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デトロイト・ライオンズ
アメリカンフットボールチーム ウィキペディアから
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デトロイト・ライオンズ(英語: Detroit Lions、略称: DET)は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトに本拠地をおくNFLチーム。NFC北地区に所属している。ホームスタジアムはフォード・フィールド。本部と練習場は、デトロイトの南西にあるアレンパークに位置している。スーパーボウル誕生時点から存在するチームの中で、出場経験のないNFL唯一のチームである[注 1]。
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概要
デトロイトへ移転した1934年に、MLBのデトロイト・タイガースに呼応して、虎と同じネコ科の猛獣であるライオンをチーム愛称としたとされている。また、1934年から第二次世界大戦による中断をはさみサンクスギビングデーに長年ゲームを行っている。
歴史
要約
視点
草創期
1929年、オハイオ州ポーツマスを本拠地にポーツマス・スパルタンズ(Portsmouth Spartans)として創設。1年間の独立チームとしての経験を経て1930年にNFL入りを果たした。1932年にはディフェンディングチャンピオンのグリーンベイ・パッカーズに19-0で勝利した。このゲームを通してライオンズは11人の選手しか起用しなかった。シーズンを6勝1敗4分で終えたチームは6勝1敗6分のシカゴ・ベアーズとその年のプレーオフで対戦することとなった。試合が行われたシカゴはブリザードが吹き荒れて試合会場はリグレー・フィールドから屋内競技場であり両エンドゾーン間が80ヤードしかないシカゴ・スタジアムに変更された。この試合は0-9でスパルタンズが敗れた。1934年、スパルタンズはデトロイトのラジオ局のオーナーであるジョージ・リチャーズに売却され本拠地もデトロイトに移転した。リチャーズは新チーム名をデトロイト・ライオンズと名づけた。リチャーズは感謝祭当日に試合を行うことを決定し、これは第二次世界大戦中の数シーズンを除き現在もライオンズで引き継がれている。1935年にはQBのダッチ・クラークのもと、チームは初のNFLチャンピオンとなった。
黄金期

1950年代にはQBボビー・レーンを擁してチームは黄金期を迎えた。チームは1952年、1953年、1957年と3度ともクリーブランド・ブラウンズを破りNFLチャンピオンとなった[1]。またブラウンズに敗れたが1954年にもNFLチャンピオンシップゲームへの出場を果たした。
1957年のプレーオフ、サンフランシスコ・フォーティナイナーズとの試合では第3Qに7-27とリードされたところからQBのトビン・ロートはチームを引っ張り24点をあげて31-27と大逆転を果たした[2]。ライオンズはその後NFLチャンピオンシップゲームでクリーブランド・ブラウンズに59-14と圧勝した。この試合後、1991年シーズンのダラス・カウボーイズとのプレーオフまでライオンズはポストシーズンの勝利から見放されることとなった。
低迷期
1958年10月6日、チームは前年のチャンピオンシップゲームで負傷していたボビー・レーンをピッツバーグ・スティーラーズにトレードした。レーンはこれでライオンズがこの先50年優勝することはないだろうと言い残してチームを去った。これはボビー・レーンの呪いと言われた。その後50年間でライオンズがプレーオフに出場したのは9回、地区優勝は3回だけであり、プレーオフで勝ったのは1958年だけであった[1]。
チームはその後長期低迷し1960年代にプレーオフ出場0回、1970年代もプレーオフ出場はわずか1回であった。
1963年に実業家のウィリアム・クレイ・フォードによってチームは買収された。彼のチーム買収以降の50シーズンでプレーオフではわずか1勝しかあげることができていない。
1963年、アレックス・カラスが1年間の出場停止処分を受けた[3]。
1967年のドラフト1巡全体7位で獲得したRBメル・ファーは、その年の新人王に選ばれた[4]。
1970年、デュエットパートナーのタミー・テレルを亡くしたソウルシンガーのマーヴィン・ゲイがライオンズ入りを目指してトライアウトに参加した。彼はすぐにカットされたがメル・ファー、レム・バーニーら多くの選手と友人となったゲイはバックコーラスに選手たちを起用して「ホワッツ・ゴーイン・オン」を1971年リリースした。
1970年のプレーオフ、ダラス・カウボーイズ戦はディフェンス勝負の末、0-5で敗れた。1971年から1978年までは地区2位か3位の平凡な成績が続き、1979年には2勝14敗に終わった。この間、1974年11月18日のサンクスギビングデーの試合を最後にチームはタイガー・スタジアムを離れてポンティアック・シルバードームに移った。
1970年代、当時現在とは異なり、タイトエンドにレシーブ能力が求められていない時代、チームに所属したチャーリー・サンダースはブロックだけでなく、パスターゲットとしても活躍した。2007年に彼はプロフットボール殿堂入りを果たした。彼はヘアスタイルとフー・マンチューのようなヒゲでも人気者であった[5]。

1980年、ドラフト全体1位でハイズマン賞受賞者のRBビリー・シムズを獲得した[6]。
エースQBのゲイリー・ダニエルソンが負傷、第2QBのジェフ・コムロも結果を出せなかったことから、エリック・ヒップルが先発QBとなった[7]。
1981年10月19日のシカゴ・ベアーズとのマンデーナイトフットボールで、ヒップルはレナード・トンプソンへ94ヤードのTDパスを成功させた[8]。
1982年、1983年には連続してプレーオフ出場を果たした。しかし1984年にシムズがひざを負傷してわずか5シーズンで引退を余儀なくされると[6]、チーム成績は下降し、負け越しシーズンが続いた。
1989年のドラフト全体3位でRBバリー・サンダースを獲得した[9]。サンダースは、シーズンリーディングラッシャーにあと10ヤードの活躍を見せた。この年、ノーズタックルのジェリー・ボールは73タックル、9サックをあげてプロボウルに選ばれた[10]。
プレーオフ常連
1991年11月17日のロサンゼルス・ラムズ戦でオフェンスラインのマイク・アトリーが試合中負傷し[11]、半身不随となったが[12]、これによりチームの団結力が高まり、1983年以来のNFC中地区優勝を果たした。プレーオフでダラス・カウボーイズに快勝したがNFCチャンピオンシップゲームでシーズン開幕戦敵地で0-45と完封負けを喫した相手、ワシントン・レッドスキンズに10-41で敗れ、初のスーパーボウル出場を逃している。。1994年、前マイアミ・ドルフィンズのQBスコット・ミッチェルと契約した。1990年代にはRBバリー・サンダースの活躍で6度のプレーオフ進出を果たした。
低迷期再び
1998年シーズン終了後、契約を4年間残して、バリー・サンダースが引退した。引退後数年してからサンダースは負け癖に嫌気が差したことを理由としてあげた[9]。

しかし、2001年にマット・ミレン(Matt Millen)がCEO(事実上のGM)に就任してから成績は下降し始めた。2001年から2003年にかけてロードゲーム24連敗を記録。ドラフト上位指名権を得るものの2002年全体3位に指名したQBジョーイ・ハリントンなど[13]、失敗を繰り返し、ファンから「Fire Millen」をスローガンに解任運動が起こるほどだった。2008年シーズン、開幕から3連敗を喫し、ミレンは解任された。在任中の通算成績は31勝84敗だった。
2008年はその後も連敗を続け、史上初のシーズン16戦全敗を記録した。シーズン14試合制だった1976年に新規参入チームのタンパベイ・バッカニアーズが全敗を記録しているが、16試合制になってからの全敗はライオンズが初めてだった。シーズン終了後、ロッド・マリネリは解任されテネシー・タイタンズのディフェンスコーディネーター、ジム・シュウォルツが新ヘッドコーチ、スコット・リネハンがオフェンスコーディネーター、ガンサー・カニンガムがディフェンスコーディネーターとなった。
2005年のドラフト5巡目でQBダン・オーロフスキーを、2007年のドラフト2巡目でQBドリュー・スタントンを指名した。
2009年のドラフト全体1位指名権を得たチームはQBのマシュー・スタッフォードを指名6年7800万ドル(当時NFL史上最高の4170万ドルの保障つき)の契約を結んだ。当初はベテランQBダンテ・カルペッパーの控えとして経験を積ませるのではという見方が有力であったが開幕直前にスタッフォードがエースQBに指名された[14]。開幕からニューオーリンズ・セインツ、ミネソタ・バイキングスに連敗したが、9月27日、ワシントン・レッドスキンズを19-14で破りチームの連敗を19で止めた。その後シーズン未勝利のセントルイス・ラムズに敗れるなど、連敗を続け、第11週のクリーブランド・ブラウンズ戦で試合終了と同時に逆転TDが決まり38-37で2勝目をあげた[15]のみで2勝14敗でシーズンを終えた。
2010年には全体ドラフト2位でDTエンダムカン・スーを獲得した[16]。開幕戦のシカゴ・ベアーズ戦でカルビン・ジョンソンがタッチダウンしたかに見えたプレーが判定によりボールを確保していないと判断されパス不成功に終わり、14-19で敗れた[17]。この試合でスタッフォードがジュリアス・ペッパーズにサックされた際、右肩を負傷[18]、第2週からショーン・ヒルが先発QBを務めた。スタッフォードは第7週まで欠場した[19]。グリーンベイでの試合では1991年以来となる勝利が転がりかけたが終了間際にタッチダウンを奪われて負けた。しかし第14週の地元でのパッカーズ戦では2005年以来となる勝利をあげた。この年スタッフォードは故障がちでわずか3試合の出場にとどまり[20]、ドリュー・スタントン、ショーン・ヒルの出場機会が多くなった。チームは6勝10敗でシーズンを終えた。この年スーは最優秀新人守備選手に選ばれた[21]。
2011年、第2週のカンザスシティ・チーフス戦ではチーム記録の48得点(それまでの記録は1995年の45点)をあげるなど、開幕からスタッフォードとジョンソンとのホットラインなどの活躍で、1956年以来となる5連勝を果たした[22]。その後は、RBジャービッド・ベストが脳震盪によりシーズン絶望[23]、スーが相手選手をふみつけて2試合出場停止になるなどし、7試合中5試合で敗れたが[24]、第16週のサンディエゴ・チャージャーズ戦に勝利し1999年以来となるプレーオフ出場を果たした[25][26]。

2012年、シーズン開幕前、カルビン・ジョンソンがマッデンNFLのカバーアスリートに選ばれた[27]。この年、ミネソタ・バイキングスが1981年に作った709回を更新する740回(1試合あたり46.25回)のパスプレーを選択した。12月22日のアトランタ・ファルコンズ戦で、ジョンソンはジェリー・ライスのシーズンレシーブヤード記録を更新、最終週のシカゴ・ベアーズ戦では72ヤードのレシーブで終え、1,964ヤードと2,000ヤードレシーブにあと36ヤードでシーズンを終えた。チームはシーズン最後に8連敗し、4勝12敗でシーズンを終えた[28]。
2013年、バリー・サンダースがマッデンNFLのカバーアスリートに選ばれた。レジー・ブッシュが自身のキャリア最高の成績を残し、ラン1000ヤード、レシーブ500ヤードを記録した。この年シーズン最後の7試合で6敗し、7勝9敗でプレーオフを逃すと、シーズン終了後、シュウォルツヘッドコーチは解任された[29]。2014年、前オーナーが死去してマーサ・ファイアストン・フォードがオーナーとなった。2014年シーズンからはジム・コールドウェルがHCに就任し、QBスタフォードを擁して2014年、2016年とワイルドカードでプレーオフ進出を果たすがいずれも初戦敗退。2017年は地区二位となったがプレーオフを逃してコールドウェルは解任された。後任にはニューイングランド・ペイトリオッツのオフェンシブ・コーディネーターだったマット・パトリシアが就任した。だが2018年は地区最下位となり、二年連続してプレーオフを逃した。2019年も地区最下位となった。
オーナー交代そして強豪への復帰
2020年、前オーナーのマーサ・ファイアストン・フォードが引退し、娘のシーラ・フォード・ハンプが新たなオーナーに就任した。シーズンでは、4勝7敗と低迷した11月28日にGMとHCを解任し、HCはOCのダレル・ベベルが暫定的に就任するもプレーオフを逃し3年連続地区最下位となった。2021年1月14日、ロサンゼルス・ラムズのカレッジスカウティングディレクターだったブラッド・ホルムズをGMとした。2021年1月20日、ニューオーリンズ・セインツのアシスタントHC兼タイトエンドコーチのダン・キャンベルがHCに就任した。2021年1月31日、ドラフト権や複数選手を含むトレードによって、マシュー・スタッフォードをロサンゼルス・ラムズに手放す代わりにQBジャレッド・ゴフを得た[30]。だが2021年シーズンも4年連続で地区最下位となりプレーオフを逃した。2022年シーズンは最終戦までワイルドカードでのプレーオフ進出の可能性を残すも逃した。
2023年シーズンは、1993年以来30年ぶりの地区優勝を果たし、7年ぶりのプレーオフ進出を果たした。初戦では30年ぶりにホームでロサンゼルス・ラムズを倒し、プレーオフ9連敗を断ち切って32年ぶりの勝利をつかんだ。次戦でもタンパベイ・バッカニアーズを破って32年ぶりに2度目のNFCチャンピオンシップゲームに進んだ。サンフランシスコ・フォーティーナイナーズに敗れて初のカンファレンスチャンピオンはならなかった。
2024年シーズンは最終戦でミネソタ・バイキングスに勝って地区首位となり、第1シードでプレーオフに進んだ。だが初戦でワイルドカードのワシントン・コマンダーズに5つのターンオーバーを許して敗れた。シーズン終了後、ディフェンシブ・コーディネーターおよびオフェンシブ・コーディネーターが辞任し、それぞれニューヨーク・ジェッツとシカゴ・ベアーズのHCとなった。
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感謝祭ゲーム
1934年当時のオーナーのジョージ・A・リチャーズは、NBCブルーネットワークの主要なラジオ関連会社で、且つABCの前身であるデトロイトのWJRのオーナーでもあり、感謝祭当日の試合をライブ配信することをNBCと合意した。 それ以来ライオンズは、毎年感謝祭当日にホームで試合を組んでいる(1941年から1944年は第二次世界大戦のため、開催せず)。1966年以降はダラス・カウボーイズも感謝祭当日の試合を行っているが、両チームによる対戦が感謝祭当日には行われたことはない[注 2]。2006年以降はライオンズ戦、カウボーイズ戦以外にもう1試合組まれ、合計3試合がおこなれている[注 3]。
2024年シーズン現在の通算成績は、38勝45敗2分で勝率は.459である。
文化
マスコット
公式マスコットは、ライオンのローリー・ザ・ライオン(Roary the Lion)である。
チアリーダー
公式チアリーディングのデトロイト・ライオンズ・チアリーダーズ(Detroit Lions Cheerleaders)が活動している。かつて1963年にチアリーディングチームが誕生したものの、1974年に解散した。以降、オーナーのウィリアム・クレイ・フォードによる反対意見もあり、長らくチームには公式チアリーダーがいなかった。2010年8月、チームの非公式チアリーダーとしてデトロイト・プライド(Detroit Pride)が結成され、活動を開始した。その後、2016年6月12日に、公式チアリーダー「デトロイト・ライオンズ・チアリーダーズ」としてライオンズの組織に加わることになった。ライオンズとしては42年ぶりの公式チアリーダーになった。
2024年シーズン成績
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歴代成績
成績
NFC北地区(2002年-現在)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ
- 数字:シード順
- v:スーパーボウル優勝
- s:スーパーボウル敗退
- c:カンファレンス決勝敗退
- d:ディビジョナルプレーオフ敗退
- w:ワイルドカードプレーオフ敗退
- 年表示の背景色が変わっている年はチームがスーパーボウルを制覇した年
NFC中地区(1970年-2001年)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、TB:タンパベイ・バッカニアーズ
- 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
- 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
NFL西カンファレンス・中地区(1967年-1969年)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ
- 括弧内の文字はv:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退
- プレイオフは地区優勝チームのみ出場
NFL西カンファレンス(1953年-1966年)
- SF:サンフランシスコ・49ERS、GB:グリーンベイ・パッカーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、LA:ロサンゼルス・ラムズ、BAL:ボルチモア・コルツ、CHB→CHI:シカゴ・ベアーズ、DAL:ダラス・カウボーイズ、MIN:ミネソタ・バイキングス
- 括弧内の文字はV:スーパーボウル勝利、v:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFLナショナル・カンファレンス(1950年-1952年)
- SF:サンフランシスコ・49ERS、GB:グリーンベイ・パッカーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、LA:ロサンゼルス・ラムズ、BAL:ボルチモア・コルツ(初代)、CHB:シカゴ・ベアーズ、NYY:ニューヨーク・ヤンクス、DAL:ダラス・テキサンズ
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFL西地区(1933年-1949年)
- 1944年は、太平洋戦争の影響により、スティーラーズとカージナルスが合同チームで西地区に参加した。
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、CHC:シカゴ・カージナルス、CHB:シカゴ・ベアーズ、POR→DET:ポーツマス・スパルタンズ→デトロイト・ライオンズ、CLE→LA:クリーブランド・ラムズ→ロサンゼルス・ラムズ、CIN:シンシナティ・レッズ、StL:セントルイス・ガンナーズ、Card-Pitt:シカゴ・カージナルスとピッツバーグ・スティーラーズの合同チーム
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・地区優勝
NFL(1921年-1932年)
- 1932年以前はチームの入れ替わりが激しかったため、現存チームのみを表記する。
- NY・NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、GB:グリーンベイ・パッカーズ、BOS:ボストン・ブレーブス(現コマンダース)、POR:ポーツマス・スパルタンズ(現ライオンズ)、CHS→CHB:シカゴ・ベアーズ、CHC:シカゴ・カージナルス
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主な選手
現役選手
永久欠番
- ニューオーリンズ・セインツからトレードで来たパット・スウィリングは1993年〜1994年の間、背番号56を着用した。
プロフットボール殿堂入り
プライド・オブ・ザ・ライオンズ
→詳細は「プライド・オブ・ザ・ライオンズ(英語版)」を参照
- 4 ジェイソン・ハンソン
- 7 ダッチ・クラーク
- 20 レム・バーニー
- 20 バリー・サンダース
- 22 ボビー・レーン
- 24 ジャック・クリスチャンセン
- 28 イェール・ラリー
- 37 ドーク・ウォーカー
- 44 ディック・ラボー
- 50 アレックス・ウォージェホーウィツ
- 56 ジョー・シュミット
- 63 ディック・スタンフェル
- 71 アレックス・カラス
- 76 ルー・クリークマー
- 76 ロジャー・ブラウン
- 81 ナイト・トレイン・レーン
- 84 ハーマン・ムーア
- 88 チャーリー・サンダース
75thシーズンオールタイムチーム
→詳細は「デトロイト・ライオンズ75thシーズンオールタイムチーム(英語版)」を参照
ライオンズオールタイムチーム
→詳細は「ライオンズオールタイムチーム(英語版)」を参照
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歴代ヘッドコーチ
- ハル・グリフィン(1930年)
- ジョージ・クラーク(1931年 - 1936年)
- ダッチ・クラーク(1937年 - 1938年)
- ガス・ヘンダーソン(1939年)
- ジョージ・クラーク(1940年)
- ビル・エドワーズ(1941年 - 1942年)
- ジョン・カーシス(1942年)
- ガス・ドレイス(1943年 - 1947年)
- ボー・マクミリン(1948年 - 1950年)
- バディ・パーカー(1951年 - 1956年)
- ジョージ・ウィルソン(1957年 - 1964年)
- ハリー・ギルマー(1965年 - 1966年)
- ジョー・シュミット(1967年 - 1972年)
- ドン・マカファーティ(1973年)
- リック・フォーザノ(1974年 - 1976年)
- トミー・ハドスペス(1976年 - 1977年)
- モンテ・クラーク(1978年 - 1984年)
- ダリル・ロジャース(1985年 - 1988年)
- ウェイン・フォンテス(1988年 - 1996年)
- ボビー・ロス(1997年 - 2000年)
- ゲイリー・モーラ(2000年)
- マーティ・モーヒンウェグ(2001年 - 2002年)
- スティーブ・マリウッチ(2003年 - 2005年)
- ディック・ジャーロン(2005年)
- ロッド・マリネリ(2006年 - 2008年)
- ジム・シュウォルツ (2009年 - 2013年)
- ジム・コールドウェル (2014年 - 2017年)
- マット・パトリシア (2018年 - 2020年)
- ダレル・ベベル (2020年) (暫定)
- ダン・キャンベル (2021年 - )
- ジョージ・クラーク
- ジョー・シュミット
- ダリル・ロジャース
- ボビー・ロス
- スティーブ・マリウーチ
- ジム・シュウォルツ
脚注
外部リンク
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