トップQs
タイムライン
チャット
視点
チャック・ノブロック
MLBの元選手 ウィキペディアから
Remove ads
エドワード・チャールズ・ノブロック(Edward Charles Knoblauch, 1968年7月7日 - )は、MLBの元選手。ポジションは二塁手、外野手。アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身。
Remove ads
経歴
要約
視点
ツインズ時代
1986年のMLBドラフトでフィラデルフィア・フィリーズから18巡目に指名を受けるが契約せず。1989年のMLBドラフトでミネソタ・ツインズから1巡目(全体25位)に指名を受け入団。
1991年に開幕メジャー入りを果たし、4月9日のオークランド・アスレチックスとの開幕戦でメジャーデビュー。8月31日のボルチモア・オリオールズ戦でマイク・ムッシーナからメジャー初本塁打を放つ。151試合に出場して打率.281・25盗塁を記録し、チームの前年地区最下位からの地区優勝に貢献。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.350と活躍し、チームはリーグ優勝を果たす。アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでは、3勝3敗のタイで迎えた最終第7戦で、遊撃手のグレッグ・ギャグニーと共に有名な「デコイ・プレイ」を行う。両チーム無得点で迎えた8回表、ブレーブスの先頭打者ロニー・スミスが安打で出塁。次打者のテリー・ペンドルトンが左中間を破る当たりを放つが、一塁走者のスミスが白い天井のため打球を見失う。それに気付いた両者が内野ゴロで併殺打を取るかのような動作を行い、これを見たスミスは二塁にスライディング。すぐに打球の位置に気が付いたものの、三塁でストップする羽目になった。試合はそのまま延長戦に入り、延長10回にツインズがワールドチャンピオンを決める劇的なサヨナラ勝利を収めた。結果的に大きなプレイとなったことについて本人は「いつも練習していた。いつかこのプレーが勝利に結び付けばと思っていた」と語っている[1]。打撃でも打率.308を記録するなど活躍を見せた。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では2位以下に大きく差を付けて受賞した。
1992年はオールスターゲームに初めて選出され、打率.297を記録。
1994年は2年ぶりにオールスターゲームに選出。1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、打率.312、キャリアハイでリーグトップの45二塁打を記録する。
1995年は打率.333・11本塁打・46盗塁の成績で初のシルバースラッガー賞を受賞。
1996年は前半戦で打率.370を記録し、2年ぶりのオールスターゲームに出場。いずれもキャリアハイの打率.341・197安打・140得点・14三塁打(リーグトップ)・98四球・出塁率.448・長打率.517を記録するなど自身最高のシーズンとなった。
1997年は打率.291、キャリアハイの62盗塁を記録し、ロベルト・アロマーを抑えて初のゴールドグラブ賞と2度目のシルバースラッガー賞を受賞した。
ヤンキース時代
球団の年俸削減方針により、1998年2月6日にエリック・ミルトン、クリスチャン・グーズマン、ブライアン・ブキャナンら4選手プラス300万ドルとの交換トレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。同年は打率.265に終わるが17本塁打を記録し、チームは独走で地区優勝。ディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズでは打率.167に終わるが、チームはリーグ優勝。サンディエゴ・パドレスとのワールドシリーズでは、第1戦で2-5とリードされた7回裏に同点となる3点本塁打を放ち、その後ティノ・マルティネスの満塁本塁打で勝ち越し、チームは勝利。打率.375と活躍し、ワールドチャンピオンの立役者となった。
1999年は打率.292、キャリアハイの18本塁打を記録し、チームはリーグ連覇を果たす。ブレーブスとのワールドシリーズでは第3戦の8回裏にトム・グラビンから同点2点本塁打を放つなど打率.313を記録し、チームは2年連続の4連勝でシリーズ連覇。しかし同年から特に一塁に悪送球をしてしまうイップスに悩まされ、自身ワーストの26失策。
2000年は故障で8月から1ヶ月離脱したが15失策。時には送球がフェンスを越えて観客席に飛び込み、観客を負傷させることもあった[2]。同年途中からは指名打者としても起用される。チームは3年連続でリーグ制覇を果たし、ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでも4勝1敗でシリーズ3連覇を達成するが、自身は打率.100に終わった。
2001年から左翼手にコンバートされる。敵地メトロドームでの古巣ツインズ戦の試合中、左翼の守備に就いていたノブロックに対し、ブーイングだけに留まらず観客席からホットドッグ、ビール瓶、ゴルフボール等が投げつけられ、当時のツインズ監督トム・ケリーが観客席近くまで行って騒ぎを鎮静化させるという事件が起こった。打率.250と移籍後最低の成績に終わり、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズでも打率.056と不振。チームは最終第7戦で逆転サヨナラ負けを喫し、シリーズ4連覇を逃した。オフにフリーエージェントとなり、12月18日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約。
ロイヤルズ時代
2002年は6月5日まで打率.167と打てず、故障で戦線離脱。復帰後にやや上向いたものの、結局自身最少の80試合の出場に留まって打率.210と振るわず、同年限りで現役引退。
引退後
2009年と2014年に共に妻に対する家庭内暴力で逮捕されている。2014年の逮捕時にはミネソタ・ツインズの殿堂選出が決まっていたが、この事件を理由に球団によって取り消された[3]。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
表彰
- 新人王(1991年)
- シルバースラッガー賞(二塁手部門):2回(1995年、1997年)
- ゴールドグラブ賞(二塁手部門):1回(1997年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:4回(1992年、1994年、1996年、1997年)
背番号
- 11(1991年 - 2002年)
Remove ads
脚注
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads