン・カラバンテに譲渡し、カンポス自身は同組織の副社長に就任することが発表された[6]。以後、このチームは『HRT F1』としてF1参戦することとなった。
→詳細は「HRT F1 § カンポスとしての立ち上げ」を参照
「カンポス・レーシング」としてはレーシングチームを再組織し、若手育成のためアンダーカテゴリーへの参戦を再開[7]。2014年にはアレックス・パロウを見出し[8]、ユーロフォーミュラ・オープン選手権にカンポス・レーシングとして参戦[9]。2015年にパロウと共にGP3シリーズにステップアップ。2017年には「FIA F2」としてリニューアルされたF2への再参戦を果たし、同年のFIAヨーロピアンF3でチャンピオンとなったランド・ノリスをF2最終戦に起用しF2デビューさせた。同年シリーズ終盤戦には全日本F3を戦い終えたパロウもF2にデビューさせている[10]。このほか、日本の佐藤万璃音も2019年のFIA F2選手権にカンポス・レーシングから参戦した。
死去
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レース成績
要約
視点
イギリス・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ドイツ・フォーミュラ3選手権
フランス・フォーミュラ3選手権
マカオグランプリ
国際F3000選手権
フォーミュラ1
(key)
スペインツーリングカー選手権
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脚注
外部リンク
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