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ジョン・アンドレッティ
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ジョン・アンドリュー・アンドレッティ(John andrew andretti、1963年3月12日 - 2020年1月30日)はアメリカ合衆国のレーシングドライバー。
キャリアの中で、チャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)、IMSA GTP、ロレックス・スポーツカー・シリーズ、NASCARなど様々なカテゴリーのレースで活躍した。
父のアルド・アンドレッティ、弟のアダム・アンドレッティはともにレーサー。また、叔父にマリオ・アンドレッティがおり、インディカーチャンピオンのマイケル・アンドレッティとジェフ・アンドレッティはいとこである。
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レースキャリア初期
ジョン・アンドレッティは、1963年3月12日にペンシルベニア州ベツレヘムで「コーキー」とアルド・アンドレッティの元に生まれた。有名なアンドレッティレーシングファミリーの一員として、彼もまたレーシングキャリアを歩み始めた。幼い頃のカートから始まり、ジュニアストックカーとUSACミジェットを卒業した[1]。
アンドレッティはモラヴィアン大学[2]を経営学の学位で卒業、レースを始めていなかったら投資銀行家か株式仲買人になっていただろうと述べている[3]。彼は1984年にスポーツカーレースにデビューし、1986年にBMWノースアメリカチームから、IMSA GTPにシーズンフル参戦。デイビー・ジョーンズと組んで、ワトキンス・グレンで優勝を飾る事が出来た。1988のル・マン24時間レースでは、マリオ、マイケルのアンドレッティー一族でポルシェのワークスチームからポルシェ・962Cで参戦。総合6位に入った[1]。
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CART
アンドレッティは1987年にPPGインディカーワールドシリーズ(後のCART)に参戦し、ルーキーオブザイヤーを受賞した。1988年のインディアナポリス・モーター・スピードウェイでのデビュー戦では、マシントラブルにより21位に順位を下げるまで7位を走行していた。1991年、彼はCARTキャリアの唯一の勝利をオーストラリア・サーファーズパラダイスでのゴールドコーストグランプリで挙げたほか、インディアナポリス500ではキャリアベストの5位を獲得している。1994年、NASCARに軸足を移す形でインディ500への参戦を一時終了する。
IMSA GTPとロレックススポーツカーシリーズ
1986年のIMSA GT選手権にデビューしたジョンは、デイビー・ジョーンズとともにBMW・GTPをドライブ。BMWのIMSAでの成功は限られたものだったが、アンドレッティとジョーンズは9月21日のワトキンズ・グレン・インターナショナルでのレースで優勝した[4]。
1989年は、ボブ・ウォレクとデレック・ベルとコンビを組み、ミラーハイライフ/BFグッドリッチ・バスビー・レーシングで、ポルシェ・962でデイトナ24時間レースに出場し総合優勝を果たした。BFグッドリッチとしても総合優勝は初。その後のIMSAシーズンで、アンドレッティとウォレクは引き続きポルシェ・962をドライブし、ウェストパームビーチ・ストリートコースで優勝した[5]。アンドレッティは、その年のシーズンでポルシェドライバー中の最多ポイント(112)を獲得、総合5位でシーズンを終えた[6]。
2001年のグランダム・シリーズで、カイル・ペティーとのペアで、第9戦ワトキンスグレンでGTクラス優勝をしている。
2008年のデイトナ24時間レースに復帰し、ビジョン・レーシングのクロフォード・DP ポルシェをドライブ[7]。チームメイトはエド・カーペンター、A.J.フォイト4世、ヴィトール・メイラ。チームは総合25位でフィニッシュした。
NASCAR
要約
視点

アンドレッティは1993年にNASCARウィンストンカップ(現・NASCARカップ・シリーズ)デビューを果たした。デビュー戦のノースウィルクスボロスピードウェイでは、テックス・パウエルのチームのNo.72テックス・レーシングシボレーをドライブし、31位でスタートし、24位で完走した。 1993年に3レースを走った後、1994年から本格参戦を開始し、ホーガンレーシングのファイナンシャルワールドがスポンサーとなったシボレーを運転した。5月29日、彼は同じ日に行われるインディアナポリス500とコカ・コーラ600の両方に出走した史上初のドライバーになった。彼はマシントラブルに見舞われたものの、インディを10位、コカ・コーラ600を36位で完走した。シーズン後半戦はペティエンタープライズに移籍し、STPがスポンサードするポンティアックに車両変更する。この年の最上位フィニッシュは、リッチモンド・インターナショナル・レースウェイでの11位だった。彼はシーズンをランキング32位、ルーキーオブザイヤー争いを5位で終えた。

1995年はKマート/リトルシーザーズがスポンサーについたクラネフス-ハースの37号車フォード・サンダーバードをドライブ。サザン500でキャリア最初のポールを獲得し、トップ10フィニッシュを5回記録し、シーズンを18位で終えた。1996年シーズン途中ではRCAフォードがスポンサードするケール・ヤーボローの98号車に乗り換え(98号車のドライバーだったジェレミー・メイフィールドが、入れ代わりでクラネフスのチームに移籍)。ヘインズ500での5位をはじめ、シーズン中3回のトップ10フィニッシュを果たした。 1997年はペプシ400でキャリア初勝利を獲得し、ランキング23位。1998年はペティ・エンタープライズの43号車に戻り、勝利こそ無かったもののトップ10フィニッシュを10回記録し、キャリアベストのランキング11位を獲得した。1999年にはマーティンズビル・スピードウェイで残り4ラップでの逆転でキャリア2勝目を挙げたほか、フェニックス・インターナショナル・レースウェイではポールを獲得した。
2000〜2005
2000年シーズンの途中で、チェリオスがアンドレッティのメインスポンサーとなった。これは、ペティ・エンタープライズがメーカーをダッジに切り替える前兆でもあり、チームが今シーズンはポンティアックでレースしつつ、将来に向けてダッジの準備も並行で行うという二重体制となったため、チームの状況は悪化し始めた。この年はトップ10フィニッシュを2回記録したものの、ランキングは23位に落ちた。2001〜2002年は、アンドレッティはエリオット・サドラーに次ぐ2位でフィニッシュしたブリストルを含め3回のトップ10フィニッシュを記録(これはペティエンタープライズとウッドブラザーズレーシングにとって最後の1-2フィニッシュとなった)。 2003年シーズンはハースCNCレーシングとリチャードチルドレスレーシングからいくつかのレースを走った後、後半戦はペンゾイルがスポンサーとなったデイルアーンハートインクの1号車シボレーをドライブ。最高位はカリフォルニアの8位だった。
2004年シーズンはレギュラーシートが得られず、デイトナに1号車でスポット参戦した後、シーズンの途中からビクトリーブランドがスポンサーとなったppcレーシングの14号車フォードトーラスで参戦。シャーロットモータースピードウェイで22位でフィニッシュした。2005年は引き続きppcと契約したものの、資金不足のためチームは解散を余儀なくされてしまう。シートを失った彼はビリーバリューモータースポーツからクラフツマントラックシリーズに4戦ドライブし、メンフィスモータースポーツパークでは8位でフィニッシュした。彼はまた、ルーカスオイルがスポンサードするモーガン・マクルアモータースポーツの4号車シボレーで数戦カップレースに復帰し、ミシガンインターナショナルスピードウェイでは1ラップダウンの28位でフィニッシュした。
2006年はppcに戻り、ブッシュシリーズの10号車をドライブ。それまでジョンはブッシュシリーズにほとんど(1998年のデイトナで、カーブアガジャニアンパフォーマンスグループの96号車シボレーで13位フィニッシュしている)参戦していなかったことから、カップ戦に300戦以上参戦し、2勝を挙げているベテランにもかかわらずルーキーオブザイヤーの候補となるも、結局、ダニー・オクィンへの次点となる。

2007年のデイトナでは、ppcレーシングとの提携したブラウンレーシングの FreedomRoads / Camping World / RVs.comがスポンサードする10号車をドライブするも、チームへの資金提供が疑わしいものになったためアンドレッティはブラウンレーシングを離脱。チームは2台体制を維持するために2007年中にさまざまなドライバーを起用することとなる。離脱後のアンドレッティはターナーネットワークテレビジョンのレース放送などに関わりつつ、ペティ・エンタープライズから45号車で4戦に参加、そのほか、フロントロウモータースポーツやBAMレーシングからも数戦スポット参戦した。
2008年はフロントロウモータースポーツに移籍し、スプリントカップシリーズの34号車シボレーインパラSSをドライブしてデイトナ500に参戦した。その後、最初の10レースに参戦した後、インディカーチームに集中するためにチームを離脱した。
2009年は、フロントロウとアーンハートガナッシレーシングのパートナーシップにより、ウィンドウワールド、 myAutoloan.com 、およびタコベルのスポンサードする34号車でフル参戦。2010年以降はにフルタイムで走ることは無かったものの、NASCARでの最後のレースであるデイトナ500ではフロントロウモータースポーツの34号車をドライブし、117周目のアクシデントを乗り越えて38位でフィニッシュした。
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IRLインディカーシリーズ
要約
視点

2007年、アンドレッティは1994年にダブル(同じ日にインディ500とコカ・コーラ600に出場すること)を達成して以来のインディアナポリス500に戻った。彼はキャンピング・ワールドがスポンサードするパンサー・レーシングの3台目をドライブし、4周の予選走行の平均速度は221.756マイル毎時 (356.882 km/h)を記録。5月19日、彼は第91回インディアナポリス500決勝に8列目24位からスタートしたが、95周目にクラッシュして30位でレースを終えた。
2008年のインディ500はジェイ・ハワードと交代するかたちでロスレーシングNo.24ダラーラホンダで参戦し、予選では4周平均221.550マイル毎時 (356.550 km/h)を記録し21位グリッドを獲得。9回目の挑戦となる5月17日のインディ500決勝では、16位でフィニッシュした。その後、アンドレッティはミルウォーキー・マイルとテキサス・モーター・スピードウェイにも引き続き同チームから参戦し、6月6日に彼は残りシーズン全戦の契約を提示されたが、受け入れずに離脱した[8]。
アンドレッティのロスレーシングとの走行は、チームにいくつかの注目すべき結果をもたらした。彼はテキサス・モーター・スピードウェイレースで予選7位を獲得し、素晴らしいスタートを切ったものの16位でフィニッシュした。アイオワ・スピードウェイで23位からスタートし、着実に順位を上げて、ロスレーシングとしては最高位となる11位フィニッシュを達成した。その翌週のリッチモンド・インターナショナル・レースウェイではクラッシュでノックアウトされ、これがロスレーシングでの最後の参戦となった。ジョンが離脱後のロスレーシングは残りシーズンを1台体制で戦い、その後活動を停止した。最終的にアンドレッティは2008年のインディカーポイントランキングで30位となった。
2009年4月、アンドレッティとリチャード・ペティは、ドレイヤー&レインボールド・レーシングとの合弁事業を発表。これにより、アンドレッティは第93回インディアナポリス500で43号車をドライブすることになった。過去のインディ500とは異なり、この年のアンドレッティはインディ/シャーロットダブルを実行せず、加えてインディ500の準備のためにサザン500とコカコーラ600を回避した。アンドレッティは28日のバンプデーを経て、最終的にリードラップ最後尾の19位でフィニッシュした。アンドレッティはインディアナポリス500の後、6月のドーバー400からフロントロウモータースポーツで34号車をドライブしてNASCARに戻った。
2010年3月31日、アンドレッティは2つのイベントでリチャードペティ及びウィンドウワールドと協力すると発表。 No. 43は、ジョンのいとこであるマイケルが所有するアンドレッティ・オートスポーツが支援するエントリーとして戻ってきた。チームの最初のレースとなった、5月1日にカンザススピードウェイで開催されたRoadRunner Turbo Indy300では、アンドレッティは15位で予選を通過したが、1ラップダウンの9位でフィニッシュした。5月30日の第94回インディアナポリス500では、ポールデーで予選に失敗した後、2年連続で参加したバンプデーを28位で通過。決勝では65周目にクラッシュし、30位でレースを終えた。
アンドレッティは、ウィンドウワールド、ペティ、アンドレッティオートスポーツと提携して100周年を迎えた2011年のインディ500にも出場し、22位でフィニッシュした。
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私生活

ジョンは中央インディアナコミュニティで活躍。毎年ブリックヤード400週間の間、彼は93.1 WIBC、デイブ「ザキング」ウィルソン、ゼネラル・ミルズと協力してライリーレースを開催し、ジェームズウィットコムライリーホスピタルフォーチルドレンに恩恵をもたらした。
2007年からはシリウスサテライトラジオのNASCARチャンネル90でジョン・カーナンと「ザ・ドライバーズ・シート」の共同司会者を務めた。
ジョンの息子であるジャレットは、 アメリカ合衆国自動車クラブ(USAC)スプリントカーのドライバーであり、後にGT4アメリカシリーズのドライバーとなっている[9]。
2017年4月、アンドレッティはステージ4の大腸がんを患っていることを公表した[10]。もともとステージIII-Aの癌と誤診されていた彼の癌の戦いは広く公表され、彼は#CheckIt4Andrettiと呼ばれるTwitterハッシュタグを開始し、大腸内視鏡検査を受けることを促進した。数ヶ月の化学療法の後、アンドレッティは2017年後半に一度は完治したと見なされていた。しかし2018年5月に癌が再発し、さらに転移していた。彼は再度化学療法での治癒を目指していたが、2019年3月下旬に癌が再び再発。
2020年1月30日に大腸癌により死去。享年56[11]。
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モータースポーツのキャリア結果
要約
視点
アメリカンオープンホイール
(キー)(太字レース磁極位置を示します)
PPGインディカーシリーズ
インディカーシリーズ
- 1同じ日に実行します。
- 2ポイントを支払わない展示レース。
- 3ラスベガスインディ300は、11周目に15台の自動車事故で負傷したダン・ウェルドンが死亡した後、放棄。
インディアナポリス500の結果
ナスカー
スプリントカップシリーズ
デイトナ500
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参考文献
外部リンク
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