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チャクリー王朝
タイの現王朝 ウィキペディアから
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チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年(タイ仏暦2325年)、ラーマ1世によって興されたタイの現・王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名もある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴代王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の高貴な称号である。
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歴史
要約
視点
ラーマ1世
ビルマから侵入したコンバウン王朝に取って代わりトンブリー王朝がタイを掌握すると、各地に軍閥のような勢力が力を付けてきた。華人のマハー・カサットスック公爵(後のラーマ1世)もそのような中の一人であった。トンブリー朝の王・タークシンはその圧倒的なカリスマ性と軍事力で何とかタイ全国を維持していた。しかし、タークシン王は晩年、精神に異常をきたし、そのカリスマ性にかげりが見え始める。その中で、官吏のサン伯爵がタークシン王を寺に幽閉し、自分が摂政に就任。これはマハー・カサットスック公爵がカンボジアの遠征の途上であった。サンカブリー伯爵はついで王位をもねらったが、急報を受けて帰還したマハー・カサットスック公爵によって摂政から降ろされた。

ラーマ1世はトンブリー王朝下でも破格の出世を遂げ、タイ史を通して滅多に与えられることのなかった公爵の位を受けた。そのカリスマ性はタークシンに負けず劣らずで、サンカブリー伯爵による反乱軍を制した後、官吏らに推挙され王位に就いたとされる。ここにチャクリー王朝は成立した。前王タークシンはラーマ1世に処刑されトンブリー王朝は滅亡した。
この王朝の体制は絶対王政であるとされるが、実際に王の威光が及んでいる地域はバンコクとその周辺地域のみであった。地方政治は中央に忠誠を誓う地方の豪族・あるいは中央の派遣知事に任ぜられ、その行政は実質野放し状態であった。
ラーマ2世・3世・4世
ラーマ2世、ラーマ3世は詩人であり、ラーマ4世(モンクット王)は仏教改革者あるいは西洋に門戸を開いたという功績がある。一方この時代、王は何十人もの妻と子供を持っていたため、王族の数が多くなり、権力は分散してしまった。中央政府では貴族の権力が強大で、戦時中以外は王の権力が一般に弱かった。王の特権は富と文化の中心であることだけだった。特にこの時代、有力貴族のブンナーク家が王族との婚姻により大きな力を付け、本来王が行うはずの王の承認まで口出しするようになった。
ラーマ5世
→「チャクリー改革」も参照
ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)は王権と国力を高めるため、近代化政策である「チャクリー改革」を行った。西洋を手本に国内の交通・通信を整え、中央政権支配の基礎を整えた。この時代、ラオス・カンボジアと南部の一部をそれぞれフランス・イギリスの植民地となった。残った領土を死守するため、タイを中央集権国家にすることを決め、各地の王を廃止し、各県を中央政府の支配下に置いた。一方、中央にはびこっていたブンナーク家は奴隷解放などの政策により財力を失い、官僚制導入によって、行政的な意味での支配力をほぼ失った。ラーマ5世は自ら文武官吏の長となって、貴族政治から離れた絶対王政をほぼ完全に実現した。
ラーマ6世
ラーマ6世(ワチラーウット王)は父王が築いた絶対王権によりやりたい放題だった。チャクリー王朝史上初めての留学生であった。愛国精神を強調し、財政の続く限りスアパー団(青年自警団)などの愛国主義に満ちた無意味な浪費を続けたため、官僚の不信感が高まった。華人系のチャクリー王朝はラーマ5世の代まで中国風の姓「鄭」を名乗り、優遇された華人が暴利を貪っていた。これに対し、ラーマ6世はこの華人優遇政策を一転し、論文『東洋のユダヤ人』を著して華人を批判した。一方で華人のタイへの同化を計り、属地主義を導入した。また、後継者を残すことを重要視せず結果として王位継承を複雑にしてしまったという問題もあった。こうした意見もある一方で事実としてタイの軍隊の近代化に高等教育の実施、省庁の整備など財政面以外での内政の評価は依然高く、見方によって評価が分かれる君主である。
ラーマ7世
→「タイ立憲革命」も参照
ラーマ7世(プラチャーティポック王)も留学により、より新しい西洋の教育を受けていた。このため、ラーマ5世、6世が「民主主義はタイの風土に合わない」と述べていたのとは異なり、民主主義には元来積極的であった。治世中にはラーマ6世の財政浪費が祟り、官僚の大幅な人員整理を行ったため、ラーマ6世時代から集積する官僚の鬱憤が次第に高まっていった。そのため、本格的な民主主義を実現しようと、憲法を公募し、その草案に加筆した上で発表しようとしたが、発表直前に残存していた王族勢力の猛反対に遭い、憲法布告をあきらめた。これを見た官僚勢力は猛烈に反発し、官僚のプラディットマヌータム男爵は陸軍勢力の陸軍大佐パホンポンパユハセーナー伯爵、 陸軍少佐ピブーンソンクラーム男爵と共同でタイ立憲革命を起こした。これにより、チャクリー王朝の絶対王政は崩壊した。
ラーマ8世
その後のチャクリー王朝の王は単なる傀儡として扱われた。ラーマ8世時にはその権威は完全に失墜し、太平洋戦争中には、日本との友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げることとなった[1]。
ラーマ9世
→「暗黒の5月事件」も参照
後継のラーマ9世は憲法の枠内での立憲君主として振る舞い、国王の権威を大きく回復した。即位してから20年続いた摂政時代には特に目立った行動はなかったものの、1992年の政変「暗黒の5月事件」の時には、当事者のスチンダー・クラープラユーンとチャムロン・シームアンの調停役を行った。このときの様子はテレビで放映され、当事者2人が国王の前に泣きながらひざまずいている姿は、国民に「タイ国王ここにあり」と見せしめ、一部では政治介入に危惧する声はあるものの、国王の評価が非常に上がり国民に尊敬されるチャクリー史上初めての国王らしい王となった。[要出典]
ラーマ10世
2016年10月13日のラーマ9世崩御後、1ヶ月半ほどの空位を経て、12月1日にラーマ10世が即位した。 2020年代に入ると学生らの間に、それまでタブー視されてきた王室批判や王室改革を求めるデモ活動と称した革命活動が一時期活発になったが、次第に勢いは沈下し、事態を重く見た王室がより一層公務を行うようになったため、一部の精鋭化した活動家を除き事態は収拾に向かいつつある。
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歴代王
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副王
チャクリー王朝には他のインドシナの上座部仏教国同様、副王(ウパラージャ)の制度があった。以下にチャクリー王朝期における副王を挙げる。副王から国王になったのはラーマ2世ただ一人で、副王の周りには反国王派などのたまり場となることが多く弊害が多かった(たとえば、ワンナー事件など)。そのためラーマ5世時を最後に任命されなくなった。同時に、西洋を真似て摂政と王太子の制度が導入された。
副王
副王代理
王太子
摂政
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王室の財産
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分家
太上王家
国王家
副王家
副王代理家
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王朝旗
- シリキット王太后旗
- 王妃旗
- 王太后旗
- 王太子旗
- テープラッタナラーチャスダー女公旗
- スリーサワーンカワット女公旗
- 王太子妃旗
- 国王の娘と姉妹旗
- 摂政旗
王室旗
- パッチャラキッティヤパー王女旗
- シリワンナワリー王女旗
- ソームサワリー妃旗
- シリパージュタポーン王女旗
- アティッタヤトーン王女旗
脚注
参考文献
関連項目
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