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エディ・マシューズ
アメリカ合衆国の野球選手 (1931-2001) ウィキペディアから
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エドウィン・リー・マシューズ(Edwin Lee Mathews, 1931年10月13日 - 2001年2月18日)はアメリカ合衆国テキサス州テクサーカナ出身の元プロ野球選手(内野手)。
ポジションは三塁手。屈指の強打者であり、通算512本塁打は後にマイク・シュミットに破られるまで三塁手としての最多記録であった。
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経歴
現役時代
1931年、テキサス州テクサーカナに生まれる。1949年、高校卒業と同時にボストン・ブレーブスと契約。このときいくつかの球団から誘いがあり、最も好条件を提示したのはブルックリン・ドジャースだったが、マイナーリーグで経験を積むことを選びブレーブスに入団している。
1952年にメジャー昇格を果たすと25本塁打を記録し、翌1953年には47本塁打を放ちナショナルリーグ本塁打王に輝く。1954年40本塁打、1955年41本塁打と3年連続で40本塁打を記録すると、以後1961年まで9年連続で30本塁打以上というナ・リーグ記録(後にマイク・シュミットが並ぶ)。ハンク・アーロンと共にブレーブスの主砲として活躍した。マシューズとアーロンがブレーブスで共にプレーした13年、2人が放った本塁打は合計863本に上る。
1957年にははじめてワールドシリーズに出場すると、第4戦でサヨナラ本塁打を放つなどブレーブスの世界一に貢献した。
1959年に47本塁打を放ち、自身2度目となる本塁打王を獲得。 1962年に肩を痛めてから成績は下降線を描き、1967年にはヒューストン・アストロズに移籍。そのシーズン途中にデトロイト・タイガースに移籍した。翌1968年も引き続きタイガースでプレーするが衰えは隠せず、この年限りで現役を引退した。
引退後

アトランタ・ブレーブスの永久欠番に1969年指定。
引退の翌1969年に古巣ブレーブスはマシューズのブレーブス在籍時の背番号『41』を永久欠番に指定した。
1970年にブレーブスのコーチに就任すると、1972年途中からは監督に就任。1974年まで務めたが、この1974年に後輩・アーロンの715号本塁打達成を目の当たりにしている。その後もオークランド・アスレチックス傘下のファームチームでもコーチを歴任した。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- BSN(ボストン・ブレーブス)は、1953年にML1(ミルウォーキー・ブレーブス)に、1966年にATL(アトランタ・ブレーブス)に球団名を変更
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 本塁打王:2回(1953年、1959年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:9回(1953年、1955年 - 1962年)
背番号
- 41(1952年 - 1966年)※アトランタ・ブレーブスの永久欠番
- 11(1967年 - 同年途中)
- 7(1967年途中 - 1968年)
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外部リンク
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- Atlanta Braves Eddie Mathews stats and bio
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